第2回 漫画原作者 倉科遼さん

本棚には原作を手がけた作品の数々が並ぶ。「どれもが思い出深い作品です。作画を手がけてくれた漫画家には感謝ですね。」
デビュー即、漫画家断念の危機に
 その読切作品が採用となり、村野先生に御礼の報告へ伺った時のことです。先生からアメリカでアニメ映画を制作するプロジェクトに参加しないか、と打診をいただきました。この魅力的な誘いには抗えるはずもなく、私は大学を辞め、アメリカへ行く準備を万端にしていました。
 ところがスポンサーであるアメリカ側の経済事情が怪しくなり、チームは解散してしまいます。途方に暮れるところですが、私のデビュー作を読んだ出版社から、いくつか依頼をいただいていました。先生の後押しもあり、ここから漫画家として一本立ちしていくことになったのです。アメリカに行っていたら、向こうの地でアニメーターとして働いていたでしょう。人生の大きな分岐点になりましたね。しかし「喰えないから漫画でも」という意識の私に、いきなり週刊誌連載が飛び込んできます。本も読まず映画も見ない、ひとりで蓄積も何もない状態でこなしていたものの、身体も心も保たずに3ヵ月でギブアップ。何とも苦い週刊誌連載デビューとなりました。
 さらに不幸にも、眼底出血の疑いと診断されました。机に座りづめで原稿と向き合う毎日で無理がたたったのでしょう。医者には「最低一年は机に向かうな」と厳命されます。事実上のドクターストップ、漫画家として最初の挫折です。
 大学もすでに辞めている私は、勤め人になるよりないと就職活動をし、とある出版社の広告営業マンとして勤め始めます。この仕事は中学時代に培った性分が幸いしたのか、自分なりに研究し独自の営業スタイルを築くことで、かなり成績を上げることができました。ただ一度好成績を上げると、ずっとそのレベルを求められるのが精神的に参りましたね。眠れなくなる日々が続き、結局は1年弱で退職。漫画家として再スタートすることを余儀なくされました。気づけばもう24歳になっていましたね。
 私には絵が下手だというコンプレックスが常にありました。お世話になった村野先生の模倣をしているという、自責の念から逃れられない自分がすごく嫌でしたね。描きたいものやスタイルが完成されているのではなく、逃げ道で漫画を選んでいるという思いが余計にそう思わせていたのかもしれません。再スタートにあたって、絵の修練に加え本を読んだり映画を見たりと、蓄積する作業も進めていきました。28歳までの4年ほどは、どんな内容でも手当り次第に何でも描く、修業時代です。それでも中学時代を思い出し、「やり続けること」の大切さを胸に抱いて日々を過ごしました。当時は雑誌も多く、仕事は切れ目なくいただいていたのですが、それでも食べるのに精一杯。身体はやせ細って身内には心配をかけましたね。


チャンスを掴みヒット漫画家に
 そして、漫画界に新たな波が訪れます。私たちが読者だった頃の漫画家の力が徐々に弱まり、次世代へのバトンタッチが必要となってきたのです。期待の若手、という位置付けだった私は、再び週刊連載のチャンスをいただきました。
 週刊連載デビューの苦い思いを胸に、4年間の蓄積をぶつけるこれ以上ない機会です、と言えば格好いいのですが、実際は変わらず食べるために必死でした。売れないと次はない、売れるためには何をすればいいのかを本気で考えた結果、自分が面白く感じている作品世界が、一番乗って描ける世界だと結論づけたんです。
 私が最も夢中になった漫画が、本宮ひろ志先生の『男一匹ガキ大将』で、映画では鈴木清順監督の『けんかえれじい』。映画の舞台になった会津で、本宮先生の世界観を私なりに作ってみたら、と『会津おとこ賦』という作品が生まれました。現代版戊辰戦争を学ランものに、というイメージです。
 幸いなことに、この作品がヒットします。単行本の売れ行きが爆発し、連載前より年収は10倍に。続いて『武田みけん星』『昭和バンカラ派』『野望の群れ』とヒットに恵まれ、やっと漫画家として胸を張れる数字を残すことができました。
 しかしこの時でも、自分に才能があるとは思っていません。そんな自分が、才能が問われるこの世界に飛び込んでしまった以上は、中学生の時と同様に、人の何倍も努力することが大切だと肝に銘じていました。そこに時代の風向きがフォローして、ヒット作が生まれたんだと感じましたね。
 この4作品で生涯順風な漫画家生活に、というほど甘くはなく、30代も半ばを過ぎると行き詰まりを感じるようになりました。元々才能などなく、作品がヒットしたところで自分は誰かの亜流だとの思いを拭えません。この恵まれた状況は続かないだろう、これからは本来描きたかった、売れずに地味でもキラリと光る作品を残していければいい、と覚悟していました。
 ところが、一度ヒット作を生んだ漫画家に、違うものを描かせる出版社はそうありません。描きたいものを伝えても、「柳の下に何匹」を見込める同じ作風、同じ世界を何度も要求されます。しかし同じことを繰り返していれば飽きられます。その時に手のひらを返され「売れなくなった」「あいつは終わった」と言われるのは目に見えていました。漫画のネタもとうに尽きて、この頃にはいかに漫画界から離れるかだけを考えていました。2回目の挫折です。
 漫画から身を引くためには余力のあるうちにと漫画家を続けながらもアパレルと旅行代理店の会社を友人と立ち上げ、それからは午前中に漫画を描き、午後はネクタイを締めて外回りという二重生活。しかしバブル崩壊の影響を受け、会社は数年で手放さざるを得なくなります。



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