第41回 文学博士 市村尚久さん

一番になりたいとは思いません。先だって勤続表彰のときに年長者だからと初めて総代になり照れました(笑)
大学教授の仕事
 会社勤めには向きそうにないといつしか私は思うようになってきました。父は誠実に努力しているサラリーマンでしたが,大きな会社のなかで仕事をしていくのはいろいろ大変だろうと子ども心にも私は思ったのです。父は私に法律を専門としてほしかったようなのですが,大嫌いな分野だったのでこれも将来の選択肢とはなりえませんでした。でもその後教育学を学んでいく中で,法律の世界は文面だけのものではなく実社会そのものでであり,教育の実践理論を考えるうえで不可欠なものだと,つまり狭小な考えだったとわかりました。ともあれ,教育という仕事や大学で教育研究を深めていくことに関心がしぼられてきて,早稲田大学の教育学部に進学し,卒業後は教育学部に大学院がなかったので文学研究科で教育学を専攻することになります。
 早稲田大学には教育学専修が文学部と教育学部にあります。文学部の教育学専修は哲学の一分野として始まったのに対し,教育学部は高等師範部母体として設立されました。明治三十六年,私立で初めての高等師範でした。明治三十四年設立の筑波大学の前身東京高等師範学校,明治三十五年設立の広島大学の前身広島高等師範学校と合わせた御三家とのひとつして,数多くの教員を育ててきた歴史と誇りがあります。「ぜひ,教育学部にも大学院博士課程がほしい」その思いから,大学当局,また内外の多くの関係者の協力をいただき,平成七年博士課程を設立しました。その道のりは一言では語りつくせませんね。
 ところで,大学における教員評価が話題になっていますが,学生による大学教員の評価の流れは当然の方向でしょう。しかし学生におもねるようになっては教員にとっても学生にとっても不幸なことです。評価はする側もされる側も冷静な目でひとつの側面を映し出す鏡として捉えるといいでしょうね。
 社会のシステムが変わるのと平行するかのように学生の気質も変わってきました。以前は統合されていた社会の持つ価値観も,現在はそれぞれ個人の価値観に多様化しています。価値が統合されている時代には個人の意思が犠牲を強いられることもありました。そして今は個人がいかに自己抑制して社会性を持つかということが問題になってきました。
 今の子は叱られるということに免疫低下をきたしております。叱られると理不尽なことと感じ,しゅんとしてしまう。双方向という往還関係で物事に対応する能力が急速に減退しているように思われます。コミュニケーションは,以前からの手紙や電話での対話から,急激に普及したメールにより簡略化されました。「明日空いてる?」「残念,先約がある」という内容を伝え合うときに,携帯によるメールでは一方的に短文を送り合うだけ。はたして意思の疎通はあるのでしょうか,余計なお世話かもしれませんね(笑)。電話の会話ですと,相手の反応次第でこちらの出方を変えていく必要があります。
 授業も同じです。一方的に知識を投げつけるだけでは,生徒だけでなく,教師にとっても生産的ではありません。ましてや創造的知性とは縁遠い話です。これまで私は授業で生徒に騒がれたことはありません。「私語をするな」と怒鳴りつけたところで授業ははじまりません。教室は後ろのドアから入るようにしています。後ろから机の上などを見ながら教壇に向かいます。歩きながら「それはなんだ」と声をかけると「先生,プリクラだよ,一枚あげる!」とぺらっとよこしてきたりします(笑)。「ありがとう」ともらって講義を始めます。討議をする授業でなくとも,大教室の講義でも,「一方通行でない」というコミュニケーション感覚は必要ですね。所詮,生徒と教師は一致しません。一致させないほうがいいのです。助け助けられる他者なのですから。一日の長があるものとして「自ら考えて欲しい,思考する材料を受けとって欲しい」という投げかけだけです。教えるということは,調教することとは似て非なるものですから。
 近年大学では教えることと研究することが別であるという気運が濃厚になってきています。大学教員の教育技術が問われているわけですが,私は研究こそが基本として大切だと思っています。研究を深めていないと説得力のある授業は出来ませんよ。思考の方法の深みがないといくら技量に長けていても意味がありません。学生が「そんな見方があるのか」「そんな発見があるのか」と驚き,思考するきっかけになるものが必要です。今はいろんな考え方のある社会です,教師は視野を広く持ち,様々な価値があることを容認し,その中で自分の価値観をしっかり確立していかねばなりません。


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