特集・記事
平安寿子

平 安寿子<7月の新刊によせて>「こんなわたしで、ごめんなさい」な人たち

共有する
関連ワード
平 安寿子<7月の新刊によせて>「こんなわたしで、ごめんなさい」な人たち画像1
平安寿子(たいら・あすこ)
1953年広島県生まれ。フリーライターを経て、99年「素晴らしい一日」でオール讀物新人賞を受賞。2001年同作を含む『素晴らしい一日』で単行本デビュー。軽妙でユーモアとアイロニーを織り交ぜた独自の作風で幅広い層から支持されている。近著に『コーヒーもう一杯』『しょうがない人』『心配しないで、モンスター』など。
デビュー以来、わたしの基本ポリシーは「人間関係のコメディを書くこと」である。とはいえ、そこは根が生真面目なせいで、だんだん、くすぐりの要素が減ってきたなと寂しく思う今日この頃。短編でクスクス笑える話を書きたいと発心し、個人的な問題で悪あがきする女たちのことを書くことにした。

で、連載時の総合タイトルは『愛とか恋とか』。
すみません、いい加減で。人間関係のコメディは愛とか恋とかを巡って起きると、ざっくり思ったので、そうなったのです。

まずは、婚活ドタバタにした。婚活こそは、「愛とか恋とか」言ってる場合か──の典型だと思ったからであります。
わたし自身は結婚願望がまったくないうえに、結婚に向かないヘタレを自覚しているが、人は結婚すべきだと信じている。

更年期前までは、「三十までに結婚しなければ」という焦燥感にかられるのは社会のプレッシャーゆえと思い込んでいたが、閉経し、さらに還暦まで生きてきて、ハタと気付いた。あの焦燥感は、遺伝子の仕業だ。若いうちに妊娠、出産して、子孫を作れと遺伝子が要求するから。つまりは、自然の呼び声だったのだ!

健全に世代交代していかないと、人類がもたない。それゆえ、婚活は正しいことだったのです。より正しくあるために、若い世代は二十代のうちに結婚して、出産していただきたい。それなのに、いつしか自意識が無駄に発達した現代人は、結婚はしたいけど焦らされるのはなんだかなあと迷うようになった。現代小説家としては、そこらを書いておこう。

次に、前々から個人的に興味のあった問題をやらかすことにした。

それは、巨乳がもたらす弊害。
作者はまったく巨乳ではないが、そうであることの具体的な悩みに興味があった。で、いろいろ調べた結果を発表したくなった。それというのも、その痛み苦しみが、たとえ貧乳でも同性なら如実にわかるからだ。

わかるが、申し訳ないけど、笑える。
胸が小さくて「もっと大きかったらな」と悩むほうが多数派の女の世界。巨乳になりたい女はいないが(その理由は本編に詳しいよ)、明らかに男心をつかむ装置としての巨乳には、同族として嫉妬がらみで蔑む傾向がある。

でも、男心をつかみすぎるのは幸せじゃないぞ。わたしは、そう思っている。なので、男心をつかむ要素を持つ女の苦渋を書きたかったのだ。

なので、巨乳の次は美貌である。
みんな、きれいになりたい。だから、きれいになるための方法をメイク、ダイエット、はては恋愛やセックスにまで求めた特集記事が生まれるわけだ。

それほどに、圧倒的多数の「普通の女」たちは、自分たちが「きれいではない」と思っている。まあ、実際、その程度。人並みとは、そういうことですね。だから、誰が見ても美しい女はすごく目立つ。

わたしは昔から、人並みはずれて美しい女が平凡な専業主婦などをやっているのを見ると、「こんなところで埋もれているのは、もったいない。資源は有効活用しなければ」と、スカウトマンみたいなことを考える癖がある。

「この人、きれいでしょう。見て見て」とお披露目したい。なんでしょうねえ、この気持ち。だが、女はきれいな女が好きだ。整形手術や計算された媚態で上塗りしたフェイク美女は嫌いだが、天然美女は大好き。まあ、天然美女には、同性にとって大敵となるフェロモンがないからでもありましょうがね。

そんなときテレビで、美女なのにトチってばかりのお天気お姉さんを発見した。自分の動画をネットで広める一般人ばかりの現代において、カメラの前であがって頭真っ白になる人は、ほんとにもう、絶滅危惧種である。わたしは俄然、注目した。そして、思った。

きっとこの人はきれいだから、数多いる候補者の中から選ばれたのだ。だが、美貌と度胸が共存しているとは限らない。その証拠に、人気のある女子アナに純正美女は、ほとんどいない。素晴らしいプロポーションとそれを際立たせる装い。テクニックを駆使した美人メイク。豊かな表情。あれらの「わたしを見なさい」と叫ぶ気合いが、オーラとなって輝いているのだ。

それと真逆の、心ならずも美人であることのストレスを、わたしはネットなどから採集した。それらを使って対人恐怖症の美人を登場させ、美人に憧れる不美人の「もし、あの顔がわたしにあれば」なる心境を併走させた。

このあたりから、コンセプトが『愛とか恋とか』というタイトルからズレていった。しかし、作者は気にしない。

次いで、男にとっては天使であろう「ノーを言わない女」を登場させた。この種の女は実在する。わたしも一人、知っている。実にあっけらかんとしており、いわゆる「ファム・ファタール」的要素はみじんもない。というか、身も蓋もないって感じね。彼女にとっては、セックスもスポーツ感覚。

女の敵は意識的に男を誘惑する女であって、簡単に誰とでも寝る女に、同性は割と好意的だ(自分の男が寝取られない限りは)。そんなことも書いてみたかった。

ことほどさように、わたしはモデルがいなければ書けない。だから、この短編集に登場するキャラクターはすべて、現実から材を取っている。

嫌われないように振る舞うがために不本意な立場に追い込まれていく女。その反対に、思ったことをすぐに口にするところを「無神経」と断罪される女。おばさんになっても可愛いファッションを貫いて不気味がられる女。あるいは、明朗快活、社交上手で、人間関係が苦手な人々に羨ましがられる女。

それらを書こうと思ってやり始めたら、いつのまにか、主人公を批判する女友達が現れて、ぼけと突っ込みの漫才スタイルになっていた。これも、わたしの「語り芸好き」という不治の病のせいである。

とはいえ、大幅にデフォルメしてあるから、モデル探しをしても無駄。でも、あなたのまわりにもいるはずよ。あなたそのものだったりするかも。

というか、「気がつかない」「無神経」と非難される女とは、わたしのことである。わたしの場合はこれに、「常識がない」も加わる。

怒られるたびに内心ムカついていたわたしだが、書きながら「無神経」という表現がぴったりの自分を反省した。思えば、歯に衣着せぬ辛辣さがクールでクレバーな証拠とばかり、今までさんざん面と向かって言っちゃいけないことを言い散らしてきた。自分が傷つくと大騒ぎするくせに、人が傷つくのは平気の平左。そんなわたしでした。
反省してるよ。ほんと。改善してないけど。

そして、マナーにうるさく「常識」「世間」を盾に取る人の、実は自分の意見に自信を持てない弱さにも気付いた。

世間的に「正しい」とされるテキストに従うことで、自分を支えている。そのテキストを軽視されるのは自分を否定されるに等しいから、烈火のごとく怒る。
人間とはかくも、自分を支えるのに苦労する存在なのだ。自信を持つのは、ほぼ永遠に至難の業。

なぜなら、欠点だらけの自分を、誰よりも自分が知っているから。
だから、人は自分を肯定してくれる他人を渇望する。
けれど、肯定してもらいたくて他人の思惑に合わせていると、それは自分ではないから余計つらくなる。

だからといって、自分を押し通すと誰にも愛されない。誰だって、「あなたより、わたし」を主張する他人はヤだもんね。

自分でも困っている欠点、弱点、悪い癖を、どうしても自分から引きはがせない。だから、「こんなわたしで、ごめんなさい」と、本当は誰もが思っているはず。
なので、これらの短編を書き終えたとき、タイトルは『愛とか恋とか』から、こっちに変わった。

「そんなあなたを許します」と誰かに言ってほしいけど、なかなかそうはいかなくて、足場がアンバランスに揺れ続ける。その不安定さは、笑っちゃうしかないでしょう。そういうことです。



※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2013年8月号の掲載記事を転載したものです。