新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第11回
デービッド・ブルさん
photo


PROFILE
1951年、イギリス生まれ。5歳のときにカナダに移住。楽器店、フルート奏者、作曲家などさまざまな仕事をしたのち、日本人女性と家庭をもち、1986年、日本に移住。英会話教室を開きながら木版画を制作し、『錦百人一首あづま織』100点を復刻して話題を呼ぶ。以来30年にわたり木版画家として活躍。現在は東京・浅草に「木版館」を出店している。

木版画は版木を作る「彫り」と、紙に色を写す「摺り」を経てできる。
デービッドさんはひとりで「彫り」と「摺り」の作業を行っている。
教育熱心な両親
 私はイギリスで生まれました。5歳のときにカナダに移住してから30年暮らし、現在の日本に移り住んで30年になります。工場街で生まれ育った私の両親は、戦争になった際、彼らが10歳か11歳の頃ですが、学校をやめて工場に勤めたそうです。両親の教育は若いうちに終わってしまったのです。そして結婚をして、私が生まれました。
 両親は、十分に教育を受けられなかった自分たちの分まで私にたっぷり教育を受けてほしいと願い、私が3歳の頃に地域でトップクラスのスクールに通わせました。幼稚園とは違って、学校に行く前の準備として勉強ができるところです。結構お金がかかったのですが、3歳の頃から毎日、帽子をかぶり、小さいスーツを着て、ショートパンツをはいて、ひとりでロンドンの地下鉄に乗って通学していました。今も写真が残っていますが、その頃のことは覚えていません。3歳から5歳の頃なんて遊ぶ期間なのに、「教育!教育!勉強しなさい!」と言われていたので、今、当時の写真を見ると嫌な気もちがします。
 5歳のときにイギリスを離れて、カナダのバンクーバーへ移住しましたが、クラスの様子など、イギリスと比べて文化が全然違っていました。英語の使い方も違いますし、何より私はスクールに行っていたおかげで、すでに新聞が読めるほど文字を知っていました。
 6歳から学校が始まりましたが、新聞が読めるレベルの私にとって、授業は退屈でした。「これはA、次はBそしてC…」なんてつまらなくて、学校に行きたくなくなりました。授業を受けていても、先生の話など聞かずにただひたすら時間が過ぎるのを待つだけでした。
 カナダの学校は9月から始まります。新しい学年が始まると新しい教科書が配られますよね。カナダの教科書は日本のものと比べると厚い本なんです。私は喜んで読んだのですが、1週間も経たないうちにすべて読み終わってしまいました。まだ1年も残っているのに! とまた時間が過ぎるのを待つ日々になってしまったのです。
 日本の小学校はとても素晴らしいと思います。私の娘2人も1年生から6年生まで通いましたが、本当に幸せでした。みんなで一緒にできるような活動をしたり、仲良く遊ぶことができるようにすることを学んだり、自分の教室の清掃をしたりということがとてもいいと思いました。しかし、中学校に入るとどの高校に入るかだとか偏差値だとかという問題になってしまうのが残念です。


大学をやめ、興味のままに生きる
 中学校、高校へ進んでも学校生活をつまらなく感じていた私は、きちんと勉強することもありませんでした。それでも、高校を卒業した後は両親の強い希望で大学へ進学しました。
 当時のカナダの州立大学は入学試験がなく、希望すれば誰でも入ることができました。高校までがつまらなかったものですから、大学は違うかな、楽しいこと、面白いことがあるんじゃないかなと期待していました。しかし、いざ通ってみると、大学も同じように決まった時間に決まった場所で決まった授業を受けなくてはなりませんでした。1週間は大学へ通いましたが、そこでがっかりしてしまった私は、それから大学に行かなくなりました。私は寮に住んでいたので、両親には大学へ通っているふりをしながら、一日中街で遊んだり、当時はまっていたフルートの練習をしたりしていました。
 それが両親の知るところとなったのは、春になり、すべての授業に落第している成績表が父のところへ届いたときでした。父は「私たちは食べ物すらないなか、自分たちにチャンスがなかった分あなたのために頑張ってやってきたのに、なんで大学へ行っていないんだ」と怒って私を勘当してしまいました。実は私もそのとき自分の置かれた環境を窮屈に感じていたので、大学をやめて自由に暮らしたいと思っていました。
 私はそのとき18歳でした。出て行く際、両親に「デービッドは何をやりたいんだ? そうか、フルートか。どこへ行きたい? パリ? ロンドン? ニューヨーク?」と聞かれて、イギリス行きの飛行機の片道切符と100ドルをもらいました。
 両親の教育が悪かったのではありません。いろいろと準備をしてくれて、チャンスをくれたのですが、私にはそれが合わなかったのです。私は3人兄弟の長男ですが、実は真ん中の弟が先に高校をやめていました。そのときも両親とけんかをしていました。今はもう私も弟も両親とは仲直りしています。
 イギリスへ渡った私は、楽器店で働きながら、地元のオーケストラでフルートを演奏していました。また、クラシックギターを作って売りましたし、クラシックの作曲をしていろいろな賞をいただくこともありました。ひとつのことをやってつまらなくなってきたら次、また次と新しいことに興味が移っていきました。


家族ができて訪れた変化のとき
 そうしているうちにカナダに戻ることになり、日本人の女性に出会って一緒に暮らすようになりました。そして子どもが生まれますが、そのときはまだ結婚していませんでした。
 私が変わったのはそのときです。家族ができて、大人にならなければいけないと思ったんです。
 ちょうどそのときの私の趣味が木版画でした。楽器店で働いているときにカナダの木版画の展示を見に行って興味がわき、自分でも趣味で作っていました。その時点では木版画は次々と移っていく興味のひとつに過ぎませんでした。
 しかし彼女に「これからどうするの? 版画家になりたいの? お金はどうするの?」と問い詰められて「それじゃあとりあえず日本に行きましょう」ということになりました。というのも、彼女の両親が高齢になってきたので、私たちが面倒を見るためということと、子どもたちが日本語を使えるように育てたいという事情があったので、そのときは木版画とは関係なく日本に行ったのです。


つづきを読む>>
1/3


一覧のページにもどる
Copyright(c) 2000-2024, Jitsugyo no Nihon Sha, Ltd. All rights reserved.