第3回 写真家
秋山庄太郎さん
1999年12月号掲載


PROFILE
大正九年六月八日生まれ。東京都出身。中学時分より写真を始め、大学を出た昭和十八年「墓標」のつもりで写真集「翳」を自費出版。戦後、プロとして立つ。二十二年近代映画社に入り、以後四年間、グラビアページを担当。二十六年フリーの写真家となる。優美な女性写真が高く評価され、週刊誌の表紙などの分野でも活躍をつづける。主な作品集に「おんな・おとこ・ヨーロッパ」「花・女」「作家の風貌159人」「花舞台」「蝸牛の軌跡」「秋山庄太郎自選集」などがある。紫綬褒章・勲四等旭日小綬章受章。現在、日本広告写真家協会名誉会長、日本写真家協会名誉会長、二科会写真部創立会員、日本写真協会副会長、日本写真芸術専門学校校長。

休みの合間に通学するような病弱な子どもでした
関東大震災が最初の記憶
 ぼくは神田生まれの横浜育ちで、四歳の時に横浜で大震災に遭いました。風呂場で水遊びをしていたところにものすごい揺れがきて、そばで洗濯をしていたばあやがとっさの機転で、湯船にぼくを突っ込んで上からふたをしたんです(笑)。うちはロープ用のマニラ麻を扱っている問屋でしたから大きな湯船があったんです。だから、ぼくの最初の記憶というのは揺れよりも何よりも、その湯船のタイルの緑の色が鮮明に残っていますね。
 震災で横浜の店がつぶれ、東京で出直すことになり、ぼくは京橋の小学校に入りましたが、小学校三年生までは病弱で、よく学校を休んでいました。そこで母親は毎朝、ぼくを日比谷公園まで遠足に連れ出した。八丁堀から市電の一番電車に乗って、日比谷公園まで行き、おいしい空気の中で体を動かした後、弁当をふたりで食べる。それが唯一の健康法だと母親としては考えていたんでしょう。しつけは厳しくて、寒い冬の朝など、布団の中でぐずぐずしていると冷たい大根を股の間に突っ込まれるんです(笑)。ただ、母親の努力にもかかわらず、ぼくの病弱な体質はなかなか改善しなかった。小学校三年の時、母親は京橋の店を閉じ、目黒に自宅と長屋を六軒建て、その家賃で生計を立てることにしました。当時の目黒はものすごい田舎で、川にはハヤもドジョウもいたし、イタチもタヌキもいました。これがよかった。毎日、自然の中で近所の悪がき連中とチャンバラごっこをしているうちにすっかり健康体になってしまった。府立第八中学に行ってからは皆勤賞でしたからね。ところが健康になるのと反比例して、成績の方がどんどん下がりだした。数学が嫌いで、1分の1は0と思っていましたから(笑)。中学時代は、剣道と写真と映画に明け暮れ、勉強はまったくしませんでしたね。


写真にのめり込んだ大学時代
 大学は、一橋と慶応と早稲田を受けましたが、早稲田だけは運良く数学のヤマが当たり、商学部に入ることができた。大学に入って、剣道部に入ろうと見学に行きましたが、あまりにも稽古がすごい。あれじゃ殺されると思いましたね。その点、写真部なら安全だと考えた(笑)。写真との付き合いはカメラを買ってもらった中学二年の時からです。修学旅行で奈良の若草山に行った時、逆光に光るススキの中を鹿がこちらに歩んでくる。それを思わず「いいな」と撮ったところ、これが霧出もピントもピッタリで文句なしに写っている。あれが写真に夢中になるきっかけでしたね。
 大学では写真三昧の生活で、同級生の五味康祐が当時のことをよく覚えていて、「秋さんはカメラをぶら下げているばかりで、教科書を抱えているのは見たことがなかった」と言っていましたね(笑)。写真以外は本当に不良学生でした。酒は浴びるほど飲みました。十八歳で血を吐いたぐらいです。当時、十銭スタンドというのがあって、葡萄酒でもなんでもすべて一杯十銭。最高二十四杯飲んで、そのまま意識を無くしてスタンドから落ちたこともありました(笑)。素行不良がたたって、青果流通業の会社を経営していた父親から罰として取引先の三保の松原の農園に預けられたこともあります。これはいい経験でした。いかに農家が倹約して、一生懸命働いているかがわかりましたからね。食事も都会では考えられないほどの粗食でした。肉屋がなかったくらいですからね。とにかく肉が食べたくて、渡し舟に乗って清水へ行き、トンカツを食ってはすぐまた戻ってきたことも何回もあります(笑)。
 学生時代に一番ショックだったのは、大学二年の時に母親が心臓マヒで亡くなったことですね。「息が苦しい」という母親に急いで薬を飲ませ、医者を呼びました。母親にはぜんそくの持病があったんです。「早くきてくれ」と念じながら母親の背中をさすっていた。しかし、医者が到着した時にはすでに息を引き取っていました。まだあたたかい母親を膝にのせたまま、あふれる涙が止まらなかったですね。


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