新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第1回
筑波大学教授
藤田晃之さん
平成25年冬季号掲載


PROFILE
昭和38年茨城県生まれ。専門は教育学、進路指導・キャリア 教育研究。中央学院大学、筑波大学教員を経て、平成20年より5年間文部科学省国立教育政策研究所 生徒指導・進路指導研究センター総括研究官、及び、同省教科調査官・生徒指導調査官を任官。キャリア教育に関わる調査・研究と施策推進に携わる。現職は筑波大学人間系教育学域教授。

小さい頃は、動物や昆虫を意味なく解剖していました。クワ ガタの足や蝉の羽をむしったり…変わった子どもでしたね。
「先生の子ども」からの逃避
 生まれは茨城県の岩瀬町(現・桜川市)です。今もそうですが当時はもっと田舎で、鉄道は1時間に1本しかないようなところでした。私が5歳の時に弟が生まれたのですが数週間で亡くなったので、ずっとひとりっ子として過ごしました。
 両親とも小学校の教員です。父は行政へ行ったり現場へ戻ったりでしたが、母は地元の学区に勤務し、しかも私が小学校に入る時にはその学校に勤めていたんです。朝礼や運動会の時に顔を合わせるという環境がすごく嫌でした。いつも周囲から「先生の子」と言われるのが嫌で仕方がありませんでしたね。
 小学校を卒業して、これで母親から離れられるとホッとしていたら、入った先の中学校にまたしても母親が赴任して来たのは、まさに悪夢でした。そのため高校はなるべく家から遠いところを希望しました。でも波風を立てることは嫌なので、親も認めるような進学校へ行けばいいと考えたんです。それで家から片道1時間以上かかる、水戸一高へ行けば自由になれるんじゃないかと考えました。当時水戸一高へ行けるのは同じ中学校でひとりかふたり。それでも自分のことを誰も知らない環境で高校生活を送ってみたいと思ったんです。


高校時代にアメリカへ留学
 音楽の教員だった母親の影響もあり、物心ついた頃からずっとピアノを習っていて、中学3年生くらいまでは、将来はピアニストになりたいと思っていました。ところが、水戸一高には私よりも上手い人がいっぱいで、これはダメだと高校1年生でピアノは諦めました。それまではピアノが唯一のよりどころだったのに、目指すものがなくなってしまったんです。自分の望む高校に入って自由になったけれど、目標が消えてしまった。さあどうしよう、と考えた末に「もっと広い世界を見てみよう」と、すぐにアメリカへ留学することに決めました。
 留学先はアメリカの田舎町でしたから、まだまだ日本人が珍しく、ジロジロと観察されるのが嫌でしたね。
 また当時、アメリカの高校は数学の授業のレベルが日本よりだいぶ低く、先生から教えることは何もないと言われたんです。学年も飛び級扱いで、最終学年に在籍することになりました。その結果留学中の1年間、数学はまったく勉強しませんでした。しかしそれが運の尽きだったのか、以来数学がさっぱりできなくなってしまいました。
 当時留学は留年扱いだったので、日本に戻ってきたら1学年下の友人たちと過ごすことになります。もちろん不安はありましたが、水戸一高はいい子の集まりなので、ちゃんと迎え入れてくれました。アメリカでは名前から『テリー』と呼ばれていて、卒業アルバムにも『テリー・フジタ』と書いてあるんですね。高校のみんなからもテリーと呼ばれて、かわいがってもらいました。


受験勉強への疑問がふくらみ…
 日本に戻ってくると、勉強がさっぱりできなくなってしまい、405人中398番ほどと正真正銘の落ちこぼれでした。あまりにも私ができないのを見かねて、周りのみんなが助けてくれるんです。球の体積は『身の上心配アールの惨状』で覚えろ、炎色反応は『リアカー無き…』で覚えろ、と丁寧に教えてもらって、なんとか卒業単位は取ることができました。
 でも私はこのような勉強に、果たしてどういう意味があるんだろうかと考えだしてしまったんです。先生方は「大学受験に出るから」とおっしゃるんですが、私は大学に入ったらきれいさっぱり忘れてしまう自信がありましたので、すぐ忘れてしまうようなことをいくら覚えても仕方がないと感じていました。
 先生方には「余計なことを考えているヒマがあるなら勉強しろ」と言われていましたし、全くその通りなのでしょうが、受験勉強そのものには熱心になれませんでしたね。
 ただその時期に、意味がわからない勉強を強いられるにも何らかの理由があるはずだから、その間違いを突き崩したいと考えました。そのためにはまず相手を知る必要がある、そう思って大学では教育学を志望することに決めていました。


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