第40回 起業家 三橋滋子さん

頼まれた講演や取材はできる限り引き受けたいと思っています。毎日忙しく,身なりや美容にかまう時間はありませんね(笑)
スチュワーデスが主婦に,そして社長に
 第十五期のスチュワーデスとして日本航空に入社したころは,スチュワーデスの定年は三十歳,しかも独身でなければなりませんでした。トレーニング期間と国内線の勤務を約二年経験し,やっと国際線の担当になれましたが,いつまでもスチュワーデスを続けられないとわかっています。婚約者とは「国際線の路線を一通り経験したら結婚する」と約束していました。
 アメリカに初めて行ったのはサンフランシスコ。
サンフランシスコ湾を横断するゴールデンゲートブリッジは考えられないほど大きく,高速道路は八車線ほどもあってお座敷のように大きなアメリカ車がびゅんびゅん走っていました。それを見た驚きと感動は今でも忘れられません。
 東京オリンピックの年,国際線の路線を全部経験し,結婚をしました。退職願を持っていったら,「羽田空港の国際線カウンターで働かないか」と慰留され,グランドホステスとして働くことになりました。そのうち長男を妊娠しておなかが大きくなって制服の上着のボタンが止まらなくなるまで働いて日本航空を退社し,専業主婦になりました。
 長男を産み,その三年後に長女を出産しました。長男が小学校に入り長女が三年保育の幼稚園に入ると,子どもたちと主人を送り出したあとに自分の時間ができるようなりました。すると「このまま,家事や育児に情熱を打ち込み,生きがいを感じていけるかしら。自分の人生はなんなんだろう」って思うようになりました。同期のスチュワーデスでまだ国際線を飛んでいる人の話を聞くとうらやましくて,うらやましくて。
 とにかくなにかしたいと,仕事を紹介してもらいに職業安定所に行きました。書類に前歴を書くと「そんな高い給料を若い女性に出せるところなんてないよ」なんて言われるのです。「給料は安くていいから,経験を生かして仕事がしたいんです」と訴えてもわかってもらえない。「せめて簿記とか和文タイプとか手に職があったらねぇ」。いかにスチュワーデスがつぶしのきかない職業か思い知らされましたね(笑)。
 そんな時,スチュワーデスの予備校の研修旅行にコーディネーターとして同行してくれないかという依頼があったのです。退社して以来,初めての海外。そのツアーに添乗していた旅行会社の社員に「添乗の仕事って社員以外にはむずかしいものですか」って聞いたら「そうでもないと思いますよ」って言われました。「これはスチュワーデスの経験を生かせる仕事だ!」と思いましたね。
 当時,海外に出かける人は,倍に倍にと増えていっていました。人手がなく,営業マンまで海外添乗に借り出されていました(笑)。子どもから手の離れた元スチュワーデス仲間で集まった時「スチュワーデス経験を生かせる何かをやりたいわ」とよく話をしていたのも頭にありました。海外事情が明るく,語学ができ,接客もプロ。元スチュワーデスが素質と意欲のある人をツアー・コンダクターとして教育し,旅行会社に派遣する。旅行会社の社員とは一味ちがったきめ細やかなサービスができると踏んだんです。
 女性が会社作るのは珍しかった時代です。法務局で会社の作り方を尋ねても本気にされませんでしたね。以前から知っていた旅行会社の社長に相談し,助言もいただきながら,初の「添乗サービス会社」はスタートしました。


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