第57回 食の冒険家 小泉武夫さん

ヤシガニを捕って宿に戻る(西表島)
「冒険家」への道
 卒業後は恩師の薦めもあって,大学院に進むことにしました。そして研究室での日々を送るうちに,次第にこう考えるようになったのです。
 「俺は中学生の時に考えていた冒険家になれるかもしれない」
 当時,海外の発酵食品はほとんど日本では紹介されていませんでした。そこで世界中の発酵食品を訪ねてつくり方を調べたり,その民族と食文化の関係を探ったりしようと思ったのです。
 また当時刊行されたばかりの,冒険家の植村直己さんの著書にも影響されました。植村さんの年齢は私と近いこともあって,「こんなにすごい人がいるのか」と一遍に憧れてしまったのです。
 ところが,周囲の人からは「忍耐力がないし,精神力も弱いから無理だ」と反対されました。その時は我ながらもっともなことだと思いました。
 それでも私はあきらめることができませんでした。一年近く考え抜いた末に,やっと思いついたのが今まで誰も経験したことのない冒険家でした。それが「食の冒険家」だったのです。食べることには自信があったし,世界の発酵食品を探し求めることは発酵学の研究の上でも有益だと思ったのです。以来,今日に至るまで,世界の国々のさまざまな食べ物を訪ね歩いて紹介してきました。


驚異の発酵食品
 「これまで出会った中で,世界一珍しい食べ物は何か」ということをよく質問されます。すると,私は迷うことなく「石川県の美川町にある,ふぐの卵巣の糠漬け」と答えます。
 ご存じのように,ふぐには猛毒があります。特に卵巣の部分は最も毒の濃いところです。ところが,「毒抜き」と言って塩漬けした後の卵巣を糠味噌に三年も漬けておくと,美川町に生息している発酵菌が毒を分解して無毒にしてしまうのです。これは驚くべき知恵です。
 また,未だに出会う機会がない食べ物もあります。昨年,私はカムチャッカ半島を訪れました。イテリミン族という民族に会うのが一つの目的でしたが,残念ながら会うことは叶いませんでした。彼らは魚を捕ると,魚の腸の膜にさまざまな魚卵を包んで土の中に三年ほど保存してから食べるのです。それをぜひ一度食べてみたいと思っています。


発酵の魅力とは?
 私はトルコのクルド人の村で,一七〇年前のチーズに出会ったことがあります。とても硬くなっていましたが,腐っていませんでした。
 また,発酵食品のルーツを求めたNHKの番組取材で,中国の広西チワン族の山中に行きました。そこで四〇年前の鯉のなれ鮨に出会ったこともあります。魚も四〇年間発酵すれば腐らないのです。
 このように,発酵食品の魅力の一つは腐らずに保存ができるということです。
 牛乳を放置しておくと,すぐに腐ってしまいます。ところが,乳酸菌という発酵菌を入れたらヨーグルトになってほとんど腐りません。大豆も煮たまま放置しておくと,翌日には臭いがして食べたら大変です。しかし,大豆に納豆菌を付けて納豆にすれば腐らないのです。それは腐らない物質を発酵微生物が出しているからです。
 発酵食品の魅力はそれだけではありません。発酵させることによって,極めて栄養価が高くなるし,くさくて非常においしいのも魅力です。
 さらに,健康的機能性も魅力の一つに挙げられます。納豆には血液がさらさらになる効果があるし,ヨーグルトは優れた整腸剤として知られています。単に牛乳を飲むだけでは牛乳と人間の関係しかありません。ところが,ヨーグルトにして食べると,乳酸菌という全く別種の生命体が牛乳と人間の間に介在するのです。納豆も同様です。
 もちろん,発酵菌は人間のためにビタミンや免疫力を強める物質をつくっているわけではありません。納豆菌も乳酸菌も,大豆や牛乳に繁殖して自分たちだけの世界をつくる遺伝子を持っています。そして繁殖する際に,外からくる菌に対して免疫力がある物質が生まれるのです。それを人間が利用しているのです。

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