第62回
国際ラリーライダー,エッセイスト
山村レイコさん
2004年11月号掲載


PROFILE
国際ラリーライダー,エッセイスト。一九五七年,東京に生まれる。一九七五年に都立保谷高等学校卒業後,都内の新聞原稿輸送会社に入社し,プレスライダーとしてバイクで官庁街や新聞社間を走り回る。一九七六年に同社を退社し,日本一周バイクツーリングに出発。アルバイトをしながら全国三万キロを旅する。一九八七年に幼少からの憧れだったアフリカに初めて足を入れて以来,海外ラリーにのめり込む。二〇〇〇年一月のパリダカールラリーでは,二輪車部門総合八七位(女性クラス三位)を果たす。一九九五年から住み慣れた東京を離れて,富士山麓の朝霧高原に移り住む。ホームページアドレスは,http://www.fairytale.jp

19歳の時,東京都内にて
少女時代は漫画家になりたかった!
 私は東京都田無市の出身(現・西東京市)です。父が自衛隊に勤務していて田無に官舎があったので,何度も地方に転勤してはまた田無に戻るという生活の繰り返しでした。あまりにも引っ越しが多いので,両親が北海道に転勤になったのを機に私は姉たちとアパートを借りて暮らしたこともありました。交替で食事当番をするなど,姉妹だけの生活は本当に楽しかったです。私が中学二年生から高校二年生ぐらいまででしょうか。両親が東京に戻ってくるまで続きました。
 私は四人姉妹の末っ子です。両親は男の子が欲しかったのでしょう。姉妹の中で私だけが男の子みたいに育てられました。男の子の遊びも好きでしたが,私は絵を描くのも好きでした。姉たちも絵を描くのが好きで,特に一番上の姉はそれが高じて漫画家になってしまったほどです。私も姉の影響で,本格的にからす口を使って描いていました。姉と同じ道へ進もうと思っていたら,なぜか途中でバイクの方へ転向してしまいましたね(笑)。

「牧場を見つけて働きます」
 中学一,二年生の頃はテニスに夢中のスポーツ少女でした。おまけに漫画も描いていて,大きな夢も持っていました。ところが中学三年生になると,卒業後はどうしたらいいのか自分でもわからなくなってしまったのです。当時の姉の世代がちょうど学園紛争の真っ最中で,そうした影響もあったのかもしれません。安易に妥協して周囲に流されてはいけないと感じるようになったのです。
 実は高校の合格発表の前に,私は進学せずにオーストラリアや北海道の牧場で働こうと本気で考えたことがありました。一校だけ受けた都立高校が絶対に不合格だと思えたのもあって……。
 結局,合格したので考え直して入学したものの,しばらくすると牧場への思いが再燃してしまいました。夏休みが終わると,両親に「北海道の日高の方に牧場を見つけて働きます」と宣言したのです。すると両親は「とても大変なことだけど,やりたいのならやりなさい」と言ってくれました。
 早速,夏休みに貯めたアルバイト代を旅費にしてフェリーで苫小牧まで行き,さらに襟裳岬にたどりつきました。ところが,九月だというのに全然仕事がありません。帰路,八戸に一泊して,翌朝近くの港で働いている人たちを見ていたら,思わず「生きるって大変だな」という気持ちがこみ上げてきました。
 結局,東京に戻って再び高校に通うことにしましたが,この時は自分の弱さが見事に露呈してしまった感じでした。世の中には高校生ぐらいから働き始める人もたくさんいます。とにかく自分の中でやりたいことはあるものの,理想と現実がうまく一致しないという焦燥感がありました。

女性のプレスライダー
 バイクと出会ったのは高校一年生の夏でした。市営プールの監視員のアルバイト先で,仲間が全員バイクに乗っていたのです。私はいっぺんに憧れてしまい,十六歳になるとすぐに原付免許を取りました。
 私は長期休暇のたびにプールやスキー場などで働いている“バイト少女”でした。とにかくありとあらゆる仕事をしました。今でも私はそうですが,働いてお金を貯めることよりも,働くこと自体がとても好きだったのです。とにかくどんな仕事でも,自分が働く以上は常にバイト仲間の中で一番いい仕事をしようと考えていました。
 そんな私ですから,高校を卒業する時も早く社会に出て働きたいと思っていました。当時,同じ学校で就職したのは,私と,銀行に就職した女の子の二人だけでした。
 私が就職したのはバイクで原稿を運ぶ原稿輸送の会社です。しかし,当時は知らない人が多くて,担任の先生にも「それはどんな仕事なんだ」と聞かれたことがありました(笑)。
 きっかけはバイク雑誌に載っていた求人広告でした。「原稿輸送員(プレスライダー)求む」という広告を見て,おもしろそうだなと思ったのです。そこで雑誌に掲載されている会社を十五社から二十社ぐらい回りました。残念ながらほとんど断られたものの,何とか一社だけ就職することができたのです。当時は女性の輸送員がほとんどいなかったので私はかなり珍しがられました。
 他の事務所は大体キャップ以下,二十人ぐらいのスタッフがいて,しかも上下関係が厳しいところが多かったようです。ところが,私の入った事務所は男性が三人ぐらいの小さなところで,待機中もみなさん自由に過ごしていました。
 もっとも,のんびりしてばかりいたわけではありません。いざ原稿を輸送する時は,一日に五十カ所ぐらい回ります。朝は新聞の型になる「紙型」というものを運んで,その他にもニュースを三便,四便と運ぶのです。とにかく毎日ものすごい距離を走っていました。

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