五木寛之が著す、『ゆるやかな生き方』創作逸話について。これは私の見果てぬ夢、心の中の憧れなのだが――。

2014.07.30

『ゆるやかな生き方』というのは、私の見はてぬ夢である。心の中でそれを憧れながら、きょうまで呆れるほどせかせかと生き急いできた。

いまも毎週のようにキャリーバッグを引いて、飛行機に乗り、電車に乗り、車で列島各地を駆け回っている。旅先の喫茶店で原稿を書き、ホテルのFAXで送稿する。最近では、地方都市にも「喫茶店」と呼べるような店は少なくなってきた。ファストフードの店で万年筆を持つのは場ちがいというものだ。世の中全体が「ゆるやかでない」方向へ進みつつあるらしい。

「ゆっくりは速い」

という言葉をどこかで耳にして、それがずっと頭に残っていた。矛盾した言葉のようでいて、なにか納得させられるところがあるのだ。

この一冊に収められた文章は、そんなあわただしい日常のなかで、日々、蚕が糸を吐きだすように書いた雑文である。
それをエッセイと呼ぶことには、なにがしかの抵抗感があり、私はいつもそのことで迷っていた。

ある時、ロシア語のなかに「フェリエトン」という言葉があることを知って、これはいい、と思った。「フェリエトン」とは、「雑録」「雑文」というようなニュアンスの表現らしい。
ある著名な宗教家が、亡くなる時に、かすかにつぶやいたという言葉がずっと頭に残っている。

「自分の一生は、雑事に追われてすごした一生だった」

と、いうのがその言葉である。どんな立派な最後の言葉よりも、この正直な述懐こそ宗教家にふさわしい。人は雑事に追われつつ一生を過ごすのである。
息をするのも、物を食べるのも、旅をするのも、人生の雑事である。雑事のうちに、日が過ぎ、年が流れ、人は去っていくのだ。

エッセイという、どこか格調ある表現より、フェリエトンという、なんとなく間の抜けた言葉の響きに共感するのは、私自身が雑に生きている自覚と反省の故である。
(中略)
この雑録集があわただしく生きる読者の皆さんの、せめてもの憩いの場とならんことを。

『ゆるやかな生き方』の「あとがき」より抜粋。