第35回 スポーツドクター 小山由喜さん

中高年の外来患者が軽い水中ウォーキングでリハビリ中。プロの選手は,ランニングマシンを水中に沈めてなど,ハードにトレーニング
スポーツ医学を志した理由
 今僕が開業しているこの場所で,父は内科の小さな診療所をしていたんです。僕は昔の人間ですから,父親の仕事を継がなきゃいかんっていう観念が幼いころからありましたね。パイロットになりたいとか考えることもなく,何の不思議もなく医者になるもんだと思ってました。
 中学生のころは,とても体の弱い子でした。よく風邪も引いたし,一度はひどい肺炎を患いましてね,一ヶ月ほど入院したんです。入院といっても親父の専門分野ですから,自分のうちの病院ですけれど(笑)。体も細くてかなり弱っていたからでしょう,親父がペニシリンを打ってくれたときに,ショックを起こして死にかけたんですよ。なんせ入院中のことだから,大事には至らなかったけれど,親も自分もショックは大きかったですね。
 「これは体力をつけないかん」と,第一課題にあげて,高校に入りました。当時運動クラブのある学校と選んだのが,鈴鹿市にある神戸高校という高校です。幼いころから山や川や海と駆け回ってましたから,体力はなくても運動能力は高かったんじゃないかと思います。陸上部に入り,短距離で県大会に出たら,高校一年でいきなり優勝しちゃったんですよ。山口で開かれたその年の国体に出場したら結構いい成績で,陸上にどんどんはまっていきましたね(笑)。
 二年のときには,東京オリンピックのプレオリンピックに,陸上四百メートルで出場しました。そこで出会ったのが,当時陸上の世界でスーパーヒーローだったピーター・スネルです。ローマオリンピックの八百メートルで金メダルをとっていて,翌年の東京オリンピックでは八百メートル,千五百メートルと金メダルを獲得。合計三つの金メダルだけでなく,当時のオリンピック記録で優勝するなどすばらしい記録を残して,のちに,ニュージーランドの「二十世紀を代表するスポーツ選手」に選ばれたような人です。そのピーター・スネルが「君の素質はすばらしいから,ニュージーランドに来なさい」と言ってくれたんです。憧れの人に認められて,それはもう,有頂天になりました(笑)。僕は陸上で生きていくんだといって,親を困らせましたね。「医者を継げ」という親に反発して,「なんでわかってくれないんだ」と一日だけの家出もしました(笑)。
 高校三年のときには新潟での国体の陸上四百メートルで優勝しました。順調に世界が見えてきていただけに,進路についてはかなり悩みました。医者にならなくてはいけないという観念的な気持ちと,夢を追って世界に飛び出したいという気持ち。二律背反した気持ちを抱えながら,自分はどういう道を進むべきか,一生懸命考えました。それで,陸上をしながらも医者への道も進めるところを探し,順天堂大学医学部に進学します。
 順天堂大学には,医学部と体育学部(現在のスポーツ健康科学部)の二つの学部がありました。医学部に入学はしたんですが,二年間の基礎過程を体育学部の人たちと四年間やりました。昔のことだから出来たのだと思います。医学部で勉強していたのでは本格的に陸上が出来ない。でも医学部にいなくては,医者になれない。体育学部で第一線の陸上をしながら四年,その後,医学部過程四年,計八年かけて大学を卒業しました。
 陸上選手時代は,しょっちゅう肉離れを起こしていました。それも大きな試合の前になるとなぜか起こる(笑)。今は副作用が強いと日本では認可されていない,蜂の毒から作られたよく効く薬があったんですね。それでごまかしごまかし試合に出てました。試合途中に肉離れを起こしてもそのまま棄権せずに走ったこともあります。体のことを考えたら,すぐにも棄権して安静にするべきでしょう。でもそれでも走りたいというのが,選手の気持ちなんです。怪我をしたときの苦い気持ちを抱えてきたからこそ,大学在学中のかなり早い時期から,将来は整形外科でスポーツ選手のサポートをすると決めていました。「スポーツ医学」という言葉がちらほら使われ始めたのが,大学を卒業するころでした。


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