第29回
作家
松井 計さん
2002年2月号掲載


PROFILE
昭和三十三年愛媛県八幡浜市生まれ。大学卒業後,英語講師,古書店店主などを経て,作家活動に入る。松井永人のペンネームで「叛逆の艦隊」「東条英機暗殺」「土方歳三北海の剣」などの戦争シミュレーション小説や時代小説を多数発表。平成十三年一月,住宅トラブルに借金,妻の病気,予定していた単行本の出版中止などが一気に重なり,身重の妻と二歳になる娘を福祉施設に預け,真冬のホームレス生活へと入る。それからの半年あまりの過酷な日々を包み隠さずつづった「ホームレス作家」は「現役作家すらホームレスになる時代」として反響を呼んだ。日本文芸作家協会会員。

自分が「ホームレス」と自覚すると,それまで見慣れていた建物も町並みの風景も一変して見えます
運動の苦手な本好きの子どもだった
 遺書のつもりで書いた「ホームレス作家」でしたが,各メディアの書評欄等で多く取り上げてもらえたこともあって,自分の書いた本としては生まれて初めて重版がかかり,つい先日,ホームレス生活を脱出することができました。この作品は自分にとって二十一冊目にあたるんですが,これまでに出したものはすべて初版止まりだったんです。この本に多くの人が注目してくれた理由を考えると,「ホームレスになる」ということが他人事ではない時代に日本が入ったということなのかもしれません。それでは,私がホームレスに転落し,そして這い上がるまでの約半年間の軌跡を少しお話したいと思います。
 私は愛媛県の八幡浜市に生まれました。四国の一番西の端の町で,漁業とミカン栽培の盛んなところです。父は電電公社の職員,母は小学校の教師をしていました。母は心臓に持病を抱えていたこともあり,毎日の布団の上げ下げなんかは父がやっていましたね。電電公社の職員というのは転勤をしないと昇進できない仕組みになっているんですが,父は母のからだを気遣って転勤話はすべて断って,最後は係長で終わったような人です。母のほうにも四十過ぎの頃に教頭にならないかという話があって,実現すれば,愛媛県初の女性教頭ということでしたが,昇進を断りつづけた父を差し置いて,自分が昇進するわけにはいかないと断ったそうです。それくらい強い信頼感で結ばれていた夫婦でした。
 私はそんな家庭でひとりっ子として育ったわけですが,どちらかと言えば運動が苦手な分,本を読むのが好きな子どもだったように思います。恥ずかしい話ですが,ブランコにひとりでちゃんと乗れたのが小学校三年生のときなんです(笑)。ところが中学に入って,自分の足が速いことに気がついたんです。短距離ではクラスで一番。そうすると妙に自信がついてきて,あれほど嫌いだった運動が大好きになった。子ども時代というのはちょっとしたきっかけで大きく変わるものなんですね(笑)。そのまま地元の進学校に入ったわけですが,いま振り返っても味気ない高校生活でした。部活動をやっていると「やめたらどうだ」と先生が言ってくるような学校だったんです。その頃は一刻も早く卒業して,都会で生活したいとばかり思っていました。

英語講師から古本屋の親父となる
 都内の大学に入学早々,母が亡くなりました。心臓が悪いのは承知していましたが,これほど早く逝ってしまうとは夢にも思っていなかった。現実感がなくて,涙も出なかったことを覚えています。しかし,いま思えばあのときにしっかり泣いて,自分の感情に決着をつけるべきだったんです。それをしなかったために,私はいつの間にか,できるだけ自分の感情を外に出さないようにするクセをつけてしまったのかもしれません。また,大学のほうも,第一志望でなかったこともあって面白くなく,二年ほどは学校へも行かず,気の向くままにいろんなところをうろうろしていた。しばらくして,このままじゃいけないと思い,ふたたび大学に復学しましたが,結局卒業するのに六年かかりました。今になると,それもいい経験だったとは思えますが。
 大学を卒業して田舎に帰ったのには父親の存在がありました。母が亡くなった後,まったく元気がなくなってしまい,とてもひとりにしておける状態ではなくなっていたんです。とはいえ就職先もあまりないところです。大学時代,米軍基地内の英会話教室にずっと通っていて,英会話には自信がありましたから,それを生かそうと中高生向けの英語塾の講師になってみたものの,当然ながらここでの英語は異文化コミュニケーションのツールとしてではなく,受験のための英語なわけです。どこをどうすれば点が取れるかといったようなことばかり教えなくてはいけない。嫌々仕事をしているうちに,本好きだった子ども時代の感覚が甦りまして,「よし,古書店の親父になって生活しよう」と急きょ方向転換しました(笑)。さっそく経営の仕組みを勉強し,地元で店を開いたわけですが,これが想像以上に好調でした。このあたりにはそれまで古書店が一軒もなかったんです。一時は三店舗まで広げることができ,それぞれに店番を雇い,私自身は仕入れの仕事をするようになったんですが,そうなると暇な時間もできるわけです。そこで雑誌を読んでいて目にとまった懸賞エッセイ募集なんかに投稿してみると,これが連続で採用されたんですね。そうすると自分には文章を書く才能があるのかと,書くことがだんだん面白くなってきて,懸賞以外にも,自分のほうから勝手に原稿を書いてはさまざまな出版社に売り込むようになっていったんです。

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