第33回 食生活ジャーナリスト 岸 朝子さん

子どもと道を歩くときの注意点を示す写真には,後ろ姿の私が通行人としてさりげなく写っています(笑)。
料理の好きな家庭婦人求む
 東京の実家に引っ越したのは,長男を疫痢で失ったのがきっかけでした。息子を亡くした五井で養殖の仕事を続けていく情熱がなくなってしまったのです。夫は,沖縄に本社のある製糖会社の東京支社に転職しました。
 主婦の友社の社員募集の広告を見たのは,三女が生まれ,次男がおなかにいるときです。『主婦の友』を見ていたら,「料理の好きな家庭婦人求む」と書かれた求人広告を見つけたんです。子どもがたくさんいて生活も楽ではなかったので,履歴書を送ってみました。
 書類審査のあと,筆記試験に呼ばれました。知識を問われる普通の試験ではなかったですよ。知的労働者の家庭,肉体労働者の家庭,子だくさんの家庭の,三タイプの家庭の献立を作るという問題でした。献立や料理の作りかたをどのように書けばいいかはわからなかったけれど,子だくさんの家庭の食卓は我が家の食卓をそのまま書けばいいじゃないですか(笑)。肉体労働者の家庭には奥さんが忙しく家事や仕事をしながら鍋をことこと火にかけておいて作る大豆の煮たものとか,家庭の環境や栄養のバランスを想定して答案を書いたのを覚えています。
 筆記試験のあと,さすがに妊娠七か月の大きなおなかに「出産したあと育児など大丈夫ですか」と質問はされましたが,面接や実地試験も通り,めでたく合格。受けるほうも受けるほうなら,採るほうも採るほうと,いろんな人に言われました(笑)。「料理の好きな家庭婦人」と募集をかけた会社なだけに,主婦の経験をそのまま雑誌に生かそうと考えたのでしょう。
 入社試験のときにおなかにいた次男を産んで,五井に暮らしていたころのお手伝いさんに来てもらい,三十二歳で主婦の友社に入社しました。


面白く役立つ記事を作りたい
 主婦の友社には,月刊誌の『主婦の友』の編集部と,料理や育児,医学などの実用書を出す編集部がありました。実用書の編集部で,料理の本や医学の本などいろいろ手がけましたが,なかでも 大変だったのが,『実用百科事典』。育児の記事では,病院の先生に協力してもらって,食事や体調で変化する赤ちゃんのうんちを一つ一つ撮影して並べたり,自分の生活を振り返って実際に役立つように工夫して作っていきました。厚さ五センチほどもある事典です。書いても書いても残りがある(笑)。朝九時に出勤し,帰りは毎日午前一時二時。ときは空が白んだころに帰り,家族で朝ごはんを食べてまた出勤なんてこともありました。家族の協力があっての仕事でしたが,このころの編集者としての基礎体力が,今までの「料理記者歴」四十七年を支えてくれていると思っています。
 『栄養と料理』という月刊誌の編集長になったのは,女子栄養学園時代からの恩師,香川綾先生にお誘いいただいたからです。「料理の好きな家庭婦人」を「料理記者」に育ててくれた主婦の友社を辞めることに迷いはありましたが,原点である香川先生のところに戻ることにしました。
 今も講演などで人にお話しする機会があると必ず話すのが「おいしく食べて健康に」ということです。味だけではなくて,からだが必要としているものを考える。料理をすることは命を作ることだという志は,父や香川先生に教えられたものでした。
 『栄養と料理』は部数が思っていた以上に伸びていきました。自分自身はもちろん,編集部員にも伝えた「面白いと思ったもの,やりたいと思ったものを企画をしていく」という方針がよかったのかもしれません。「食いしんぼ横丁」という地域のおいしいお店を紹介するページも作りましたね。今ではおいしいお店のガイド記事もよく見られますけど,そのころの女性誌ではあまりなかったんじゃないでしょうか。


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