第57回 食の冒険家 小泉武夫さん

『冒険する舌 ― 怪食紀行秘蔵写真集』(集英社インターナショナル)
知られざる発酵産業の世界
 発酵とは味噌や醤油,酒,チーズ,ヨーグルト,納豆のことだけだと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし,それだけではありません。
 実は日本における発酵産業の総売り上げ額の中で,発酵食品自体は全体の二割しかないのです。その二割の中には一兆五千億円や一兆四千億円などのビール会社の売り上げをはじめ,全国の日本酒醸造会社や味噌製造業,醤油会社,漬け物会社,納豆製造業などの売り上げも全て含まれています。全部合わせたら大変な額です。それがたったの二〇パーセントしかないのです。
 では,あとの八〇パーセントは何でしょうか。
 一番大きな比率を占めているのが医薬品です。抗生物質といえばほとんどの人が知っているでしょう。抗ガン剤,抗エイズ剤,抗ウイルス剤などは全て発酵を利用してつくられたものです。また,胃腸薬や整腸剤,ホルモン,ビタミンなども発酵でつくられています。
 医薬品の次に大きな市場は,微生物を使った化学製品の分野です。代表的なのは多くの食品産業や医薬品などに使われているアミノ酸です。また,核酸や有機酸,糖なども発酵を利用して生産されています。
 その他にも,酵素の産業があります。たとえば,汚れを分解する酵素入り洗剤,酵素入り歯磨き粉などがそうです。また,酵素にはアントシアナーゼという変わった酵素もあります。これは赤ワインの色のもとであるアントシアニン系色素を分解して,色を薄くしてくれる酵素です。この酵素を使えば,濃い原料ブドウの色をほどよい色に変えて,見栄えのよい赤ワインの色をつくれるのです。
 酵素は病気の検診にも使われています。さまざまな異常代謝物質の有無を,酵素を利用して判別するのです。以前は検査結果が出るまでに四,五日かかりましたが,今では午前中に採血と採尿をしたら,午後には自宅に結果を知らせるファックスが届くほどの速さです。
 さらに,発酵は環境浄化にも利用されています。いわゆる環境発酵という分野です。下水処理場では,たまった汚水を大きな機械で攪拌したり,空気を送り込んだりして発酵させます。そして微生物に有機物を食べさせてきれいな水にするのです。
 このように発酵産業というのは,今や数十兆円にものぼる巨大な市場となっています。


日本の「食」を変えたい
 私は『ニッポン東京スローフード協会』の最高顧問を務めています。それは,日本人の歪んだ「食」の姿を変えたいという思いがあるからです。
 今や農家の八割が兼業農家で,専業農家は二割しかいません。その二割の専業農家も,高齢化が進んで生産能力は衰えつつあります。
 主な先進国の食糧自給率を見ると,オーストラリアが三二七パーセント,カナダ一八六パーセント,フランス一三六パーセント,アメリカ一二七パーセント,ドイツ一〇四パーセントとあります。
 ところが,日本はわずか四〇パーセントしかありません。食糧の六〇パーセントを海外からの輸入に頼っているのです。これでは食に対する安全や安心はないに等しいでしょう。日本の国際競争技術力も低下してきており,いつまで海外から食糧を輸入できるかという経済的不安もあります。
 私は今こそ,地元で取れた食べ物を地元で消費する「地産地消」という姿に何とか戻したいと考えています。これがスローフードです。昔のように食べ物を自分たちでつくり,自分たちが食べるお手伝いをしたいのです。
 それから環境問題も深刻です。日本は世界で最も生ゴミを燃やしています。実に生ゴミ全体の九二パーセントを燃やしているのです。アメリカでさえ一七パーセントしか燃やしていません。あとはみんな自然に帰しているのです。
 莫大なお金を投じて建設した焼却施設で,大量の二酸化炭素を排出して地球温暖化に貢献し,ダイオキシンの出る灰をつくる。こんな愚かなことはありません。生ゴミを全部発酵させて,堆肥にして肥沃な土で農業を営めば,農家も潤い,理想的な地方経済循環システムができるのです。
 今,私は生ゴミを燃やさない運動を展開しています。その運動には全力を注ぎたいし,新たに生ゴミ処理施設を建設することには体を張って反対するつもりです。
 もう一つ力を入れたいのが食育です。大人がスローフードに取り組んでも,次の世代の子どもたちにスローフード精神を受け継いでいかなければ意味がありません。
 食育は,「食」いう字面から安易に捉えられがちです。しかし,食べ物のありがたさや行儀作法など,むしろ目に見えない部分を小さい時から教えることが必要なのです。


(写真提供・小泉武夫/構成・桑田博之)
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