第22回 人形作家 石井美千子さん

作品集「昭和のこどもたち」より 写真撮影/井上 一氏
『けんか』
『先生』
父親の許での高校生活
 高校入学を翌年に控え,生活を立て直した父親と一緒に暮らすことになりました。実は十二歳のときに一度,私を引き取りにきたんですが,そのときは大好きな寮母さんと離れたくないという気持ちが強く,トイレに立てこもって猛反抗したんです。公の税金で運営されている施設ですから,親が引き取りにくれば有無も言わず出されるのがふつうです。
 ところが私のあまりの反抗ぶりに父親があきらめたのか,それとも施設側があきらめたのかは今となっては不明ですが,そのまま施設に置いてもらえることになったんです(笑)。学校の成績が悪くなかったものですから高校の学費を出してくれるというあしながおじさんも見つかり,本当はこのまま施設から高校に通いたかったんですが,寮母さんから「悲しいことだけれど施設出身者は就職のときに差別を受ける。だから高校は親許から通いなさい」と説得されました。
 それから高校を卒業するまでの四年間は,私の人生の中でもつらい時期のひとつだったと思います。父親は再婚していて,腹違いの弟妹が三人いました。継母も病に臥していたものですから,家事の負担や,慣れない家族への気遣いなど,けっこう気の重い暮らしでした。「高校では美術部に入って好きな絵を描きたい」なんて思っていた夢は見事に打ち砕かれました。今振り返ってみても,楽しかった思い出はクラスメートとの付き合いだけでしたね。


自由への逃走
 高校卒業後,学校の就職斡旋で,東京の出版社に就職することができました。福井に就職せずに東京に出てきたのは,とにかく自由になりたかったんだと思います。すべてのしがらみや苦痛から逃れたかったんですね。
 会社での仕事は編集補助のようなものでしたが,これがまったくついていけない。本が好きというだけの十八歳の女の子には無理な仕事だったんです。原稿取り以外にも,編集部の手が足りないときは文章やイラストをちょこちょこっと描かせてもらったりはしていたんですが,いかんせん勉強不足が身にしみました。
 自信喪失した私は編集の仕事よりも美術関係の仕事のほうが向いているのではないかと翌年退社し,アルバイトをしながら美術関係の専門学校に通い始めました。二年後,デザイン事務所に就職することができましたが,この仕事は私にぴったりの仕事でした。たとえばポスター制作の仕事でしたら,自分で図案を考え,絵を描き,烏口で線を引き,写植も切り張りして版下を作り,全体の色指定も考える。今となってはすべてパソコンでできる仕事なんですが,そこでデザインの基礎というものを学ぶことができました。その後,二十四歳のときに結婚し,子どもも生まれて,私の人生の中では短い期間でしたが,比較的穏やかなときを送ることができました(笑)。


出産後,結核病棟へ
 これが私の運命というものかはわかりませんが,何かがうまくいくと何かがこわれる(笑)。夫の祖母が不治の病で寝たきりになってしまったんです。幼い子どもを抱えながらの祖母の介護が始まりました。おまけに最後の一年は二人目の子を身ごもったということもあって,朝昼晩,心が落ち着けるときはありませんでした。若かったこともあって,がむしゃらに頑張りすぎてついにダウン。出産と祖母の見送りが重なり,お葬式の翌日には結核を発症してしまいました。生まれたばかりの赤ちゃんから引き離されて結核病棟での生活です。病気ではあっても乳は出ます。胸を乳と涙でぬらしながらの毎日でしたね。
 ただ,ここでの生活は「生きるって何なんだろう。人の一生って何なんだろう」ということを私に考えさせてくれる機会もつくってくれました。私が入院していた半年の間だけでも二人の患者さんが自殺なさったんです。いまでこそ結核は治る病気ですが,治療法が完全に確立していない時期に発症した人たちは後遺症も重く,そのため差別を受け,二十年以上も入院している間に家族関係も破壊されて,いつしか生きる望みを絶たれてしまった人もいたんです。


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