第57回
食の冒険家
小泉武夫さん
2004年6月号掲載


PROFILE
食の冒険家,農学博士(東京農業大学教授)。一九四三年,福島県の酒造家に生まれる。醸造学,発酵学の第一人者として大学の教壇に立つかたわら,学術調査を兼ねて世界の辺境を精力的に訪れる。また,作家(すばる文学賞候補にノミネート),エッセイスト(新聞各紙や雑誌で連載中),発明家(食物・微生物関連で特許二十六件),コピーライター,国立民族博物館の研究員など多方面でも活躍。これまでの著書は八十冊を超え,近著に『不味い!』(新潮社)や『くさいはうまい』(毎日新聞社),『冒険する舌』(集英社インターナショナル)などがある。

味覚人飛行物体は今日も飛ぶ
(西表島でこれから食べるカニを捕る)
あだ名は私の勲章
 私には子どもの頃からおもしろいあだ名がいくつもありました。
 中学生の時は,いつも鞄の中に缶切りや割り箸,醤油,缶詰,マヨネーズなどを入れて持ち歩いていました。缶詰は秋刀魚の蒲焼き,烏賊の丸煮,鯖の水煮,鯨の簀の子,鰯の醤油煮などです。おまけに通学路の周囲が畑ばかりで,手を伸ばせばトマトもキュウリもあります。ですから,当時発売されたばかりのマヨネーズがとても重宝しました。そんな私に付いたあだ名が「歩く食糧事務所」でした。
 大学生の時は「走る酒壺」です。私が酒豪の上,宴席からいつの間にかいなくなったり,あるいは不意に現れたりして,方々を飲み歩いていたからです。
 食の冒険家になると,そうした神出鬼没ぶりにさらに拍車がかかりました。日本国内だけではなく,海外も忙しく飛び回っているので,付いたあだ名が「味覚人飛行物体」。これは私も気に入っていて,今では商標登録しています。
 それだけではありません。世界の発酵食品を紹介したり,本を書いたりするうちに,月光仮面ならぬ「発酵仮面」というあだ名も頂戴しました。
 このように,あたかも出世魚のごとく,次々と付けられたあだ名は私の勲章だと思っています。


野山を駆け回った少年時代
 私は福島県小野町の,三〇〇年続く造り酒屋に生まれました。小さい時からのさまざまな生活環境が,その後の人生を実に大きく左右したのです。
 たとえば,風呂場には常に酒の匂いが立ち込めていました。それは,酒蔵で酒造りに使う木の瓶や,酒をかき回す櫂棒などを大釜で湧かした熱湯で殺菌するのですが,その湯を捨てるのがもったいないので風呂の湯に使っていたからです。
 また,私がよちよち歩きを始めると,とても活発でいつも生傷が絶えませんでした。あまりにも動き回るので,祖母が三尺帯を二本つないで,その端に私を縛り,もう一方を母屋の柱に縛っていました。そして私の左手には味噌,右手には身欠き鰊を持たせて,鰊に味噌をつけてしゃぶらせていたのです。食べている時は私がおとなしいのを祖母は知っていたのでしょう。これが,私の味覚の原点になっていると思います。
 家の周りは自然が豊かで,小学生の頃は愛犬と山の中を駆け回っていました。そして何でも口にしました。一番食べたのはシマヘビです。棒で叩いてその場で皮をむき,竹串に打って焚き火で焼きました。また,赤蛙もよく食べました。あれは本当に美味で,名古屋コーチンや比内鶏に負けないくらいの味だと今でも思っています。


発酵学との出会い
 私の母は,私が小学生の時に亡くなりました。父は母親がいないために私が萎縮しては困ると考えて,私に何でもやらせてくれました。特に私がいろいろなものを捕まえて食べるのを見て,料理に向いていると思ったのでしょう。私が小学四年生頃から,台所で料理をさせてくれたのです。
 私は夢中になって料理をしました。それは母親がいない寂しさを紛らわせていたのかもしれません。それ以来,料理の腕は研鑽を積んで,今では名人級の腕前と自負しております。自宅には「食魔亭」という自分の厨房を誂えたほどです(笑)。
 このように,小さい時から父に自由にさせてもらったのは非常にありがたかったと思います。
 また,料理だけではなく,読書も好きでした。『トムソーヤの冒険』をはじめ,数々の冒険物語を好んで読んでいました。そのため,中学生の時は「将来は何になりたいか」と聞かれると,躊躇せずに冒険家と答えていたほどです。
 ただ,その後もずっと冒険家だけを目指していたわけではありません。大学受験の時は家業が造り酒屋なので,当時は日本に一つしかなかった東京農業大学の醸造学科に迷わず進みました。
 そこで出会ったのが発酵学です。大抵の学生は酒,味噌,醤油などを研究テーマに取り上げます。ところが,私の場合は父が鮒寿司やくさやを好んで食べており,私自身も小さい時から慣れ親しんでいました。そこで,みんなとは異なる発酵食品の研究に没頭していました。


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