第54回 エッセイスト/ジャーナリスト 見城美枝子さん

<平成十五年,北海道深川市『石狩川サミット』開催記念講演会にて>
生放送中の指名スト
 民放には民放労連,TBSにはTBS労連という労働組合があって,社員はみんな組合員になるのですが,当時は信じられないことに生放送の番組にも指名ストがかかっていたのです。私は,当時としては人気のあった『キンキンケンケンのそれいけ歌謡曲』というラジオ番組を愛川欽也さんとやっていたのですが,その生番組に指名ストをかけられていました。午後一時半からの番組で,二時から三時まで指名ストをかけられると,二時の時報と共に赤鉢巻きをしてスタジオの外に出されてしまうのです。
 それは,労働組合からすれば会社に一番痛手を被らせるためで,「見城君,指名スト」と言われれば,嫌でも「はい」と従わざるをえませんでした。ただ,愛川さんがとってもいい方で,「それでもケンケンとやりたいから。組合員だもの,いいよ」とおっしゃってくださったのです。そして,私が番組中にスタジオから出されると「今,ケンケンの声が聞こえなくなったでしょう。ケンケンは今,赤鉢巻きです」とマイクに向かっておっしゃると,リスナーの方も「ああ,春闘の時期だね」と好意的に聞いてくださって,季節の風物詩のようになっていました(笑)。
 でも,テレビの大きな海外取材番組のお話が来たときに,スポンサーが「あれをやられると困るから,フリーの人を」とおっしゃったのです。それで,先輩が何人かフリーになったことがありました。私はフリーになりたくなかったので,一年間お断りをしたのですが,二年目もそのお話が来たのです。私は組合に「お願いですから,社員でいたいので指名ストをかけないでください」と交渉したのですが,「スト破りをするようなことは絶対にできない」と認めてもらえませんでした。当時の組合はとても力が強かったのです。私はどうしてもジャーナリスティックな取材の仕事をしたかったので,さんざん悩んだのですが,若いうちでなければフットワークのいい仕事はできないし,やはりそれはお金には換えられないと考えて,涙を飲んでフリーになりました。
 ところが,私がフリーになって二,三年後に組合の状況が変わって,指名ストをかけなくなったのです。やはり世の中に「絶対」というのはない,ということをつくづく感じました。
 いざフリーになってみると,お金には換えられないどころか,一年間しか保証がありませんでした。プロデューサーからは「申し訳ないけれど,自分も一所懸命やるから,ケンケンもいい番組を作ってくれ。それが二年目につながるから」と言われました。でも,それは今の私の生き方と同じです。たとえば講演を頼まれると,どんなに疲れていても「この講演に失敗したら,次の講演はない」と,常に自分に言い聞かせています。


四十五歳の決心
 今は大学院で建築学を学んだり,教壇に立って講義をしたりしています。建築学を学び始めたきっかけは「再生」です。私は,これまでに四人の子どもを育ててきましたが,これからの自分を仕事で評価してもらい,価値を認めていただくためには,これまで以上に得意な専門分野を増やさなければいけないと思っていました。それで,四十五歳の時に決心をしたのです。「五〇歳までに修士をとって,もっと自分の専門分野を作って,ジャーナリズムの世界で生きていこう」と。
 私が一番興味や関心があったのが建築でした。ゆくゆくは日本人論を勉強したいと考えていまして,なぜ日本人というのは日本人的なのか,ということを建築の住空間をとおして学ぼうと思ったのです。環境問題のシンポジウムなどで「空気をきれいにしましょう」というと,すぐに「自動車の排気ガスをどうする」とか,「自転車に代えよう」とか,「省エネしよう」とか言われますが,それと同時に家の住まい方も考える必要があるはずです。
 たとえば日本人がなぜ障子や屏風,すだれなどを使っていたのかを考えると,エアコンをつけなくても過ごせることがわかるのです。障子一枚あるだけで,空気の暖かさや部屋の明るさが全然違います。
 今,私は古い民家を調査していますが,知恵や美しい文化がたくさんあります。ですから,ただ古いものがよいということではなくて,二十一世紀的に使えるから捨てることはない,ということをもっと伝えていきたいです。
 日本人は,ある時に知恵も文化も捨ててしまったけれど,それをもう一度拾うために勉強するという意味でも,自分の選んだ道は間違っていなかったと思います。


(写真提供・見城美枝子オフィス/構成・桑田博之)
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