第3回 写真家 秋山庄太郎さん

原節子さんお手製のオムライスはうまかったね
軟弱者と殴られた軍隊生活
 大学を卒業して田辺製薬に入社しましたが、三ヶ月で応召。その直前に見合いをし、結婚しました。ぼくは死ぬかもわからないからといって、一応断わったんですけど、相手がそれでもかまわないということでね。中国では通信兵として各地を転戦し、マラリアにもかかりました。しかし、なによりつらかったのは上官から年中殴られたことですね。これには理由があります。ぼくは出征前に、カメラや愛読書を売り払ってつくった資金で自費出版した「翳(かげ)」という写真集を雑のうに忍ばせていました。この写真集は大学時代に撮りためた写真の中から、愛着のあるものを選んで一冊にまとめたものです。いうなれば「青春の墓標」のようなつもりでした。当然、中には女性を撮った写真もあります。これが軟弱だ、非国民だといわれ、見つかるたびに殴られた。それでも絶対に手放さなかった。どうせ死ぬなら自分の写真集を抱いて死にたいと思っていましたね。
 その後、ぼくは本土決戦要員として日本に帰され、長野で終戦を迎えました。東京は焼け野原でしたけれど、自由な雰囲気にあふれていました。ぼくは知人の女性を連れて志賀高原に行き、さっそくヌード写真を撮りました。戦争が終わって一ヶ月足らず、九月八日のことです。きっと戦後初のヌード撮影だと思いますね(笑)。

原節子と銀座ですれ違う
 復員後は、父親の下で働き始めたんですが、どうも面白くない。親の七光ということを意識してしまうんですね。そこで昭和二十一年、父親に写真家宣言をして、銀座八丁目に秋山写真工房を開設しました。全額借金です。父親はかんかんに怒っていました。ところがスタジオは開店休業状態。写真仲間が酒を持って遊びにくるばかりで、結局、十ヶ月でつぶれちゃいました。ただ、この間にたくさんの友人をつくることができました。特に銀座の「ルパン」で出会った林忠彦さんとは、生涯をつらぬく友情でむすばれました。
 スタジオがつぶれ、さてどうしたものかと考えていた時、女優の原節子と松坂屋の横ですれ違ったんです。あまりの美しさに茫然としました。いつの日かこういう美女を撮りたいとつくづく思いましたね。数日後、林さんから連絡があり、「いま『近代映画社』がカメラマンを探しているんだけど、庄ちゃんが行くなら紹介するよ」と言う。「もちろん行くよ、おれ原節子に会いたいもん」と言って、即日入社しました(笑)。それから二ヶ月もたたないうちに原節子を撮ることができました。運がいいんですね。
 原さんとは気が合い、自宅にまで呼ばれるようになり、よく手料理をごちそうにもなりました。原さんに気に入られたきっかけは、大船撮影所からの帰りの電車の中で偶然一緒になり、「秋山さん、映画界好き?」と聞かれたことからですね。ぼくが「あまり好きじゃない」と言うと「私も好きじゃないのよ」とニコリ。「撮影中もまわりに大勢お付きの人がいて、正直気が散って困るんです」と言うと、「だったら明日うちへきて撮ってよ」とふたたびニコリ。これには仰天した。会社へ帰って報告しても、最初は誰も信じませんでしたからね(笑)。原さんはとても率直な人で、ある日、ぼくが闇市の食い物の話をしたんです。「進駐軍の残飯を集めて売り歩く商売がある。A残飯とB残飯とがあって、A残飯というのはきれいに残したもので、B残飯はぐちゃぐちゃになったおじやみたいになっている」と。そんな話をしていると、「私も残飯を食べたことがある。食べていたらパンの耳が出てきたの。なんでこんな屈辱を味わなければいけないんだろうと涙が出てきたわ」と。そういう話をスムーズに語れる人は、大スターでは珍しかったですね。

美女ふたりに育てられる
 「近代映画社」には四年間ほどいて辞めました。編集長との意見の対立が原因のひとつです。当時の映画雑誌の表紙はハデで、女優さんに光をやたら当てたり、バックを赤にすることがはやりでした。ぼくは画家のレンブラントが好きでしたから、その影響もあって、必要以上に光を当てることが好きになれなかった。それでいつも文句をいわれていました。編集長としては一番売れていた「平凡」のような明るい表紙にしてほしいということなんですけれど、あの雑誌が売れていた理由は別にあったんです。「平凡出版」の社長はなかなか「非凡」な人で(笑)、儲かった利益を次の号に注ぎ込むんです。だから値段据え置きのままどんどん厚くなってくる。いつしか他の映画雑誌の三倍くらいの厚さになってしまった。これじゃ勝てるわけがありません。
 それでも「近代映画社」にいた四年間で写真家としての自分を確立することができました。これはまったくタイプの違う原節子と高峰秀子のおかげです。高峰さんは五歳から映画に出ていますから、カメラに向かってどんな表情やポーズをすればよいかが自然に身に付いている。だから、どんなにきれいな写真があがってきても、「ふーん」となんとも言わない。自分が気がつかない、今まで見たことのない自分が写っていると喜んでくれるんです。一方、照れ屋の原さんはポーズをとるのが大嫌い。会話を盛り上げながら、いかにして自然に撮影するかを考えなければならない。本当に笑っている顔と作り笑いは違いますからね。このふたりによって鍛えられたようなものです。
 フリーになって、最初の仕事はカレンダーの仕事でした。ぼくは四年間、女優さんの写真を撮りまくっていたので、その世界に顔が利いたんです。モデルクラブもなく、ファッションモデルなんていう職業もなかった時代ですからね、モデルといえば女優さんにお願いするしかなかったんです。朝鮮戦争が勃発して、日本の景気がよくなっていく頃で、女性誌も次々に創刊され、繊維メーカー各社も競って女優さんをモデルにポスターを作り始めました。もう年中無休で撮影しましたね。

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