第23回 カイチュウ博士
藤田紘一郎さん
2001年8月号掲載


PROFILE
ふじた・こういちろう 東京医科歯科大学教授。昭和十四年中国東北部(旧満州)生まれ,三重県育ち。東京医科歯科大学医学部卒業。東京大学大学院にて寄生虫学を専攻。テキサス大学で研究後,金沢医科大学教授,長崎大学医学部教授を経て,六十二年より現職。専門は寄生虫学,熱帯医学,感染免疫学。日米医学協力会議のメンバーとして,マラリア,フィラリアなどの免疫研究の傍ら,「寄生虫体内のアレルゲンの発見」「ATLウイルスの伝染経路の発見」など多くの業績をあげる。「笑うカイチュウ」「恋する寄生虫」「清潔はビョーキだ」など著書多数。日本寄生虫学会賞,講談社出版文化賞,日本文化振興会社会文化功労賞および国際文化栄誉賞受賞。

回虫と共生していた三十年前の日本にはアレルギー疾患はほとんどなかったんですよ
自然の中で暮らした少年時代
 私は父親が軍医をしていたこともあって,旧満州で生まれました。その頃の記憶はあまりないんですが,めちゃくちゃ寒かったということだけは覚えています。終戦直前,何とか日本に引き揚げることができましたが,東京へ着いた途端に大空襲があって,猛火の中を死体を飛び越えながら逃げた。そんなこともあって,「とりあえず食べていければ幸せ」という人生観が体に染みついていますね(笑)。
 終戦後,父親が三重県の国立結核療養所の副所長になった関係で,私たち一家は官舎で暮らすことになりました。結核はご存知のように人にうつる病気ということで,どこでも人里離れた場所にある。この療養所も明星村という山村にありました。食糧難の時代ですから,療養所の敷地内で畑も作っていました。ヤギ,ウサギ,ニワトリなんかも飼っていて,私が飼育担当ということでずっと面倒を見させられましたね。弟とふたりで肥かごを天秤棒で担いでは人糞を畑にもまいていた。私と弟は身長差がかなりあったものだからバランスを取るのがむずかしく,弟の頭の上に人糞をぶちまけたこともあります(笑)。私がいまでも東南アジアの農村なんかにいくと,心が自然に落ち着くのはそんな経験が影響しているのかもしれません。

体育会系医学生の誕生
 高校卒業後,東京医科歯科大学に入学しましたが,医者になろうと小さい頃から考えていたわけではありません。うちは両親ともまったく教育不熱心で,「勉強しなさい」なんて言われたこともない。受験前日ですら早朝からヤギやニワトリの世話をさせられたくらいです(笑)。
 高校二年生のときですが,担任の先生から「君は将来何になりたいのか」と聞かれて,はたと困ってしまったわけです。職業といえば,医者とお百姓さんぐらいしか思いつかなかったんです(笑)。農業は大好きだったんですが残念ながら土地がない。そこで「医者になりたい」と言ったところ,「君の成績では無理」と一笑されたんです。成績は中の下でしたから当然です。先生からは「とにかく勉強しろ」と言われて,それからはもう死ぬ気で勉強しました。それまでちゃらんぽらんに遊んでばかりいましたから,「医者になれなければ,自分はこの世の中で生きていけないんじゃないか」という恐怖心があったんです(笑)。何でもかんでも丸暗記のインチキ勉強の効果があって,一浪後,東大の理?と東京医科歯科大に合格することができましたが,「医者にならなければ生きていけない」という恐怖心は強く,迷いもせずに医科歯科大を選びました(笑)。
 ホルモンといえば,ホルモン焼きのことだと思っていたような医大生ですから,入学後も勉強はそこそこに,頭の中は女の子といかに付き合うかということに心を砕きましたね(笑)。最初は女子大と合同の英会話研究会に入りましたが,なにせ田舎ものですから発音がめちゃくちゃなわけです。私が話すと女の子たちが笑うんですね。これはだめだとテニス部に移ったんですが,もてる奴は決まっている。女の子はみんなそっちに行ってしまい,こちらは球拾いばっかり。最後はやけくそで柔道部に入ったんですが,これは私にぴったりでした。柔道部には田舎から出てきて女の子にもてない連中がいっぱいいました。ありあまるエネルギーを柔道で発散する体育会系医学生の誕生です。ちょっと悲しいものがありますが(笑)。

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