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『星がひとつほしいとの祈り』原田マハ氏インタビュー 「親子関係、旅、女性の物語です。この文庫を持って旅に出てください」

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原田マハ(はらだ・まは)
1962年、東京都生まれ。85年、関西学院大学卒業、96年、学士入学した早稲田大学卒業。アートコンサルティング、キュレーターを経て、2006年、第一回日本ラブストーリー大賞受賞作『カフーを待ちわびて』でデビュー。12年、『楽園のカンヴァス』で第二十五回山本周五郎賞受賞。主な著作に『一分間だけ』、『夏を喪くす』、『キネマの神様』、『翼をください』、『独立記念日』、『本日は、お日柄もよく』、『でーれーガールズ』、『旅屋おかえり』、『生きるぼくら』、『ジヴェルニーの食卓』『総理の夫』などがある。
撮影/ 森 栄喜

創作の原点、旅の原点も本作それぞれの中にあります。

――以前、『旅屋おかえり』(集英社)のインタビューの時に、旅の中には必ず“サイン”があるとおっしゃっていましたが、『星がひとつほしいとの祈り』の各短編では、それを抽出して読者に分かりやすく表していますね。

原田 旅について書いたのは、こちらの方が最初なんです。2006年にデビューして、実業之日本社さんから早くにお声をかけていただいて、「椿姫」に始まる全七話、「ジェイ・ノベル」さんに不定期掲載で、こつこつと2年くらいかけて書き溜めてきた旅の物語集なんです。今読み返してもすごく新鮮な感じです。旅をする度に、こんな物語にしたいという想いがあって、その気持ちが込められています。今でこそ長編を書く時は、担当の方と一緒に取材に出かけたりすることはありますが、この頃は、本当に一人で動いていたんですね(笑)。旅の原点であり、創作の原点みたいなものを拾い集めて、物語に展開していこうと思いながらずっと旅を続けてきた、半分、私の紀行文といった感じで、旅のアルバムのような物語です。

――その「椿姫」が原田さんとの人生を旅してきたわけですね。

原田「椿姫」は、私が24歳くらいの時に書いたものなんです。2007年に短編のお話しをいただいた時、みずみずしい感性を持って、小説というものに憧れたり、大人の世界に憧れたりしていた、若い時に書いていた作品があるので、書き直したいと話したら、担当の方から挑戦してみてください、と言われて。それで出来上がった結構珍しい作品なんですよ。今回かなり書き変えてはいるんですが、骨組みや構成はほとんど一緒。自分の中に20年間取っておいたという話だったので、「ジェイ・ノベル」さんに初出した時は、押し入れの奥深くから引っ張り出してきたものが、日の目を見たという気がしました。

また、作品集全体は、女性を巡る物語にもしたかったんです。書いているうちに、なんとなく母と娘の主人公二人という風になってきたので、親子関係、旅、女性という三つくらいのキーワードを使って書いていこうかなと思いました。その最初のステップが、「椿姫」の母と娘の物語だったんです。

――すごい作品がいっぱい集まっています。

原田 装幀もすごく気に入っています。「星がひとつほしいとの祈り」というタイトルも、私が中学生の時から大好きなフランスの詩人、フランシス・ジャムの詩集「星がひとつほしいとの祈り」から付けました。その詩集を長いこと大事に取っておいたのですが、西宮の下宿先に残してきたら、阪神大震災でなくなってしまいました。この詩集はもう絶版になってしまっているんですが、まずはこのタイトルありきで、物語の方が後からついてきました。最初はそのままタイトルを流用してしまうというのは気が引けていたんですが、本の末尾に注釈として出しておこうということにして、付けさせていただきました。

表題作は、平和と鎮魂への想いも

――表題作「星がひとつほしいとの祈り」は道後温泉の物語でもありますね。

原田 収録作品に書いてあることは、結構自分が体験したことからの発想が多いので、すごくリアリティを持って書いています。道後温泉で、目の不自由な不思議なおばあさんマッサージ師さんがいて、本当か噓かは分かりませんが、父親が天文学者だと言っていました。そのお話しもおもしろかったんですが、マッサージもすごくうまかったんです。半分夢見心地でおばあさんのお話を聞くうちに、すーっと物語が頭に出てきて、これは書けそうだなと感じました。

――その後道後温泉から、第二次大戦中の日本へと物語が進みますが、その発想はどこからきているのでしょうか。

原田 書き終わった日(2008年8月15日)がちょうど終戦記念日だったんです。私がその頃住んでいた調布市では、終戦記念日の正午に合わせて黙祷をしましょう、という放送が市内に流れるんです。ちょうどラストシーンを書いていたところで、「黙祷」と言われて、立ち上がって黙祷したことをはっきりと覚えています。すごい巡り合わせでした。平和への想いはいつも私の根底にあります。なんらかの形で一度描いてみたいと思っていましたし、この頃、ちょうど戦争が絡む『翼をください』(毎日新聞社)の連載をしていたため、第二次世界大戦の顛末について調べたりしていたので、「星がひとつほしいとの祈り」にも盛り込みたいと思ったんですね。あと私は、『斜陽』とか、女性の語り口の太宰文学が好きなので、それをやってみたかったということもあります。『斜陽』にも戦争のくだりが出てくると思いますが、かなり意識して書きました。

――戦争文学ですね。

原田 松山の歴史を調べてみたら、飛行場が近かったので、かなり空襲があったらしいんです。戦争文学と言えるかは分かりませんし、戦争を体験していない身でどこまで書けるかというのがありましたが、戦地に赴いた男性たちの戦いの物語ではなくて、待たざるを得なかった女性たちの物語というのも、文学に書かれてきたと思います。私が何か語れるとしたら、そちらの方だろうという風に思ったので、一番昇華された形になったかなと思います。

――「夜明けまで」では、大分の「夜明」という駅名に触発され、その場で物語が出てきたという感じなんですか。

原田 私にはいつも一緒に旅をしている友人がいまして、自分たちでテーマを作って、グルメの旅をするということを、二人で年に3、4回しているんです。大分県の由布院温泉からの帰りに福岡に出るため、ゆふいん特急に乗った時のことです。私は、移動中にものすごくインスピレーションを受けるもので、二人が電車に乗ったら、別々の席に座るというルールがあるんですよ(笑)。そのゆふいん特急の時は寝ていたのですが、ふっと目覚めて、駅名表示板が目の前を通り過ぎた時、「夜明」とはっきり書いてあったのが見えたんです。それでハッと思って、二秒で着想したんですよ。このホームに降り立つ女の子の話だって。本当に二秒で、パッと出たんです。その数ヶ月後に「夜明けまで」を書いたんですけど、今思い出してもすごい瞬間でした。なかなか話が思い浮かばない時は、いざとなれば二秒で出るんだから大丈夫って、励みにしているんです。

――「寄り道」のハグとナガラは、お二人がモデルだとか?

原田 ハグとナガラは、『さいはての彼女』(角川文庫)収録の「旅をあきらめた友と、その母への手紙」にも出てきたコンビなんです。「寄り道」は、彼女と行った白神山地をそのままプロットしています。物語に出てきたようなミステリアスな女の子はいなかったんですけど、私は歩きながらずーっとストーリーを考えていました。

――「斉唱」のトキのお話しは?

原田 私、鶴とかトキとか、大きい鳥がすごく好きなんです。いつかトキを見たい、物語を漠然と書きたいなと思っていたら、エコをテーマにしたウェブマガジンで、佐渡体験記を書いてほしいと依頼されたんです。それで佐渡島に行き、「トキを田んぼに戻す会」でお話を伺ったんです。私が尊敬している、佐渡トキ保護センターの近辻宏帰さんという方がいらっしゃるんですが、亡くなる前の年に偶然お会いすることができました。戦争中に、死にかけのトキを助けて自然に帰したのは、その時に実際に伺った話です。こちらも、平和と鎮魂の想いを込めて書かせていただきました。

――世代が違う女性たちの試練と旅立ちが、旅で見たものや感じたものとリンクしていったのはなぜでしょう。

原田 いろいろな世代の女性の生き方を書いてみたいなと思っていたんですね。これらの短編を書いた時は四十代だったんですが、自分やまわりの人々の人生を見てきて、自分にも起こり得るかもしれない、身近なドラマを再現してみたいなと思ったのが一つですね。都会で華やかなOL生活をしている元気女子の話も書いてみたいというのもあったんですが、地方都市で小さな幸せを追い続けている女性の物語もぜひ書いてみたいなと思っていました。私は地元の人と話すのが好きなので、地方に行った時に話をしていると、いろいろな発見があったり、誰にもドラマはあるんだなと感じたりします。連作短編らしく、つながりのあるものを置いておきたかったので、ざっくりですがまた、“地方と女性”というキーワードも見付けました。また、方言を使うのが楽しくて、多分、地元の方が読んだら、違うとは思うんですけれど。苦労しながらも書きました。地元のグルメや見所もしっかり自分の足で歩いて調べたりもしています。それで、どの作品にも共通して出てきているものがあるんですが、お気付きじゃないですか?

――椿ですか? 「椿姫」と「夜明けまで」出ていましたよね?

原田 それは私も気がつきませんでした。実は私、乗り物がすごく好きなんです。手を変え品を変えて、電車や船や車とかを出しています。移動フェチなので(笑)、とにかく乗り物が全話に出てくるんです。でも『総理の夫』(小社)みたいに黒塗りの車は絶対出てこないですよ(笑)。ローカルな乗り物、その土地の人々の足になっているものです。旅情を出すというよりは、場面転換とか、物語の中に読者を誘うという手段として乗り物を使っているんです。「椿姫」には、山手線が最後に出てくるんですけれど、24歳ぐらいの時から、既に乗り物でなんかしようというのがすごくあるんですね。フィクションの世界に読者を連れていくという一つの手段として、小道具として、意識的に使っています。

――読んでいる方は無意識に引き込まれていますね。

原田 あと、私は橋が好きなんですよ。「長良川」の主人公の夫は、河川と橋梁の研究をしていました。「沈下橋」も出てきますね。駅やまっすぐな道も好きですね。なんか移動の時に出てくる、土木系のものが好きなんです(笑)。特に旅の物語を書いている時は、ビジュアルの効果もあると思いますし。好きすぎて、沈下橋はタイトルにもしているくらいです。

旅へ出るのは、自分の状況を受けとめること。

――すべて七つの物語から、旅の終わりに受けとめる物語という感じがしました。原田さんにとって、旅をするというのは、受けとめるということでもあるんですか?

原田 おっしゃる通り、『星がひとつほしいとの祈り』は、自分が置かれている状況や抗えない運命があって旅に出て、抵抗するのではなく、今の状況を受けとめながら、次に進むべき道を模索していくようなローキーな感じです。受容の物語と言えるかもしれませんね。はっきりそれを謳っているわけではなくても、感じていただける方には、感じていただけるのかもしれません。

――そういう意味でも、旅は人生の寄り道ですね。

原田 寄り道しながら私も生きてきました。旅をして、敢えて寄り道をすることで気がつくことが多いんじゃないかなと思います。「長良川」「沈下橋」で、私より上の年代の女性を主人公にしたというのも、自分が四十代、五十代になってくると、母親の世代がどういう苦労をしてきたかなど、若い時になかなか分からなかったことにようやく気がついてきたからですね。旅先で、自分の両親のことやいろいろお世話になった人を思い出しながら、申し訳なかったな、ありがたかったなと思ったりします。この物語は人生の先輩に捧げたいという想いがありました。この親本が出た時も、伴侶を亡くされて落ち込んでいた方や、疲れて病気になってしまった方などに本をプレゼントしたのですが、とても喜ばれました。小説を読んでいる時に、自分の人生を振り返ってみたり、それで少し癒されたりしてくれたら、私もうれしいですね。

――母と娘という関係もありますね。

原田 最近は、一卵性のような母娘の方々もいると思うんですが、母親って子どもに対して、いつも片思いしているようなものだというのを、なにかの本で読んだんです。自分たちが思っているほど、子どもの方はなかなか応えてくれない。自分を省みると、そうだったなと思います。だから、すれ違いながらも近付いていくみたいな、通じ合える母娘の関係を、お母さんの世代と娘さんの世代の両方に伝えられると良いなと思って書きました。

――各編の長さがちょうど良いです。

原田 そうですね。そんなに長くなくて。どの小説を自分で読み返しても、風景がばーっと甦ってくる感じがありますね。よく私の小説を読んで、映像が浮かぶと言ってくださる方がいらっしゃるんですけど、私も自分の目の前で映像が流れているのを書き写しているような感じがしたんです。だから、それが読者の方にうまく伝わっていると良いなと思います。

――では、最後に読者のみなさんにひと言お願いします。

原田 旅に出てください。自分を見つけるために、この文庫を携えてそれぞれの場所に行って読んでいただけたら、それが作者として一番うれしいです。私もこの文庫を持って、それぞれの土地にもう一度行ってみたいですね。多分、本当に行くと思います(笑)。それぞれのところでいろいろな出会いがあって、ここに書ききれなかった物語もまだいっぱいあります。それもまたおいおい書いていきたいですね。ぜひ、ジッピィの文庫を持って、ローカル線なりバスに乗って出かけていただきたいです。



※このインタビューは8月下旬、小社内にて「ダ・ヴィンチ」誌<メディアファクトリー>と合同で行われたものです。