第56回 工学博士 北野 大さん

「母は教育ママだったから,学校を休むのは許されませんでした。姉の結婚式でも休んではいけないというぐらいでした。学校が休みの時は家の仕事の手伝いをさせられました」
将来は英語教師になりたかった
 当時の上野高校は,同級生のレベルが高かったですね。入学当初は非常にカルチャーショックを受けました。たとえば,明日は国語の試験だという時に,東大に現役で行くような連中は小林秀雄の『無常といふこと』や『考えるヒント』を読んでいたのです。とてもかなわないと思いました。
 大学受験については,親から「工学部の機械科に行け。それもできれば国立を」と言われていました。母が「これからの日本は技術が必要になってくる。技術を身につけておけば将来は困らない。身につけた技術はなくならない」という考えを持っていたからです。
 ですから,兄も弟も大学は工学部の機械科に行かされました。ぼくは後述するように,いろいろとありましたが,結果として明治大学の工学部に行きました。
 実は,ぼくは英語が好きで,将来は英語の先生になろうと思っていました。そこで密かに千葉大の英文科も受けたら,どうにか受かったのです。決して豊かな家ではないし,親の望んでいた国立だし,普通だったら親は子どもを国立に行かせるでしょう。当時,国立大学の授業料は七二〇〇円。一方,明治大学の工学部は四万二〇〇〇円に実験費が八〇〇〇円ですから,全部で五万円。経済的な負担も全然違ったのです。
 ところが,母はこう言いました。
 「お金というのは将来稼げばいずれ入る。今,授業料が高いとか安いとかの問題ではない。だから腕に職をつけろ。それには工学部だ」。
 母はまた,有名大学に入れるのだったら学部や学科はどこでもいいと考える親とも違いました。まず職業から進むべき学科を考えて,さらにその学科はどの学部なのか,そしてどんな大学にあるのかを調べてから選ぶべきだと考えていたのです。
 結果論かもしれませんが,今となってはこれでよかったとぼくは思っています。


分析化学との意外な出会い
 親に従って工学部には進みましたが,機械科ではなく,工業化学科を選びました。お恥ずかしい話ですが,機械科というと物理や数学,製図(図学)をどうしても避けては通れません。実は,ぼくはどちらかというとあまり好きではなかったのです。そこで各学科を調べて,なんとなく機械から一番遠い感じがする工業化学科に進みました。
 ところが,考えが甘かったですね。やはり工学部ですから,数学はやらされるし,化学工学といって難しい計算はあるし,化学機械といって製図もありました。まぁ,どうにか逃げてきましたけれど(笑)。
 大学四年生で研究室を選ぶ時も,人生の一つの転機になりました。
 化学の最大の魅力というのは,今までになかった物を作ることです。たとえば,農薬や医薬品,プラスチックなどを作って社会のお役に立てるのが一番おもしろいわけです。
 当時は,高分子化学といってプラスチックを作ったり,また石油化学を探究したりするような研究室が花形でした。当然,ぼくもそういったところへ行こうと思っていました。
 しかし,これも偶然なのですが,化学には分析化学という分野があります。これは分析ですから,どちらかというと地味です。その分析化学の先生が,一年間の病気療養を終えてちょうど復帰なさることになっていました。ところが,研究室ごとの志望者数を途中集計したら,この先生の研究室は志望者がゼロだったのです。
 この時,ぼくは変な気を起こしてしまいました。せっかく先生が戻ってくるのに,四年生が研究室に一人もいないというのは申し訳ないと考えたのです。そして,仲間四,五人を誘って第二志望だった分析化学の研究室に移りました。結局,その時点で自分の専門が分析化学に決まってしまったわけです。


製薬会社,そして大学院へ
 就職も一つの転機でした。当時は就職する時に先生が研究室の学生の就職先を決めていました。先生から「分析のできる学生がほしいそうだから,お前,ここへ行け」ということで,ぼくは卒業すると製薬会社に入社しました。研究所で殺虫剤の分析をすることになったのです。
 ただ,半年か一年経つと,大学院卒と大卒では研究テーマが違うことがわかってきました。たとえば,大学院卒は新しい殺虫剤の成分を探したり,開発したりという,基礎的なテーマを研究します。一方,大卒は製剤といっていろいろな人が調合して作った殺虫剤がどのくらい安定しているかを分析するような仕事でした。つまり,片方は基礎研究,ぼくは商品化研究をやっていたわけです。
 大学院をわずか二年出たか出ないかで仕事の内容が違うのはたまらないと,思いきって会社を辞めて大学院に行くことにしました。当初は二年間の修士課程だけのつもりでしたが,両親の勧めもあって,結局は博士課程まで行ったのです。
 博士課程を終えたら,ぼくは大学に残ろうと考えていました。ところが,大学には欠員が出ないと残れません。そこで財団法人の研究所に入って,いずれは大学に戻ろうとずっと考えていました。幸いにも,十年ほど前に淑徳大学からお誘いがあった縁で,今日にいたるまで大学で教鞭を執っている次第です。


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