第44回 麻将連合代表、日本健康麻将協会特別代表 井出洋介さん

牌譜研究はほとんどパソコンで行います。日本健康麻将協会のホームページのアドレスはhttp://www.kenko‐mahjong.com/です
卒論は「麻雀の社会学」
 大学二年生頃に,卒業したらどうしようかなぁと悩んだこともありましたが,どうせいくら悩んでも考えてもわからないのだから,とりあえず好きなことを続けて,何かが見えてくればいいやと思ったわけです。好きなことというのは音楽とスポーツと麻雀ですね(笑)。その中で,麻雀については大会に出ていたんですね。それで,大学4年の夏くらいに,なんとなく麻雀の世界でどうにかやっていけないものかなぁと思いはじめたんです。ところが,小学校の時に野球選手になりたいと言えなかったのと同じように,まだその時は親には堂々と言えず,「このまま卒業したら,何を学んだのかわからない。もう一年留年したい」と言ったんです。親にはそう言っていて,やっていたことは麻雀ばかりなのですが(笑)。マスコミがおもしろがって「東大生でプロに挑戦しているやつがいる」ということで取り上げてくれたのもこの頃です。で,留年して5年生になったら,いっそう麻雀ばかりになっていました。そうなると,卒論は麻雀とは全然関係ないことを書くということが,おもしろくなかったんです。特に大学時代の後半は自分がやってきたことはほとんど麻雀なんだから,なんとか卒論に書けないものかと考えたんです。それで「麻雀の社会学」というテーマにしたんです。書き上げて提出したら,後で担当教授に呼び出されて「お前,これはなんだ」と聞かれましたがね。今だったらもっとうまく書ける自信があるんですが,まだまだ当時は社会学的な追究をしていたわけではないので,原稿用紙を埋めただけという感じでしたね。最近ではいろいろな人が大学で麻雀を卒論のテーマに取り上げているようですが,その元祖は私です(笑)。

「井出以前」と「井出以降」
 一九七九(昭和五十四)年三月に大学を卒業してプロの道を歩み始めたわけですが,その瞬間にはフリーターですよね。しばらくは,雀荘の従業員の仕事だけで収入を得ていました。その間にタイトルこそ取れなかったものの,徐々にいい成績を収めるようになり,少しずつ雑誌などから原稿依頼の仕事も入ってきたりして,生活の元手ができてきたんです。
 さらに私にとって幸運だったのは,麻雀教室の講師の依頼も入るなど,だんだんと多角的な形で収入が増えていったんです。私の仕事って,早い話がだれかがやっていたのではなくて,新しく開拓してきたものが多いんじゃないかな。なんでも自分でおもしろがってやってきたからできたと思うんです。
 プロの世界に入って後悔をしたことは一度もありません。収入が不安定なのも覚悟していましたから。ただ,麻雀のイメージが悪いことや,業界の遅れている部分などは強く感じましたね。でも,この世界に入った以上は仕方ないし,そもそも自分が好きで入ったんだから愚痴なんか言いたくないんです。麻雀と同じです。毎回,いい配牌がくるわけじゃない。いくら悪い配牌でも愚痴ったってどうしようもない。それをいかにしてうまく上がるか。物事全部そういう発想です。ですから「少しでも収入を増やすために高レートの麻雀を……」なんてことは,私はいっさい考えたことはなかったです。だって,もしも負けたら終わりじゃないですか。そんなことをやっているから麻雀をやる人は「博打打ち」と言われてしまうんです。「博打打ち」なんて言葉は,けなし言葉ですよ。私の先輩の世代の中には,「自分は博打打ちの端くれ」なんて誇らしげに言っている人もいましたけど,私の中ではそういう認識を切り替えていくというのが生命線です。ですから,麻雀の世界で「井出以前」と「井出以降」では,全然違うと思います。「井出以前」は博打打ちが主流であり,それが誇りだったんですが,「井出以降」はそういう世界とは決別です。


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