第40回
起業家
三橋滋子さん
2003年1月号掲載


PROFILE
ツーリズム・エッセンシャルズ株式会社代表取締役。昭和十一年,東京生まれ。三十四年,日本女子大学文学部を卒業し,株式会社日本航空に入社。三十九年,退社。四十八年,株式会社日本ツアーエスコート協会を設立,代表取締役社長。五十一年,株式会社ツアーエスコート協会を設立,代表取締役社長。五十九年より現職。六十一年には社団法人日本添乗サービス協会を設立,専務理事。平成五年,社団法人ニュービジネス協議会よりレディースアントレプレナー賞(女性起業家賞)受賞。九年,全米女性経営者財団(NFWBO)より第1回女性起業家賞受賞。十三年,運輸審議会委員(非常勤)。

成田空港と関西空港では,コピーやファックス,インターネットなどを誰でも利用できるビジネスセンターを運営しています
アメリカへの憧れから始まった
 今の子どもたちにはきっと想像もつかない少女時代でしょう。第二次世界大戦中は,祖母のゆかりだった長野県松本市に疎開をしていました。終戦をむかえて東京に戻ってきたのですが,今の文京区小石川にあった自宅は空爆にあい,全てが焼けてしまっていました。親類の中で一軒だけ焼け残った家が,今話題の皇后様のご実家の近く,品川区の池田山にあり,そこの離れに居候させてもらうことになったのです。
 兄弟5人のなかで,私だけが女の子。毎日,焼け野原となった空き地で泥まみれになって兄弟で遊んでいました。お転婆な女の子でしたね(笑)。でも当時は家の中にテレビやゲームがあるわけもなく,外で遊ぶしかなかったのです。
 私たち兄弟が遊んでいるのを,同じくらいの年のアメリカ人の女の子が,壁にもたれ毎日じっと見ていました。親戚の家の回りは,進駐軍に摂取された家が多かったのです。ある日「一緒に遊ぶ?」って声をかけたら,うれしそうに笑いました。言葉なんてぜんぜんわからないんですよ。でも,石蹴りとか,道路に輪を書いてぴょんぴょんはねる遊びとか,いろんな遊びを教えてあげて一緒に遊んでいたら,すぐ仲良しになりました。
 その年のクリスマス,その女の子のおうちに招待をされました。そのころの日本は,暖をとるといえばコタツと火鉢くらいで,部屋全体が暖かいなんてことはありませんでした。それなのに,ドアを開けて中に入った瞬間,家の中は暖かで,お母さまはきれいなブラウスを一枚さらっと着ていらっしゃるのです。背丈よりも高いクリスマスツリーにはチョコレートやキャンディーなどがそれはもうたくさんぶら下がっていて,「なんでもひとつ好きなものをお取りなさい」と言われました。暖かいお部屋の中で,冷たくて甘いアイスクリームやクリスマスケーキをいただきながら,ただただびっくりしていましたね。
 そのご一家がアメリカに帰られるときに,「せっかく仲良くなったのだからアメリカに来たときは遊びに来てください」と住所を書いたカードをいただきました。それ以来,「どうしたらアメリカに行けるかしら」といつも考えるようになりました。アメリカってどんな国なのか,とにかく一度見てみたかった。「何を夢みたいなことを言っているんだ。アメリカになんか行けるはずなんてないじゃないか」と親にも言われましたね。海外旅行が自由にできなかった時代です。そう言われるのが当たり前なのですが,ずっとずっとアメリカに行くことを思い続けていました。
 そのうちに奨学生留学という手段があることを知るんです。高校の英語の先生が,フルブライトの奨学生としてアメリカ留学をされていたんですね。そのころから猛烈に英語を勉強し始めました。また,日本航空が民間航空として国際線を飛ばし,スチュワーデスを採用し始めたというニュースも聞きました。「これだ!」って思いましたね。アメリカ行きに近づくためには,まず,英語でしょう。大学付属の高校でしたが,当時人気の英文科に入るにはトップクラスの成績でなくてはなりません。毎日,一生懸命,勉強しました。自分のしたいことのためなら夢中になれるものですね。
 英文科に入ってからも,英会話サークルESSで自分の考えていることを英語で話す練習をしました。また,近所に住んでいたアメリカ大使館の一等書記官のご夫妻と「交換勉強会」もしていました。最初の一時間は日本語だけ,次の一時間は英語だけで会話をするのです。そのようにお話しする機会を持つと,単に英語を話せるだけではなくて,歌舞伎やお茶などの日本の文化,歴史など自分自身がいろんなことを勉強しないと話せないんですよね。興味の幅はだんだん大きくなっていきました。
「スチュワーデスになる」という夢も,両親は「とんでもない」と言っていました。「二十代の前半までにお嫁にいくのが当然,四年制の大学に行っているぶん出遅れているのに働くなんて」と言うのです。「卒業したら結婚しよう」と約束していた婚約者もいました。父親の建築事務所で働いていた人です。
 でも,みんなスチュワーデスになれるなんて思っていなかったのです。当時は,学校の推薦がなければ入社試験すら受けられませんでした。日本女子大学が持っていた日本航空推薦枠はわずか三人。まずは,その三人に入らなくてはなりません。今のように「スチュワーデス予備校」などもありませんから,先輩にお話を伺ったりして,一生懸命情報収集もしました。学校の推薦枠に入って日本航空の試験を受ける権利を獲得し,本番の試験は一次,二次,三次と長い期間かかり,あきらめかけていた頃の合格通知には,自分もまわりもみんなびっくりしましたね。憧れ続けたアメリカが大きく近づいた瞬間でした。


つづきを読む>>
1/3


一覧のページにもどる
Copyright(c) 2000-2024, Jitsugyo no Nihon Sha, Ltd. All rights reserved.