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久坂部羊

迫真の医療小説『いつか、あなたも』刊行に寄せて 現場の悲しみと感動 久坂部羊

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『いつか、あなたも』
膵臓がん患者の60代女性が亡くなった。看護師のわたしは新米医師に死後処置――遺体への綿のつめ方を教えることに(収録作品「綿をつめる」)。
在宅医療専門クリニック看護師と新米医師、院長らが、患者本人と家族、病とその終焉に向き合う。終末医療、看取り、安楽死、死後処置……カルテに書かれない六つの物語。
定価(本体1500円+税)
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久坂部羊(くさかべ・よう)
1955年大阪府生まれ。大阪大学医学部卒。外科医、麻酔科医、在外公館医務官として勤務。在宅医療などに携わりながら、2003年『廃用身』でデビュー。医師会、医療過誤、安楽死、医療行政、新型感染症などの問題に切り込んだ作品として、『破裂』『無痛』『糾弾』『神の手』『第五番』『嗤う名医』『芥川症』ほかがある。14年『悪医』で第3回日本医療小説大賞を受賞。
 今月、刊行された拙作『いつか、あなたも』は、在宅医療を舞台にした連作小説です。

 在宅医療とは、患者さんの家に行ってする診療ですが、いわゆる往診とは少しちがいます。往診は発熱や腹痛など、症状のあるときに臨時で診察に行くのに対し、在宅医療は、症状の有無にかかわらず、決まったスケジュールで定期的に訪問する診療です。24時間対応なので、もちろん臨時の往診も行いますが、基本的には2週間に一度、あるいは毎週の訪問診療がベースとなります。

 対象となるのは、寝たきりや認知症の高齢者、末期がんの患者さんなどで、治療だけでなく、自宅での看取りも行います。

 私は2001年から14年まで、在宅医療が専門のクリニックに非常勤医師として勤め、多くの患者さんを診察しました。今回の連作は、そのときの経験をもとにした、ほぼ実話の小説です。

 六つの作品のうち、四つは小説内で患者さんが亡くなりますし、一つは家族が死に、残りの一つも患者さんは苦しい道を歩まざるを得ないことが暗示されます。タイトルに、どことなく希望を感じる人がいるかもしれませんが、それとは裏腹に、絶望的な話ばかり集めた連作なのです。

 そんな暗い本、だれが読むのかと、早合点しないでください。私がこの小説で描きたかったのは、現実の悲しさ、切なさ、厳しさもさることながら、運命の不思議さ、そして何より感動なのです。

 平和で豊かな現代では、私たちに襲いかかる脅威は、事故と災害を除くと、やはり病気ということになるでしょう。がん、認知症、うつ病、難病など、平穏な日常を破壊する病気はたくさんあります。仮にずっと健康でも、老いと死は避けることができません。それはだれしも頭ではわかっていますが、正面から向き合おうとする人は少ないのが現実でしょう。

 いや、それどころか、ちまたでは、長寿礼賛、健康万歳、いつまでも元気で活き活きと、がん予防法、認知症にならない食べ物、アンチエイジング、各種サプリメント等々、人々に甘い夢を見させ、油断させる情報や物語があふれています。そんな状況を目にするたびに、私はパスカルの有名な言葉を思い起こさずにはいられません。

 ──われわれは絶壁が見えないようにするため、何か目をさえぎるものを前方に置いたのち、安心して絶壁のほうに走っている。

 医師として、多くの患者さんを看取った経験からすると、死は、準備ができていない人ほど苦しみます。老いも、拒絶する人ほど過酷な状況に陥ります。だから、老いや死を正面から見据えた小説は、現実を知る上で、少しは役に立つはずです。同じ絵空事でも、スーパードクターの活躍するものや、ハートウォーミングなストーリーより、有益ではないかと思っています。

 そんな実利的な面だけでなく、何より死にはドラマがつきものですし、老いにも立派さや潔さ、人間的な葛藤や、ときにはユーモアさえも感じられます。それは取りも直さず、小説が描く本来のおもしろさに通じるものではないでしょうか。

 医療の現場では、ときに小説にもできないほど残酷で不条理なことが起こります。どうしようもなく悲惨で、思い出すのもつらい症例。その一方で、このまま当事者の忘却に任せるには、あまりに忍びないケースもあります。それを何かの形で残したいという気持が、しばしば私の中で葛藤しました。

 書くべきか、書かざるべきか。悩む理由の一つは、医師としての守秘義務です。診療の過程で知ったことは、たとえプライバシーに配慮しても、いっさい書くべきではないのではないか。患者さんは小説のモデルになるために診療を受けているのではないし、私も小説のために診療しているのではない。

 しかし、治療しながら、目の前の現実に、どうしようもない表現の衝動を感じることがありました。懸命に病気と闘う人々、家族が置かれた極限の苦悩、死にゆく人々の深い思いを、何としてでも書き留めておきたい。それは身勝手な気持かもしれませんが、私自身には切実なものでした。

 それなら、きちんと相手の了解を得て、ノンフィクションの形で書くべきだという考えもあるでしょう。書き手としては、それが真摯な態度でしょうから。

 けれど、ノンフィクションは、どうしても私の手に余るとしか思えませんでした。事実は複雑で、込み入っていて、簡単には描ききれません。事実を正確に書くと、話がわかりにくくなり、わかりやすく書くと、事実から離れてしまうジレンマがあります。

 また、ノンフィクションでは、客観的な叙述でも、書かれた当人には受け入れがたいことも出てくるでしょう(たとえば、イヤな性格だとか、恥ずかしい事実など)。逆に、モデルとなった人の気に入るようにばかり書いたのでは、到底、よい作品にはなりません。

 さらに、患者さんや家族の気持と、私の印象が、どこまで一致しているかという問題もあります。私の勝手な解釈が、当人のそれとズレているなら、これまた良質のノンフィクションにはなり得ないでしょう。

 これらのハードルを越えられないのは、ひとえに私の技量不足ですが、読者によりわかりやすく伝えるには、やはり小説のほうがいいと考えました。小説なら、プライバシーへの配慮さえ怠らなければ、自分なりの見方が書けるし、悲しみや感動を、より純粋な形で提示することもできます。さらには、小説的なおもしろみも付け加えられます。

 以上のことは、ここで改めて申すまでもなく、これまで書かれた多くの実話を元にした小説に共通することでしょう。ですから、この短編連作も、あくまで小説として読んでいただければと思います。

 老いも死も、肚を決めて向き合えば、決して不快なものではありません。ときに美しく、気高く、感動的でさえあります。その現実を直視することが、平穏な“今”の貴重さ、ありがたさを改めて認識するよすがになるのではないでしょうか。



※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2014年10月号の掲載記事を転載したものです。