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荒山徹

<11月の新刊によせて>『禿鷹の要塞』幸州山を訪れた日

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荒山徹(あらやま とおる)
1961年富山県生まれ。上智大学卒業後、新聞社、出版社勤務を経て韓国に留学。1999年『高麗秘帖』でデビュー。2008年『柳生大戦争』で第2回舟橋聖一文学賞を受賞。近刊に『シャクチ』『柳生黙示録』『砕かれざるもの』などがある。

韓国の首都ソウルを訪れた人なら、空港からソウル入りする少し手前の辺り、漢江に臨んで円錐形の小山が聳えているのを目に留めた記憶がおありだろう。河沿いに続く平坦な地形の中にあって右岸のそこだけがいきなり盛り上がっているので印象に残りやすい。

今から四百十九年前、この小山が戦場になった。山頂の砦に立て籠もったのは朝鮮の軍民あわせて五千余り。これを陥落させようと麓を囲んだ日本軍は六倍の約三万。采配を振るのは小西行長、黒田長政、宇喜多秀家、小早川隆景ら豊臣秀吉麾下の綺羅星の如き武将たちで、軍目付として石田三成、大谷吉継らも顔を揃えていた。

山名は幸州山。韓国語で前掛け、エプロンを「幸州チマ」というのは、ここでの激戦に故事来歴する。男性だけでなく女性までもが戦った証しなのである。激戦とはいえ一日で勝敗が決し、後の戦局に多大な影響を及ぼした幸州山城の戦い。その全貌を描いたのが拙作『禿鷹の要塞』である。まずは背景をかいつまんで紹介しよう。

秀吉が征明戦争を実行に移したのは、前年の文禄元年(一五九二)四月のこと。日本軍は朝鮮の王都である漢城(現ソウル)を占領し、全土の制圧に乗り出す。小西行長は北上して開城、平壌を奪うものの、朝鮮の宗主国である明が送った援軍に敗れ、年明けまもなく漢城に撤退。明軍は王都を奪回すべく南下する。これを迎え撃ったのが小早川隆景と立花宗茂だった。漢城の北、碧蹄館の地で勝利し、明軍の意気を大いに沮喪させた(この碧蹄館の戦いは戦前よほど知られたものだったらしく、文豪菊池寛も短編を書いている)。

さて一息ついた日本軍は、漢城にほど近い幸州山に朝鮮軍が集結し、気勢をあげていることを知る。おのれ小癪な、かかる小山なんぞ一日あれば落としてくれるわ。そんな調子で出陣したのだったが……という次第で、興味のおありの方は拙作を手にとっていただければ幸いである。なお、主人公は前作『徳川家康 トクチョンカガン』で家康の影武者になるという数奇な運命をたどった朝鮮僧の元信がつとめる。彼の前日譚めいた趣向にもなっている。

二十二年前、わたしは幸州山を訪ねた。元信の奮闘に擬えて自身の前日譚を少しばかり記したい。

ソウル五輪の翌々年、一九九〇年のことだ。きっかり六年間を勤めた新聞社を退社して浪人になった。進むべき方向が見えない中、何はさておき始めたのが韓国語の学習だった。いわゆる指紋押捺拒否運動の取材から始まった韓国・朝鮮への関心は、かの国の言葉を自分のものにしたいという熱情的な域にまで高まっていた。

東京の市ヶ谷にあった語学院に半年通った後、意気込んで渡韓。九月二十九日、釜山港でフェリーを下船し、生まれて初めて半島の地を踏んだ。十万円を換金すると五十万七千二百六十ウォンだった。その日のうちに高速バスでソウルへ(バス料金は五千九百七十ウォン)。翌日、真っ先に足を向けたのは南山の安(重根)義士記念館である。

翌十月一日は韓国軍の創設を祝う「国軍の日」。汝矣島の広場で軍事パレードを見物した。戦闘機の編隊まで飛来してくる盛大なものだ。二日の火曜日には国立中央博物館へ行った。博物館は、今は取り壊された旧朝鮮総督府の壮麗な庁舎が活用されていた。帰り道、書店で宇宙戦艦ヤマトの本を千ウォンで買ったが、ハングルで記された題名は何と『ウーヂュヂョーナムペクトゥサン(宇宙戦艦白頭山)』であった。古代進はキム・チャドルと“創氏改名”していた。

建国記念日「開天節」の三日は碧蹄館の戦跡地を訪ねた。それまでわたしは歴史にさほど関心がなく、名所旧蹟の類いに自分から進んで足を運んだのは生まれて初めてのことだった。してみれば韓国語を学ぶうち韓国史に開眼し、わけても文禄・慶長の役への興味が育っていたに違いない。

旅行中につけた当時のノートを読み直すと「秀吉の朝鮮侵攻って一体何だったんだろう。否定的でも肯定的でもなく、ただひたすら現地でそれを考える」「現在の日韓関係にあって、この戦いを語ることはきわめて難しいようだ」「とにかく小説においても朝鮮侵攻は語られなさすぎる」などと書いてある。

帰途、地下鉄三号線の旧把撥駅に歩いて向かう道すがら、碧蹄館の戦いを記念したモニュメントに偶然でくわした。碑に嵌められたプレートには英文で次のように書かれてあった。

in1593 This area was also a bloody battlefield, the united force of Korea and Ming(ancient China)commanded by gen. Li Ju-Sung of the Ming, had a fierce battle with Japanese troops led by gen. Kobayakawa,Takakage and Tachibana,Muneshige on January 26th,1593 at Mt. HYE EUM RYEONG, located 3km north of BYEOG JE GWAN.

固有名詞は順に李如松、恵陰嶺、碧蹄館である。この「ジェネラル小早川隆景アンド立花宗茂」という表記を見つけた時、不思議と胸がふるえ、放心したことを今も鮮明に記憶している。疲れ果ててホテルに戻ると、テレビ(KBS2)でアニメ「鷲五兄弟」が放送されていた。おお、我らがガッチャマンではないか。

翌日、幸州山へ。当初の予定ではソウル駅から京義線に乗って陵谷駅で下りるはずが、その三駅前の水色駅までは九月下旬から十月九日のあいだ運休になっていた。そこで地下鉄二号線の合井駅で下車、あとは徒歩で行くことにした。ちなみに新村駅から二駅目の合井駅まで運賃は二百ウォンだった。合井から漢江沿いの広い道(両側は未舗装)を九キロ以上も歩いた。

「早いうちから幸州山が見えてくる。小高いというより、まるで盛り土をしたような低い山が正面に」とノートにある。入園料六百ウォン。山頂一帯がハイキングコースのような公園で、家族連れが目立った。入口の門をくぐると権慄将軍の巨像が睥睨し、山頂には遠目にもよく見える幸州山城戦捷記念碑が天を摩して屹立していた。

翌日ソウルを出発し、三年前に開館した天安の独立紀念館を見学した。その後は、温陽で顕忠祠に詣でたのを皮切りに、麗水、順天、忠武、釜山と主に李舜臣ゆかりの地を巡った。李舜臣は我がデビュー作『高麗秘帖』の主人公である。彼の率いる水軍の本営が置かれていたのが麗水で、今年二〇一二年には万博が開かれた。突山大橋のたもとに繋留されていた復元亀甲船に乗った時はさすがに感激した。順天には小西行長の曳橋城跡があり、こちらは二作目の『魔風海峡』で後半戦の舞台となった地だ。見足りない思いを抱きつつ再訪を誓って釜山から帰国のフェリーに乗船したのが同月十三日。初めての韓国は半月の滞在だった。

さて、連載終了後の今夏、身の回りのものの断捨離を進めていると、紛失したとばかり思っていた当時のノートが出てきた。よって二十年以上も前のことを縷々と書き綴り得た次第である。読み返してみて、この時の旅こそ──というか韓国こそ、やはりわたしの原点なのだなあと痛感させられた。『禿鷹の要塞』は久しぶりに書いた韓国ものであり、書き進めながらその念は強くなっていたのだが、ノートのおかげで改めて自分自身に確認できたように思う。

幸州山の記念館に戦闘場面の精密な絵画が幾点か展示されていた。ノートには「死んだ兵士の横で投石する朝鮮軍。石を手渡しで補給するのは女の人ではないか!」云々と記している。『禿鷹の要塞』を書き終えた今、それを読むと感慨を禁じ得ない。その絵から受けた感動を二十二年後に一篇の小説として仕立てたようなものだからだ。

デビュー以来、主に戦国時代から江戸時代の日韓交渉史を主題にしてきた。周知の通り両国のかかわりはそれだけに限るものではない。古代から近代まで、いや現代から未来まで、今後も原点を忘れることなく面白い伝奇小説を書きついでいけたらと思う。


※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2012年12月号の掲載記事を転載したものです。