第23回 カイチュウ博士 藤田紘一郎さん

サトミ,ヒロミにつづき,今,お腹にいるサナダムシは三代目のキヨミちゃんです(笑)
トイレで会ったのがウンのつき
 ぼ「柔道家は骨接ぎに限る」と整形外科でインターンをしていたとき,伝染病や寄生虫の研究が専門の加納先生とトイレでばったり一緒になったんです。そのとき先生から「夏に風土病の調査団で奄美諸島に行くが,誰か荷物持ちはいないか」と尋ねられまして,「それなら柔道部から誰か出られるか聞いておきます」と答えたんですね。ところがみんなに聞いたら,「船酔いする」とか「ノーギャラじゃいやだ」と誰も行きたがらない。それっきりにしていたんですが,再びトイレで先生にばったり会ってしまった。「あの件どうなった」と聞かれたので,「誰もいません」と答えたところ,「ここで一緒にトイレに入ったのがウンのつきだ」と,強引に調査団の荷物持ちをやらされる羽目になってしまったんです(笑)。
 当時,奄美には寄生虫病であるフィラリア病にかかっている患者さんがたくさんいました。足が象のように太く固くなったり,陰嚢がちゃぶ台のように巨大化して悲惨な目にあっている人たちを見て,大変な衝撃を受けたんです。思わず「これは誰かが何とかしなくてはだめですね」と言ったところ,すぐに先生が東大の伝染病研究所に電話して,「寄生虫の研究をしたいという藤田というものがそちらの大学院にいくからよろしく」と断わる間もなく強引に決めてしまったんです。「誰かが」とは言いましたが,「私が」とは言った覚えはないんですが(笑)。つき合っていた彼女に「大学院で寄生虫の研究をすることになった」と言ったら,さっさと別の男に乗り換えて去っていきましたね(笑)。もっともインターン時代,けんかで担ぎ込まれた患者さんのちぎれた耳を,ひっくり返して縫いつけて大目玉を食ったこともありましたから,こちらの道に入ったのは正解だったのかもしれません(笑)。


日本から寄生虫がいなくなった
 寄生虫の研究をするということで,伝染病研究所の大学院に入りましたが,寄生虫の専門家というのはやっぱりいやだったんです。まだ寄生虫に偏見をもっていたんですね(笑)。だからコレラ菌とか大腸菌の研究をメインにやっていました。コレラ菌の毒素についての研究が認められてテキサス大学にも呼ばれもしました。ところがテキサス大学で研究をしているうちに,日本の大学で寄生虫学を教える人がだんだん少なくなってきた。それで呼び戻されて教職に就いたんです。
 しかし,初志貫徹とばかり,カイチュウ・ゼロ作戦を展開しているうちに,我々は日本の風土病ともいわれた「フィラリア病」も「住血吸虫」も,この日本から消滅させてしまったわけです。世間とは冷たいもので,こんどは私たちのような研究者はいらないと,多くの大学から寄生虫学の学科や講義が消えていきました。それで「寄生虫学ではもう食べていけない,熱帯医学の専門家になってごはんを食べよう」(笑)と,インドネシアのカリマンタン島に健康調査に行くことにしました。
 実は,私とインドネシアとの付き合いは古く,大学院時代にまで遡ります。その当時,インドネシアのカリマンタン島ではラワン材が取れまして,日本の商社が一斉に入って,木を切り出したんです。船一隻出すと何億円も儲かるというんで,もう特攻隊みたいに行ったわけです。ところが現地入りした日本人が,マラリアとかアメーバー赤痢なんかでばたばたと亡くなってしまう。日本には熱帯病のことを知っている医者なんてほとんどいませんから,私に白羽の矢が立って,半年ぐらい治療のために行っていたこともあるんです。私は,そのカリマンタン島で驚くべき事象を再発見することになりました。


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