第1回 筑波大学教授  藤田晃之さん

当時の筑波は電車すら通らない寂しい場所。浪人時代に 経験した華やかな都会生活との落差が身にしみました。
受験は失敗、浪人生活を経て…
 教育学を学ぶには、私の学力では東京大学は到底無理でも、京都大学だったら何とかなるかもしれないと、遅まきながら高校3年生の秋ごろから狙いを定めて、それなりに勉強しました。しかし時すでに遅く、京都大学はもちろん私立大学まで全て不合格でした。親を説き伏せて始めた東京での浪人生活も、1ヶ月ほどで勉強への熱意が薄れてしまい、アルバイト、それも水商売に手を染めることになってしまったのです。
 それでも昼間はアパートで勉強することで、浪人時代はある程度成績が伸びました。これなら共通一次(現在のセンター試験)の成績次第では京都大学も受けられるかな、と考えていたのですが、共通一次の本番で大きな失敗をしてしまったのです。ここからどんなに頑張っても京都大学に合格することが無理なことは明らかでした。
 京都大学よりもレベルを下げた大学で教育学を勉強することには納得できませんでした。もう教育学は諦めて、合格した上智大学の法学部へ行こうと親に相談したところ「浪人までしたんだから国立大学にも合格して、5教科の成績が伸びたことを証明しろ」と注文をつけられました。そこで親も納得する条件を満たしていた、筑波大学の比較文化学類を受けて無事合格することができました。
 さあ成績が伸びた証明は済んだ、いざ上智大学へと浮かれていたのですが、親は浪人時代に東京でまともに予備校へ通わず怠慢な日々を過ごしていたことを見抜いていたんです。この先まだ遊びほうけるために金を出すつもりは無いから、大学へ行かず働くか、地元の筑波大学に行くか選べと迫られました。
 金を出さないと言われたらおしまいだ、と当時の私は考えていたので、渋々ながらも筑波大学へ通うことに決めました。ちなみにあの時、働くという選択をしていたら、旅行会社の添乗員になりたいと考えていたのでアルバイトで学費を稼ぎながら東京国際観光専門学校に行こうと決めていましたね。


初授業で落胆、無為の日々に…
 意に沿わない筑波大学の比較文化学類に入学した私でしたが、初めて受けた授業は今でも忘れません。「古代オリエント史」という科目の授業で、先生が脇の下にびっしょり汗をかいて「文明の揺りかごは古代オリエントだ!」と熱弁されているんです。そんな先生には申し訳ありませんが「自分には関係ねえな」と心の中で思っていました。こんな授業が続くのならやっていられないなと不貞腐れた私は、それから数ヶ月間授業にもろくに出ず、宿舎で酒を飲むばかりという無為の日々を過ごすようになりました。
 いつものように酒を飲みながら、なぜこんなに筑波大学を嫌っているのだろうとつらつら考えていたある日のことです。私が京都大学に憧れ、筑波大学を嫌う理由のよりどころは、予備校の出している大学偏差値一覧、その順位の差だけなんだということに気づいたんですね。確かに筑波大学は田舎だし、宿舎が汚いのも嫌だけど、そもそも知らない京都大学と比べることはできないわけです。高校時代には、受験制度によって意味のない学習を強いられていると思っていた私が、その忌み嫌う受験制度が生み出した偏差値一覧表に振り回され、囚われてしまっていたんですね。これって、私が一番どうでもいいことだと考えていたことじゃないかと思い至った時に、フッと目の前の霧が晴れる思いがしました。
 それからは本来望んでいた教育学をやるために学部を変わろうと大学の図書館で調べたところ、筑波大学には人間学類の下に教育学主専攻があることを知りました。筑波大学の前身は「東京教育大学」で、よくよく調べると明治5年の師範学校の頃からずっと続いている、素晴らしい歴史がある大学だと初めてわかったんです。
 もちろん「転類試験」を受け、2年生から転入しました。人間学類では、自分の知識や認識の薄っぺらさを思い知らされ、同時に教育学の奥深さとそこに分け入っていく醍醐味も味わいました。勉強の面白さに初めて出会った気がします。
 熱心になれなかった比較文化学類でしたが、最大の収穫はカミさんと出会ったことですね。大学時代からずっとつき合っていて、大学4年の卒業間際に学生結婚しました。教員を目指していた彼女は神奈川県出身だったので、実家に帰ってしまうと会いにくくなると思ったんです。私の両親は大反対でしたが、ありがたいことに彼女のご両親が遅かれ早かれ苦労するんだし、いいじゃないかと言ってくださって、私の両親を説得する形で許してもらいました。
 大学院生の頃はお金もなくて大変でしたので、支えてくれたカミさんには今でも頭が上がりません。今から考えるとよく結婚を許してくれたと思いますよね。私には娘がふたりいますけれど、娘が大学院生と結婚するなんて言い出したら、まず許しませんよ。


進路指導への興味が生まれて
 キャリア教育、進路指導というものに興味を惹かれ始めたのは、AO入試や推薦入試が始まって、受験制度に国が手を入れ始めた時期です。私は受験制度がおかしいというところを出発点にして研究をしていたのですが、どれだけ理屈をつけて受験の制度設計をしたところで、当の高校生はどこに合格できるかという視点でしか見ていません。制度設計の意図と利用の実態がずれている制度というものは必ず失敗します。合格できるかのみに視点を置いて利用される入試の多様化も、今のままではいずれ崩壊すると危機感をもちました。高校生には大学に入ったその先、向こう側を見据えた利用をしてほしい。それは制度の一環として考えなくてはいけないなと思っていました。
 そんな折に、どうやら進路指導というものがあり、在り方、生き方指導というものが戦後ずっとあると知ったんです。しかし、自分の高校生活を振り返っても、本来の進路指導というものをされた覚えがないんですね。やることになっているのに、されていない実態の中で、理念と実態の乖離をどう埋めればいいのかと考えました。
 制度というものは、作るときにはそこに設計意図があって、予算も投入します。しかし次第に時代に合わなくなったり、予算を削られたりして制度も変容していくわけです。進路指導も、作った時には設計意図があったものの、戦後何十年もの間にどこかで歪みが生じたんですね。ではその歪みは、どこから生じたのかということを研究し始めたところ、元々のスタートはアメリカからの理論の輸入だと気づきました。
 そうなるとアメリカと比較研究をする必要がある。幸い私にはアメリカ留学経験もあるので、その経験が活きてくるだろう。そういった思いから、アメリカの比較研究と入試制度の研究、進路指導制度の研究にずっと取り組んでいました。
 自分自身の浪人時代と大学時代を振り返って、私のように受験の枠組みの中にどっぷり埋まり込んでしまい、その中でただ不貞腐れているつまらない若者を作りたくない、ひとりでも減らせたらいいなという思いが強くありました。


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