第31回 寄席文字書家 橘 左近さん

寄席文字は尻上がりにお客がいっぱい入るとの縁起をこめて,右上がりに隙間なく一気に書き上げます
三年後にふたたび東京に戻る
 信州の結核療養所に入所することになりましたが,入所三年目にして当時としては最先端の手術を受けることができ,完治して退院の許可が出たときは天にも昇る気持ちでした。「病気が治ったらすぐにでも寄席に行きたい」とそればかりを毎日祈っていましたから(笑)。
 ようやく東京に戻ることができた私は,親戚の経営するデザイン会社で働き始めました。仕事の内容は新聞広告の版下を作ったり,教科書に掲載される図版をトレースしたりといったものです。子どもの頃に通わされた習字教室といい,このデザイン会社での仕事といい,すべて現在の仕事に通じているわけですが,もちろん当時はそんなことは露ほども思っていなかった。私の落語熱は冷めるどころかより深まる一方でした。しかし噺家になろうとは思いませんでした。レコードは高いし,カセットテープやCDなどまだ無い時代,生の噺を聴くことに全精力を使ったわけです。寄席通いと平行して噺家の名跡の系図も本格的に調べ始めました。実は大学時代から調べ始めていたんですが,病気で中断したままだったんです。休日は一日中国会図書館にこもって,昔の都新聞なんかを読み漁るわけです。噺家の誰がいつ生まれ,いつ襲名して,いつ死んだかといったことを,ひたすらノートに書き移す。コピー機なんてものはありませんでしたからね。それでもわからないことは本人に手紙を書いて質問するわけです。我が家には文楽,円生,三木助,柳橋,可楽,円遊,痴楽,馬生と,各師匠方からいただいた返事がありますが,これは私の宝ですね。この噺家の系図の研究は,現在でも私のライフワークになっています。


寄席文字の魅力にはまる
 寄席通いをつづけているうちに,「噺もいいけど,この字もいいなあ」と,入り口の招き板に書かれている寄席文字にも興味を惹かれるようになった。置いてあるパンフレットをすべて集めては,そこに書かれている寄席文字なんかを家でトレースしたりしているうちに,しだいにその独特な書体の魅力にはまっていきました。
 調べると橘右近という人が書いている。この人は後に二代目集古庵という名前を名乗りますが,寄席資料の収集家としても有名な人だということもわかってきた。僭越ではありますが,どことなく自分と似ているような親近感を感じるようになっていったのです。
 昭和三十六年,意を決して谷中にあった師匠の家を訪ねました。日本風の家の中はふすまから壁から何まで寄席文字が隙間なく張ってあり,おまけに落語関係の本やら資料やらがうずたかく積まれている。中には探してもどうしても見つからなかったあこがれの本もあって,私にとっては正に宝の山に足を踏み入れたような気持ちでした。
 見よう見まねで書いてきた寄席文字を恐る恐る師匠に見てもらったところ,「うーん,よくここまで研究したねえ。手筋もなかなかいい。しかし,うちは習字教室じゃないんだから手にとって教えてあげるわけにはいかないよ。興味があるんだったら末広亭に書きに行くから,そのときに来て,私の書くところをそばで見ていなさい」と。
 もうそれからは勝手に弟子になったような了見で,師匠が末広亭で寄席文字を書くときは訪ね,そばでじーっと見ていました。目学問というヤツで,息遣い,筆先のテクニックなど,バランス感覚をそれとなく「盗む」のです。


三年目にして弟子と認められる
 弟子といっても,私が勝手にそう思っているだけで,師匠からは「おまえを弟子にする」といった言葉はありません。これまでにも弟子になりたいと言ってきた人間は掃いて捨てるほどいたらしいのですが,すべて長続きしなかったんですね。それで私の性根をためしていたんです。
 師匠のもとに通うようになって三年ばかり経った日,「おい,ここの紙の線引きをしろ」と言ってくれたときは,びっくりしました。そのうちに「おまえ,これ書いてみろ」と。書くものは「出口」とか「便所はこちら」といったものなんですが,やっと存在を認めてくれたのかと胸がつまる思いでした。
 昭和三十八年に息子が生まれ,翌年「師匠,狭いうちですが,満一歳の誕生祝いをやりたいんで来てもらえませんか」と頼むと,「ああ,そうかい」と喜んで来てくれました。帰り際,「これ,おまえにあげるよ」とポンと手渡された表札を見ると,そこには「橘左近」という名前がある。つづけて「おれは弟子は取らない主義だったが,おまえが嫌でなかったら,正式な弟子になるかい」と。もう,かみさんと泣かんばかりに感激しました。
 名前をもらってからの師匠はきびしかった。「そんな文字で金が取れると思っているのか」と,寄席文字の修業全般に関してもそうですが,礼儀作法から寄席のしきたり,芸人さんたちとの付き合い方など,一瞬でも気を抜こうものなら烈火のごとく叱られる。私が年中叱られてしょんぼりとしているものだから,「あんたに期待しているからこそ右近さんは叱るんだよ。叱ってくれる人がいなくなるほど寂しいことはないよ」と今輔師匠から諭されたことを覚えています。談志師匠は「元気出しなよ」と,常に励ましてくれ,ヤキトリで酒をおごってくれましたね。


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