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雑誌「パラスポーツマガジン」のご紹介

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―後編―

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―後編―

国枝慎吾と藤本怜央。生まれ年は1年違うが、いわゆる同級生。ともに、2004年アテネでパラリンピックデビューを果たし、東京2020大会まで5大会連続出場して日本のパラスポーツを牽引してきた。「怜央(レオ)くん」「シンゴ」と呼び合う2人が語る、今、ここから――。(前編より続く) 車いすバスケの動画を投稿したら、パトリック・アンダーソンから連絡きたよ。「オレがシンゴのチームに入る」って(国枝) ――国枝さんは、現役引退直後から車いすバスケットボールを楽しんでいらっしゃるとか。何か、きっかけがありましたか。 国枝 子どもの頃からやってみたかったスポーツだったから、引退してやっとできるようになったという感じです。 藤本 シンゴが引退してすぐに「バスケを始めたんだけど、シュートが入らないから教えて」って連絡がきたんだよね。 国枝 自分の動画を撮って送ってね。 藤本 それで自分のシュート動画とか送って、こんなところに気をつけてみて、とかアドバイスを送ったの。 国枝 怜央くんが帰国するタイミングで一緒にバスケをしたいという話になって、成田空港から直接体育館に来てもらいました。でも、まだまだ車いすバスケはちんぷんかんぶんで、わからないことばっかりだよ。 藤本 いや、すごく上手いよ! 国枝 バスケのボキャブラリーについていけてない。「ピックかけろ」とか「クロス」とか言われて、何?何?って(笑)。 ――今日は反対にTTCで藤本選手が初めて国枝さんの指南を受けて車いすテニスを経験されました。いかがでしたか。 藤本 いやあ、テニスって繊細なスポーツだよね。手首の角度とか、バスケットをやっている時には気にしたことなかったところがすごく気になる。 国枝 いや、あれだけいいスピンをかけられるなんて、センスあるよ、絶対! 藤本 あんな小さな球を打つのも大変だけど、ラケット持ったまま車いすを操作するのも超人的だよ。さっきは、受けやすいところにボールを出してくけど、実際は前後左右にボールを振られるわけでしょう。 国枝 車いすテニスの場合は、ずっと動いているよ。 藤本 それって、相手の出方や球のコースを読んで、予測して動いているんだよね。 国枝 たった1回で本質を理解しているのがすごいよ。 藤本 以前、車いすテニスをやっていた人を集めて新しいバスケチームを作るとか、言っていたじゃない。 国枝 実は(パトリック)アンダーソンから連絡もらったんだよね、オレがシンゴのチームに入るよって。 藤本 マジ!? そんなこと言うのはシンゴだけだよ。 国枝 3、4月ごろかな。SNSでバスケの動画を投稿したら連絡が来て、日本でプレーするぞって。それで天皇杯のスケジュールとかすぐに送ったんだけど、その後はぱったり、連絡が途絶えた(笑)。 多忙なスケジュールの合間に車いすバスケと車いすテニスのプライベート合宿を敢行。ハードな走り込みの後にフリースローをする練習に「きついけど、楽しい!」 車いすバスケのチームを作って車いすテニスのダブルスに挑戦しよう! 藤本 オレも、車いすテニスやってみたら、すごく楽しかったな。どう、ダブルスとか? 国枝 やる? いいね! 怜央くん、前にいて圧かけてくれればいいから。 藤本 めちゃくちゃ鍛えてくれていいです! 国枝 それが実現したら、またテニスが楽しくなりそうだよ。 ――国枝さんには現役時代、「オレは最強だ!」という自分を奮い立たせる大切なキーワードがありました。藤本選手には、たとえばフリースローの時などに自分に言い聞かせるような言葉など、あるのでしょうか。 藤本 ない。オレ、何も考えない。試合している時って、音が聞こえてないの。 国枝 え、それって最強! 藤本 フリースローだけじゃなくて、シュートを打つ場面で毎回、なんの音も聞こえてない。ただリングを見て、そこに中指を揃える。1秒あればシュートは打てるって思ってるからプレッシャーはないんだ。 国枝 それはすごい。調子が悪い時もあるわけじゃない。 藤本 もちろんシュートを外す時はあるけど、もうずっと前からそういうマインドでプレーしてる。車いすバスケットはチームスポーツだから、その日、その試合でのヒーローはそれぞれ変わったりするよね。オレ一人でプレーしているわけじゃないというのが逆に強みになる。 国枝 ほう。すげぇ。 藤本 チームメイトを助けるし、助けられているんだよね。みんなの調子が良くても、ちょっとフィーリングがズレると、負けたりする。でも、自分がコートの中で崩れることは、ほぼないと思ってるんだ。 国枝 音も聞こえず考えずにプレーできるって、強い。オレは、コートの中では、常に次の展開、状況判断、いろんなことを考えながらプレーしていたよ。 藤本 オレ、もしテニスがうまくなっても、シングルスはやりたくないなあ(笑)。ミスしたら負けるとか、これ決めたら勝つとか、できそうもないや。 国枝 うん、勝ち切るほうがむずかしいね。 ――車いすテニスでは、小田凱人選手という若いヒーローが誕生して、一気に世界ランキング1位に上り詰めています。車いすバスケットボールでは次世代選手たちについて、どんなバトンを渡したいと思っていますか。 藤本 みんな、すごいし、みんななんとかしてやりたいという気持ちがあるんだけど…。オレは赤石(竜我)。日本がギリギリの勝負のところに入ったら、赤石がキーになると思ってる。赤石が起爆剤になったら、東京の時よりももっと強いチームになるんじゃないかな。 国枝 それは、本人に伝えたりしたの。 藤本 7月の合宿の最後に、チームが強くなるためにはお前がやんなきゃダメだよって。オレ、やりますって、目をギラギラさせて話を聞いてたよ。 国枝 スポーツは循環していかないと、発展しない。僕にとっては、齋田(悟司)さんが同じような存在だったから。 藤本 オレも大島(朋彦)さん。 国枝 先輩たちから受けたバトンが確実に次に渡っているよね。それは引退して、なお一層、感じるようになった。 藤本 そうそう、自分が引退したら、2人で車いすバスケットのチームを作って、車いすテニスのダブルスを始めようよ! 国枝 いいね! 楽しみだ。 藤本怜央(ふじもと・れお):右/1983年9月22日、静岡県生まれ、宮城MAX/RSV Lahn-Dill所属。4.5クラス。小学3年の時に交通事故で右足の膝下を切断。小学校時代は義足でサッカーを、中学・高校時代には一般のバスケットボールに熱中した。高校時代に車いすバスケの存在を知り、スピードに魅せられて転向。2004年アテネパラリンピックに日本代表として初出場し、2020東京大会まで5大会連続出場。東京パラリンピックでは悲願の銀メダルを獲得した。 国枝慎吾(くにえだ・しんご):左/1984年2月21日、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍となり、11歳で車いすテニスを始める。2004年アテネパラリンピックに初出場し、ダブルスで金メダル。06年アジア人として初の世界ランキング1位に。08年北京、12年ロンドンパラリンピックシングルス2連覇、さらに東京2020大会ではシングルスで3度目の金メダルを獲得。22年ウインブルドンで優勝し、生涯ゴールデンスラムを達成。23年1月、世界ランキング1位で現役を引退した。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/吉田記念テニス研修センター(TTC) ※この記事は『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月27日発刊)から転載したものです(一部修正あり)。表記などは取材時のものですのでご了承ください。
国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―前編―

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―前編―

国枝慎吾と藤本怜央。生まれ年は1年違うが、いわゆる同級生。ともに、2004年アテネでパラリンピックデビューを果たし、東京2020大会まで5大会連続出場して日本のパラスポーツを牽引してきた。「怜央(レオ)くん」「シンゴ」と呼び合う2人が語る、今、ここから――。 忘我のシンパシー。車いすスポーツは最高! 藤本怜央(以下、藤本) 現役引退、お疲れさま! 現役時代より体、少し小さくなった? 国枝慎吾(以下、国枝) ああ、小さくなった。引退した最初の1カ月くらいで体重落ちたよ。 藤本 引退してから1度、一緒に車いすバスケやったね。シンゴはバスケ愛、エグイよね! 国枝 小学生の頃、病気になる前は野球をしていたんだけど、マンガの『スラムダンク』が好きすぎて、破れるくらい読み込んでたからね(笑)。 藤本 オレら『スラムダンク』世代だからなあ。 国枝 本当は、車いす生活になってから、車いすバスケがしたかったんだよね。でも、一番近い〈千葉ホークス〉の練習体育館が自宅から車で2時間くらいかかる。車いすテニスのクラブ〈吉田記念テニストレーニングセンター(以下、TTC)〉は、車で30分。それで、テニスを続けた、という感じだったんだ。 藤本 小学生で車いすテニスを始めたのは、すごいね。 国枝 TTCは、35年前から民間クラブとして一般のテニススクールと同じように車いすテニスのスクールが受けられたんだよ。画期的だよね。 藤本 35年も前から? それはすごい! 国枝 おそらく、世界でもここだけだったんじゃないかな。怜央くんは、バスケは車いすになる前からやっていたの? 藤本 そう、小学5年から。大学に入って本格的に車いすバスケを始めて、2年目でアテネパラリンピックに出場したの。同級生の選手が車いすテニスのダブルスで金メダルをとったということを後から知って、すごく話がしたいと思ってたら、4年後の北京で実現したんだよね。 国枝 そのタイミングか〜。 藤本 閉会式だったかな、ちょうど車いす選手同士で隣り合わせて、いきなり「車いすバスケの藤本さんじゃないですか」って声かけてくれて。 国枝 そうそう。ずいぶんいっぱい話をしたよね。 藤本 話に夢中になってて気づいたら、まわりに誰もいなくなってた(笑)。 国枝 それだけしゃべったのに、今みたいにライン交換するような時代じゃないから、あっさり別れて、その後会うのが2年後のアジアパラ競技大会とかね。 藤本 2年ごとに、「おう」「やあ、久しぶり」みたいな。 国枝 直接連絡先を交換して連絡するようになったのは、多分、16年のリオパラリンピックの頃からかな。 体が元に戻ればちゃんとプレーはできる。右肘を故障したことで、休む勇気を実感できたんだ(国枝) 藤本 シンゴも、オレも右肘故障してたんだよね。 国枝 その話もよくしたね、どんな治療をしているかとか。大事な情報交換だった。 藤本 NTC(国立トレーニングセンター)で治療を受けていた時に会ったね。 国枝 いやあ、もうだめだ〜とか言ってたね、お互いに。 藤本 シンゴはリオ前に手術してるけれど、オレはリオの後すぐにドイツのシーズンが始まるんで、ドイツのチームに相談したら治療しながらプレーすればと提案されてそのまま行ったの。でも、結局痛みがひどくて治療のために帰国したんだ。 国枝 具体的な治療方法の話をしたね。これは効いた、これはあまり効果感じなかったとか。 藤本 痛みもあったけど、それ以上に右肘の可動域がすごく小さくなってしまって、これじゃプレーできないって思って手術に踏み切った。アドバイスをもらえて助かったよ。 ――お二人とも手術をした上で現役を続けられたわけですが、そのモチベーションはなんだったのでしょう。 国枝 僕は、とにかく東京パラリンピックが大きかった。それがなければ、あの時点で引退していたと思う。 藤本 そのくらい、東京は大きなモチベーションだったよね。がんばる先に東京大会がなかったら、多分手術してまでプレーを続けていたかどうか。 国枝 本当にその通り。 藤本 戦うために肘を治して、シュートフォームも一から作り直して。おかげでいろんなことを考えられたな。適切な休み方とか。 国枝 それ、すごく大事だよね。けがをすると、結構長期間休まざるを得ないんだけど、戻った時に、案外すんなりプレーできたりしなかった? 藤本 そうそう、戻れる! 国枝 それまでは、休むということに対して罪悪感があったけれど、けがをしたことで、休む勇気をくれたところがあったな。 藤本 ずっと、走り続けてきたからね。 国枝 休んでも、体が元に戻ればちゃんとプレーができるということを実感できた。それ以前は、やっぱり休むことが怖かったんだ。 東京パラリンピックに向けてじっくりチーム作りに時間をかけられた。だから、本番では本当に自信があった(藤本) ――2020東京パラリンピックというステージでそれぞれ金メダル、銀メダル獲得という素晴らしい結果を残されました。振り返って、東京大会はどんな記憶として残っていますか。 藤本 コロナがあって、思うように練習も国際大会もなくて、しかも1年延期になった。 国枝 特殊なパラリンピックだったよね。 藤本 でも、それだけチーム作りにすごく時間をかけられたんだよね。だから、本番は、すごく自信があった。予選ラウンドからずっと、余裕で勝っているって感じてたんだよね。実際にはほとんどの試合は逆転勝ちしてるから、絶対に楽勝ではなかったはずなのに。でも、全然対戦相手を怖いと思わなかったんだ。そんな大会は、これまでで初めてのことだったよ。 国枝 そうだったのか。 藤本 決勝戦の第4クォーターでオレ、ファウル4つくらって、ベンチに下がってたんだ。最後の最後、4点差で追いかけている展開でコートに出る準備していたんだけど、結局コートに出ないまま、負けて試合終了。あの試合勝っていたら、引退したと思うんだけど、今も続けているのは、ギリギリで負けたからかもしれない。 国枝 車いすバスケの決勝戦は選手村の部屋のテレビでガッツリ見てたよ。怜央くんの気持ちは今初めて聞いた。 藤本 若い奴らが本当に成長したと感じてたよ。でも、自分が出ないまま負けた。 国枝 怜央くんは、パラリンピックに置き忘れてきたものがあるんだね、今も。 藤本 シンゴはどうだった? 決勝戦の後とか。 国枝 正直、今回は浸った。 藤本 ええ、そう!? 国枝 東京大会が終わってから何度も動画や写真を見直したりするんだけど、その度にウルッときちゃう。こんなこと、これまでなかったよ。初めての体験。 ※後編に続く 対談の日、藤本は初めて車いすテニスに挑戦。「バスケットボールより小さいボールはむずかしい」と言いながらも強打を連発! 藤本怜央(ふじもと・れお):右/1983年9月22日、静岡県生まれ、宮城MAX/RSV Lahn-Dill所属。4.5クラス。小学3年の時に交通事故で右足の膝下を切断。小学校時代は義足でサッカーを、中学・高校時代には一般のバスケットボールに熱中した。高校時代に車いすバスケの存在を知り、スピードに魅せられて転向。2004年アテネパラリンピックに日本代表として初出場し、2020東京大会まで5大会連続出場。東京パラリンピックでは悲願の銀メダルを獲得した。 国枝慎吾(くにえだ・しんご):左/1984年2月21日、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍となり、11歳で車いすテニスを始める。2004年アテネパラリンピックに初出場し、ダブルスで金メダル。06年アジア人として初の世界ランキング1位に。08年北京、12年ロンドンパラリンピックシングルス2連覇、さらに東京2020大会ではシングルスで3度目の金メダルを獲得。22年ウインブルドンで優勝し、生涯ゴールデンスラムを達成。23年1月、世界ランキング1位で現役を引退した。 取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/吉田記念テニス研修センター(TTC) ※この記事は『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月27日発刊)から転載したものです。表記などは取材時のものですのでご了承ください。
【注目!パラスポーツ紹介】フライングディスク

【注目!パラスポーツ紹介】フライングディスク

全国障害者スポーツ大会の13種目のうち、もっとも参加者が多いのは陸上競技だが、驚くのは、その次に多いのが「フライングディスク」。全国大会には1500名もの選手が参加する。「いつでも」「どこでも」「誰とでも」お皿1枚で楽しめるフライングディスクの魅力に迫る! ※『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月発売)に掲載された記事です。 取材・文/齋藤隆久 写真/中里慎一郎 取材協力/特定非営利活動法人日本フライングディスク連盟 フライングディスクとは? 1940年代、アメリカの大学生がパイを焼くブリキの皿を投げ合って遊んだのが始まりといわれているフライングディスク。プラスチックの円盤1枚でできる手軽さと、競技のシンプルさから、障がい者種目としても注目され、1968年の第一回スペシャルオリンピックスの正式種目に採用された。2001年からは全国障害者スポーツ大会の正式種目になり、競技人口も年々増えている。 フライングディスク競技会の大きな特徴は、障がいの種別によ るクラス分けがないことだ。身体障がい、知的障がい、精神障がいなど、障がいの種類を問わ ず、全員が同じフィールドで競技を楽しむことができる。この ようにクラス分けのない障がい者スポーツは、他には見当たら ない。 限りなく制限の少ないフライングディスク競技 フライングディスクはその名の通りディスクを投げて競うのだが、そのテクニックは超シンプル。ベースとなる持ち方や投げ方があるにはあるが、当然のことながら、そのやり方がすべてのプレーヤーに当てはまるわけではない。基本は基本として、そこから先は自らの工夫で、自らのやりやすい方法を見つけ出せば良い、という考え方だ。 ルール上も、投げ方に規定はなく、手、足、口など体のあらゆる部分を使って投げることが認められている。さらに、視覚障がい者や車いす使用者に関しては、投げやすいようにスローイングラインのプレーヤー側の側面に触れてもよかったり、ゴールが設定されている種目では、ゴールの位置を示す音響装置の使用も認められたりしている。それぞれの障がいに合わせて工夫する余地が残されているところが、フライングディスク競技の良さである。 使用する用具はこれだけ!  フライングディスクは、プラスチック製の円盤だ。障がい者用の公式ディスクは直径23.5cm、重さが約100g(±5g)。そして、競技に使用するのは、この円盤1枚 持ち方、投げ方ともに自由! ただし、ベーシックな持ち方、投げ方を知っておくことは大切 【持ち方】初心者でも安定して投げられるクラシックグリップ。ディスクの上に親指を置き、リム(外周)に沿って人さし指を伸ばす。残りの指でディスクのリムを軽く握る。あまりぎゅっと握るとリリースがうまくいかないので注意。 【投げ方】投げる方向に対して体を横向きにして立つ。ディスクを地面と平行にキープして後ろに引き、そこからスナップを利かせて体の前あたりでリリースする。このとき、ディスクに回転をかける意識で投げると軌道が安定する。 競技種目① 飛ばした距離を競う「ディスタンス」 3枚のディスクをできるだけ遠くをめがけて投げる。3枚のうち、一番遠くに飛んだ距離を計測し、その距離を競う。プレーヤーはスローイングエリア内で試技を行う。さらに、試技の前に一投の練習をしなければいけないルールとなっているが、この時使用するディスクは競技用と同規格のもので、色は黄色と決められている。試技は3投連続して行い、投げられたディスクの有効範囲は、競技フィールド前方180度。つまり、とにかくスローイングエリアよりも前に飛べば、計測の対象になるということだ。距離の計測は、スローイングラインの中央の計測点から、ディスクが最初に地面に触れた点までとなる。計測は1センチ単位で、メートルで記録する。 競技種目② 正確性が求められる「アキュラシー」 アキュラシーには、ゴールまでの距離の違いで、ディスリート・ファイブ、ディスリート・セブンという競技がある。アキュラシーゴール(内径91.5㎝)に向けて、5mまたは7mの距離からディスクを投げ、通過した回数を競う。ゴールに触れて通過しても得点になる。ただし、ディスクは地面に触れずに、直接アキュラシーゴールを通過しなければいけない。試技は10投連続して行う。プレーヤーが視覚障がい者の場合は、競技役員がアキュラシーゴール後方3mの距離から電子音によってゴール中心部の位置を知らせることができる。音源はプレーヤーが聞こえる程度の音量とし、プレーヤーの手からディスクが離れるまで鳴らすことができる。
必修体育に「ボッチャ」を導入~東海大学の試み~

必修体育に「ボッチャ」を導入~東海大学の試み~

体育館に響き渡る、大学一年生たちの楽しそうな声。東海大学の「ボッチャ授業」は、着替えなくてもいい体育の授業。「集い(つどい)力」を高める100分間を覗いてみた。※『パラスポーツマガジンVol.13』(2023年9月発売)に掲載された記事です。 取材・文・写真/編集部 ここでは、ボッチャ経験者が毎年約5000人増えている! 夏休みが目前に迫ったある日の午後。神奈川県平塚市にある東海大学湘南キャンパスは、多くの学生でにぎわっていた。ここは文学部、法学部、教養学部、体育学部、理学部、情報理工学部、工学部等の学生およそ2万人が学ぶ、東海大学のメインキャンパスだ。 「うちの大学では体育の授業で必ずボッチャをやるんです」という学生の声を聞き、今回はその授業の様子を見にやってきた。 東海大学の必修体育(健康スポーツ科目)は「生涯スポーツ理論実習」と「健康・フィットネス理論実習」の2つの授業で構成されている。 2020年の春、新型コロナの拡大で対面授業ができない時期が続いていたため、レポート作成を中心とした遠隔授業に変更されていた。同年の秋ごろから対面授業を復活させるにあたり、感染対策上、身体接触が少なくソーシャルディスタンスもある程度保てるという視点から生涯スポーツ理論実習の種目として3つのニュースポーツが採用された。 地図と参考写真を頼りに決められた時間内でキャンパス内に設けたチェックポイントを回って得点をあげる「ロゲイニング」、日本で高齢者向けに考案された「グラウンド・ゴルフ」、そして「ボッチャ」だ。 「毎年約5000人の1年生が必修体育の授業でボッチャを経験するんです。ほとんどの学生は未経験者なので、運動能力の差があまり出ず、みんながフラットに楽しめるんです」(スポーツプロモーションセンター川邊保孝准教授) 高校までの体育の授業のように、実技で評価をして点数をつけるのではなく、新しいスポーツのおもしろさに触れることに主眼を置いているのが特徴だ。また、大学一年生が受ける授業ということもあり、学生同士や教員とのコミュニケーションを図る能力(集い力)をつけよう、という位置づけの授業でもある。川邊さんは続ける。 「チームを組んでボッチャをやる場合、戦術面で相談したり、あーだこーだ話し合いながら進めなければなりません。驚くほど学生たちは楽しそうにやっていますよ」 柔道金メダリストの塚田さん(中央)もボッチャを指導 着替えなしでOKの体育 授業を見ていて、はじめ違和感があった。体育の授業なのに、みんな普段着のままなのだ。理由を聞くと、 「感染予防のため、更衣室が使えず、着替えなしでの授業への参加をOKとしたんです。スポーツウエアに着替えなくてもできるスポーツの種目なんですね、ボッチャは」 今は着替えたい人は更衣室を使ってスポーツウエアに着替えてもいい、ということにしているそうだが、ある意味、参加への垣根が低く、やりたいと思った時に楽しめるスポーツだといえる。 さて授業はというと、総合体育館の半分を使って行い、学生は40人、一人の教員が指導する。今日の教員は、オリンピック金メダリストの塚田真希准教授。最初にボッチャのルールを説明した後、デモンストレーションを見せる。 「私もまだ勉強しながら指導しているんですが、学生たちと一緒に楽しんでやっています」(塚田さん) 学生たちは、このボッチャの授業をどんな思いで受講しているのだろうか? 「ボッチャをするのは今日が初めて。競技そのものは知ってはいたんですが、こんなに戦略的なゲームだとは思っていなかったです。そしてムチャクチャ楽しかった!」(男子学生) 「普段着でできるのが良かった。着替えるの面倒だし(笑)。授業以外でもやりたいです」(女子学生)とおおむね好評。 ボッチャを授業に導入するのに尽力した内田匡輔教授は、「未来を担う彼らにとって、授業でボッチャを体験したことが、身近な共生社会を考えるきっかけになってくれればうれしいです」と語る。 ボールさえあればどこでも楽しめ、かつ奥が深いアダプテッド・スポーツ、「ボッチャ」。一人でも多くの若者に、その歴史と理念を知ってもらい、その魅力を後世にも伝えていってもらいたいものだ。 私もボッチャ、楽しんでます!(塚田さん)
「車いすバスケ」は知れば知るほどおもしろい!

「車いすバスケ」は知れば知るほどおもしろい!

東京2020パラリンピックで男子日本代表チームが銀メダルを獲得! 人気と注目を集める車いすバスケットボール。チラリと見ただけでも、車いすがぶつかり合う迫力に魅了される。そして、その深い部分を知れば知るほど、おもしろさが見えてくると言う。元日本代表・森紀之さんに解説してもらった。※『パラスポーツマガジンVol.11』(2022年8月発売)に掲載された記事です。 ●解説:森紀之/車いすバスケットボール日本代表として、アテネ、北京のパラリンピックに2大会連続して出場。テレビ中継でのわかりやすい解説に定評がある。ケイアイスター不動産(株)ケイアイチャレンジドアスリートチーム所属。 ●取材・文/長沢 潤 写真/堀切 功、吉村もと 車いすがぶつかる衝撃音。選手のチェアワークに圧倒される! 魅力としてまず挙げられるのは、車いすが動くスピード感でしょう。よく驚かれるのが、そうしたスピードの中で選手がぶつかり合うことです。意図的にぶつかるのはファウルですが、車いす同士がぶつかって転倒することはよく起こります。ケガを心配されますが、ぶつかるほうもぶつかられるほうも「ぶつかる」とわかっているときは平気ですね。転びそうとわかっていれば準備できますから。相手の間をすり抜けたりするチェアワークにも目を見張るものがあります。たとえば全力ダッシュの際、車いすの先端を目標ラインに合わせて止まるのか、車輪を合わせて止まるのかなど細かく気を遣いながら練習することで、身につけているんです。片輪を上げるティルティングという技術を使ったシュートなど高度な技術もあり、習得に時間がかかるので選手寿命が長くなるということもありますね。 転倒しても自力で起き上がらなければならない。できない場合は試合を中断し、起き上がらせ、スローインからの再開となる 軽い選手はクイックな動きが得意な場合が多い。大きくても小さくても身体的特性に合わせた得意なプレーで活躍できる コートの広さやリングの高さは同じ。特徴的な「持ち点制」 通常のバスケコートと、広さやリングの高さはまったく同じです。座った状態なのでゴールがただでさえ遠くなっているのですが、膝や腰を使ったりジャンプができないため、シュートには腕のパワーと体幹が必要になります。体幹が使えない障がいの重い選手は、いったん背中に体重をかけて戻す反動を利用する技術も使って、距離を出しています。ルールの特徴としては、選手がボールを持っているときのプッシュ(車いすを手でこぐ)は連続2回までで、3回以上プッシュするとトラベリングの反則になります。またダブルドリブルがなく、プッシュ2回以内でドリブルすれば再度プッシュしてもOKです。もう一つの特徴が持ち点制です。選手には一人ひとり障がいに応じた持ち点があり、コート内の5人の持ち点合計を14点以内にしなくてはならないのです。このルールがゲームをよりおもしろくしています。 コートの広さは健常者のバスケットボールで使っているものと同じ。そのなかで急加速、方向転換をし、めまぐるしく動く ゴールやリングの高さも健常者のバスケと同じ。車いすに座った状態からゴールを狙うには、強い筋力と技術がともに必要だ 各ポジションの特徴と役割を知ろう 車いすバスケでも、ポジションは健常者のバスケと同じです。大きく分けると「ガード」「フォワード」「センター」です。センターはインサイド(ゴール下のこと)にいて、ゴールを決める役割。フォワードは細かく分けると2つに分かれ、パワーフォワードはセンターと同じくゴール下にいて、相手とリバウンドを競り合ったりする役割。もう1つがスモールフォワードで、ゴール下でもアウトサイド(ゴール下ではないエリア)でもプレーする選手です。ガードも役割によって2つに分かれ、1つが一般的に得点能力が高い選手が起用されるシューティングガード。もう1つがボールを運び、攻撃の組み立て役になるポイントガードです。 ただ、選手としてはポジションはあまり意識していなくて、どの役割もやっているというチームが多いと思います。 フォワードは点取り屋。ゴール下に入っていくプレーもするが、とくに外側からのシュートの正確性が求められる ゴール下にいるセンターは、高さが求められる。そのため座面の高い車いすを使えるハイポインターが担うことが多い 選手の持ち点と特徴を予習しておけば、観戦が100倍おもしろくなる! 先ほど、持ち点制について触れました。コート上の5選手の合計点を14点以内にしなければならないため、障がいの軽い人ばかりでチームを構成できません。選手をどう組み合わせるかというところに、チームの戦い方についての考えが表れます。基本的にはハイポインター(持ち点の大きい選手)にはハイポインター、ローポインター(持ち点の小さい選手)にはローポインターがマークにつきます。そこで攻撃側は、ハイポインターに対して相手のローポインターが応対する状況(ミスマッチ)を作って優位に立とうとします。その駆け引きがわかるようになると観戦の上級者になれます。また、車いすバスケの独特な要素として、シュートがうまい選手が打ちやすいように動く選手がいることが挙げられます。シュートがうまい選手を活かすためのプレーは、ローポインターが行うことが多いですが、まさに玄人好みと言えますね。 男子の競技に女子が出場することもできる。女子が1人出場すると、チームの持ち点制限に1.5ポイント余裕ができる 持ち点の低い選手が高い選手をディフェンスで抑えられれば、チームとして優位に立てる
「ボッチャ、やりたい!」の気持ちにすぐに応えます! ―後編―

「ボッチャ、やりたい!」の気持ちにすぐに応えます! ―後編―

「ボッチャっておもしろい!」と思った感動をみんなに伝えていきたい (前編から続く) ――用具が高価で手が届きにくいなら安価なものを作って売ろうとされたように、体験会での指導でもとっつきにくさをなくそうとされているとうかがっています。 大澤 そうですね。ルールをあまり厳格に適用させようとすると敬遠されかねません。でも、多少ゆるくしても「ボッチャはボッチャ」で、ボッチャの楽しさは味わってもらえるんです。たとえばどちらが近いのかという距離の判定をする際に、時間をかけて器具を使って審判が図るのではなく、当事者同士で「談合」で決めてもらうと、和気あいあいとした雰囲気になったりします。上手な人と、そうでない人との対戦では「あなたうまいから、将棋の飛車角落ちのように、最初からボール2つ減らしておきましょう」といった提案をして、プレーしてもらったりもします。それでもやっぱり「ボッチャはボッチャ」で、私が初めてのときに感じたような感動的な気分を味わってもらえています。 ――初めての人たちが楽しんでいるようすが目に浮かびますね。 大澤 一緒にボッチャをすることで、人と人のつながりがうまれるということをいつも感じています。これはほんとうに、ボーダーレスでつながれるんです。それがボッチャの最大の魅力かな、と思っています。  先日、人と接することが苦手という方とプレーしたんです。でも、初対面でも「どう投げているんですか」と質問したら、「自分の場合は……」とすごく一生懸命にいろいろと解説してくれたんです。話をしているうちに打ち解けてきまして、「またやりたいね」という気持ちがいっぱいになりました。これは、私だけでなくお互いだったと確信しています。簡単には会えないわけですが、会えないなら会えないで「今頃、どうしているかな」と考えたりもするようになります。  それが、年齢や性別も関係なく、まさしくボーダーレスにどんな人とでも、初めて会った人どうしでもお互いを思いやれるようになれる。ボッチャって、人と人をつなぐ場を生み出す装置なんですよ。 ――そうした魅力のあるスポーツをもっと普及させたいという思いで、「一般社団法人レクレーションボッチャ協会」を設立されたわけですね。 大澤 はい、先ほど話した「草」ボッチャに相当するものを、レクレーションボッチャと命名し、ボッチャ全体の普及を目的に2023年2月に設立しました。会員には無料でなっていただけます。事業としては、会員となってくださった個人、チームやプレーヤーのマッチングのほか、用具のレンタルをして、ボッチャを始めてみたい方々のサポートをしています。  普及については、手で触れてボールの位置を確認することができる「ハンディボード」を開発し、視覚障がい者の方々がプレーしやすい状況を作っています。  そのほか、新しいボッチャの可能性を探る活動もしています。今考えているのは、バンケットボッチャ。バンケットは宴会、宴席の意味で、つまりみんなで楽しく飲んだり食べたりしながらプレーしましょう、というスタイルです。実際、これまでにスナックに用具を持ち込んでプレーしたりもしました。 普及活動を続けていくには、事業化してしっかりと収益を上げたり報酬を支払っていくことが大切と考えています。たとえば、指導など普及に協力してくださったスタッフがステアテックの用具を売ってくだされば、コミッションチャージをお支払いするといったことも考えています。 ――なるほど。それでは最後に、今後のビジョンを紹介してください。 大澤 まずボッチャを一般に普及させることが大事だと思っています。商品が売れなかった別の理由として、やはり「知名度がなく、市場が小さい」ことがあると考えています。私はこの素晴らしい種目をもっと広めたいのです。そして、多くの人がどこででもやっているような状況を作りたい。昭和の時代の草野球や、今でいえばストリートバスケ。年齢性別関係ないという点を考えれば、ブレイクダンスやゲートボールも近いかもしれません。とにかくボッチャが誰の日常にもあるような環境にしていくのが目標です。そして、いろいろな人が楽しめる競技であり、「いろいろな人」の中には障がいのある方々も当然含まれているのですから、「一緒にやりましょう」という流れにもっていきたいです。  それが共生社会だと思うんです。そういう状況をつくり出す場になり得ることが、ボッチャをはじめとしたパラスポーツと呼ばれる種目の醍醐味ではないでしょうか。「みんなが一緒に楽しんでつながれる」という特性を活かし、共生社会の実現へ向けて活動を続けていきたいと考えています。ボッチャをやりたい、イベントや大会をしたいというご希望があれば、どこへでも道具をもって出かけます。そして盛り上げます。ぜひ、お呼びください!  株式会社Nomearod、逆から読むとあの有名な何でも実現してくれるアニメのキャラクターになる。世の中にないものをポケットから取り出して、人生を楽しくしてくれる。大澤さんもまた、ボッチャをツールに、人々の人生を楽しくしようと、今日も飛び回っている。 大澤十三(おおさわ・じゅうぞう) 株式会社Nomearod 代表取締役/一般社団法人レクレーションボッチャ協会代表理事/練馬第一分区保護司。2012年区役所で開催されたニュースポーツの体験会でボッチャと出会い魅了される。普及には手頃な価格が必須であるとの理念に基づき、ステアテックボッチャのブランド名で自由な発想のボッチャ用具を企画販売している。依頼があれば東京から全国へ指導のため無料出張している。十三はビジネスネーム。ボール13個にちなんでいる。 ステアテック商品の一例。上/フルサイズコート(約10m×6m)税込19万8000円 下/ボッチャボールセット 税込4万7850円
「ボッチャ、やりたい!」の気持ちにすぐに応えます! ―前編―

「ボッチャ、やりたい!」の気持ちにすぐに応えます! ―前編―

草野球やストリートバスケのように、「日常にボッチャがある」という状況まで普及させたい! ボッチャの体験会を、爽やかな笑い声と褒め言葉を投げ掛けながら盛り上げている人物がいる。ボッチャ用品のステアテックを手がける会社の代表を務める大澤十三さんだ。普及のしやすさを追求し、レクレーションボッチャを考案し、ボッチャ用具の貸し出しも行って普及に努めている。ボッチャをやってみたいという声が届けば、「全国どこでも飛んでいきます」と、普及にかける思いは熱い! ※『パラスポーツマガジンvol.13』に掲載された記事です。 取材・文/長沢潤、編集部 写真/編集部、Nomearod  ボッチャ用具のブランドの一つ、ステアテックを扱っている株式会社Nomearod(ノメアロッド)は都心からほどない、私鉄沿線駅から数分にある。そこに突然4人の来客があった。ボッチャに興味を持った大学生が、用具を購入するため、住所を頼りに訪れたのだという。 ボッチャを通してのつながりから商品開発のアドバイスをたくさんもらえました(大澤さん)  「ここは事務所だけで、ショップ機能はないんだ」と同社の大澤十三代表が申し訳なさそうに答えた。しかしすかさず「せっかく来たんだから、やってかない?」と誘った。目の前の路地での〝ストリートボッチャ〞だ。商品は持って帰ってもらえないが、「ボッチャは楽しい」という思いは持ち帰ってもらいたかった。この狙いは、盛り上げ上手な大澤さんのホスピタリティによって完遂され、ボッチャの熱烈愛好家が4人誕生した。この4人は、数日後に大澤さんが依頼されていた小学校でのボッチャ体験会運営のサポート役にも加わったのだという。  この「輪の広げ方」で大澤さんとステアテックはボッチャの普及に取り組んでいる。 楽しい! 誰もがとりこになる魅力を伝えていきたい ――大澤さんのボッチャとの出会いは、いつ、どのようなものだったのですか? 大澤 私は大人になって水泳を始め、のめり込んで指導員の資格を取り、練馬区のスポーツ推進委員になって子供たちに水泳を教えたりマラソン大会の手伝いをしたりしていたんです。そして2013年頃に練馬区が主催したニュースポーツ体験会で初めてボッチャと出会い、すぐにとりこになったんです。うまくいかなくて、負けて、悔しくて、だから「またやりたい」と思った。心底、楽しかったんです。そして、そのとき私が味わった感動は、きっとこれから出会う人も同じように味わってもらえるはずだと確信したんです。この衝撃的な出会いを、多くの人に体験してもらいたいという思いはその時から今まで変わらず持ち続けています。 ――多くの人がボッチャと出会ってほしいという思いが、ボッチャ用品の販売につながっていったのですか? 大澤 初めて出会った体験会で自分が負けて悔しかったので、練習してチャレンジし直したいと思い、ボールを手に入れようと思ったんです。でも、当時は13個セットで9万円の商品があるだけでした。ジャックボールと赤青6個ずつのセットでしか販売されていなかったんです。「これでは、多くの人にやってもらいたい」のに広がっていかないと思い、「じゃあ、自分で作って売ろう」と考えたんです。元々福祉用品やレジャー用品の製造販売をしていたため、海外で安く作るためのコネクションもありました。商品開発は簡単ではなかったですが、なんとか2万円台で売り出すことができました。それが、ステアテックブランドの始まりになりました。 ――9万円が相場のところ、2万円なら一気に売れ筋商品になりそうですね。 大澤 いえいえ、なかなか売れませんでした。理由のひとつに、品質に対して疑問を持たれたからだと思います。それについては、横浜の特別支援学校の方々が企画したボッチャ大会で使ってくださったことがきっかけで、ボッチャをやっているいろいろな方々と知り合うことができ、そのつながりでアドバイスをいただきながら改良を重ねることができました。その結果、良い製品になってきたという手応えがあります。手ごろな価格にとどめるため、世界ボッチャスポーツ連盟の公式認定マークの認定を受けるのを控えていますが、重量275± 12グラム、円周270±8ミリなど規格や素材などは国際競技規則に準拠しています。ですから、日本選手権本大会や、強化指定選手選考会では使えませんが、それ以外のシーンでは使えるものですので、安心して購入いただければと思います。 ――ボールのほかに、コートも商品化されていますね。 大澤 はい。大会や体験会などの運営に関わる中で、一番大変なことは設営だなと感じ、もっと手軽に準備できるようにしないと普及しないなと思っていたんです。そして、これもかなりの試行錯誤の末に、いくつも社外秘の技術を採用して商品化しました。しかも、私たちからの提案として、3つのサイズを用意しています。実際の競技時で試用されるコートと同等のフルサイズコート。その半分のハーフコート、そしてさらに小さい約3×約1. 8メートルのカフェコートです。 より多くの人が手軽に始められる環境作りをしていく ――ステアテックの用具のお話を伺うと、競技ルールに縛られていないのだなと感じたのですが、どのようにお考えですか? 大澤 競技ボッチャについては、私は大好きです。奥の深い、素晴らしい競技であることに疑いはありません。私が最初に触れて一瞬でとりこになったのも競技ボッチャの体験でしたし。東京パラリンピックでもみんなで盛り上がり、金メダルを獲得した日本チームの皆さんをリスペクトしています。でも、野球にプロ野球と草野球があるように、ボッチャにも競技ボッチャと「草」ボッチャがあっていいと思うのです。もっと多くの人が手軽にプレーをし始めることができるように! 野球のボールやバットに違う規格があるように、ボッチャにも価格が高い公認球だけでなく、手軽に手に入るボールがあっていいと。  また、それと同じで、コートも10mという大きなサイズにこだわらなくてもいいと思いました。ハーフサイズや、もっと小さくて、室内に設置できるサイズでプレーしてもいいと思うのです。それでも、ボッチャは楽しめるのです。本当に、小さいコートでもフルサイズに引けをとらない奥深さで楽しめるのがボッチャなのですから。カフェコートは飲食店などの室内でプレーできるようにと考えたものですが、実際にバーやスナックなどでビリヤードやダーツの代わりにおいてもらえれば、盛り上がりますよ!(後編へ続く) 視覚障がい者に向けて「ハンディボード」も開発中
パラスポーツマガジンvol.13 9月27日発売!

パラスポーツマガジンvol.13 9月27日発売!

車いすテニスの4大大会に加えパラリンピックを制し、 “ゴールデンスラム”を達成した国枝慎吾さんが、パラスポーツマガジンに登場! 同い年で仲良しの藤本怜央選手(車いすバスケットボール)とのぶっちゃけトーク、 さらに、国枝さん直伝!の車いすテニス講座では、 車いすテニスの上達テクニックを本邦初公開! で特集します。 また、2024年のパリパラリンピックに向けて激化する出場枠獲得争いでは、 陸上、車いすラグビー、車いすテニス、自転車、水泳、ゴールボールをレポート。 さらに、東京2025デフリンピックに向け「手話」を体験レポートするほか 限界に挑むパラアスリートの姿など、今号も内容盛りだくさんでお届けします! ◆◆おもなコンテンツ◆◆ ●特別対談 同い年ぶっちゃけトーク! 国枝慎吾×藤本怜央 ●国枝慎吾直伝! 車いすテニス講座 ●パリ2024への出場枠獲得争いを勝ち抜け! 陸上、車いすラグビー、車いすテニス、自転車、水泳、ゴールボールを ●デフリンピックがやってくる! 上智大生が「手話」を体験&レポート ●「ボッチャやりたい!」の気持ちにすぐに応えます! ●パラアスリートの限界突破! ヒッポキャンプで信越トレイルに挑戦!/ブラインドランナーが東京‐新潟515㎞を走破! etc.
パラスポーツマガジンVol.12 本日発売!

パラスポーツマガジンVol.12 本日発売!

パラスポーツ界に次代を担うスター候補生が現れました! 車いすテニスの小田凱人(おだ・ときと)16歳。 年間世界王者を決める大会を史上最年少で制した超新星です。 『パラスポーツマガジンVol.12』では独占インタビューを敢行しました。 テニスファンはもちろん、パラスポーツファン必読です! また金メダリストの杉浦佳子(自転車)、川除大輝(競技スキー)のインタビュー 2025年東京開催が決まったデフリンピック特集、 お互いにパラリンピアンを夫にもつ国枝愛さんと久下真以子さんの対談、 「パラスポーツの街」を目指す東京渋谷区の近況など 今号も盛りだくさんでお届けします!
パラスポーツマガジンVol.11発売!

パラスポーツマガジンVol.11発売!

パラスポーツマガジンVol.11が発売になりました!  今回のテーマは「パラスポーツのメッセージ」。パラリンピアンたちが熱い想いを届けてくれました。そして、「ボッチャ」と「車いすバスケットボール」を特集!注目のパラスポーツは、モルックと車いすボクシングを取り上げました。今回読み応え満点のパラスポーツマガジンをぜひお読みください! ◆◆おもなコンテンツ◆◆巻頭特集●inside of top para-athlete村岡桃佳(スキー・陸上)「二刀流、第2章」富田宇宙(競泳)「生きづらさを抱える人に勇気を届ける。それが泳ぎ続ける理由」 特集●パラスポーツから学ぶ「脱・勝利至上主義」のヒント 特別インタビュー●青木大和(スキー)「一度挫折してもやり直せる社会に」 ボッチャに夢中!●カンタン!ボッチャ上達講座 ほか 知れば知るほどおもしろい! 車いすバスケ 北京2022パラリンピックレポート 注目!パラスポーツ紹介●モルック、車いすボクシング
木村敬一 金メダルへの道程(東京2020パラリンピック)

木村敬一 金メダルへの道程(東京2020パラリンピック)

東京2020パラリンピックでは、11人の日本人金メダリストが誕生した。そのなかで、リオ大会で敗れ、雪辱を果たした選手のひとりが競泳の木村敬一だ。悲願の金メダルを手にして号泣する姿は、日本を感動の渦に巻き込んだ。(この記事は本誌Vol.10に掲載されたものです)  新型コロナウイルスによる1年延期。そして、無観客。異例づくめの中、東京パラリンピックが開催された。大会11日目、2021年9月3日に東京アクアティクスセンターで男子視覚障害(S11クラス)100mバタフライが行われ、木村敬一が金メダル、富田宇宙が銀メダルを獲得。日本勢の1、2フィニッシュが実現した。  最後の1人がゴールし選手全員の順位が決定すると、タッピングを担当していた寺西真人コーチが木村に声をかけた。  「金メダルだ!」  まだ整わない呼吸を続けていた木村は、その瞬間飛び上がり、隣のレーンで泳いでいた富田と抱き合って喜びを爆発させた。  プールから上がっても、木村の見えない目から涙が溢れ出していた。  「この日のためにがんばってきた〝この日〞は、本当に来るんだなって」 高校時代から師事するコーチでありタッパーを務めた寺西真人から金メダル獲得知らされ、木村敬一の歓喜は爆発した イアン・ソープを超える!  木村は、2歳の時に病気のため視力を失った。小学4年でスイミングクラブに通うようになる。2001年に水泳の世界選手権が福岡県で開催され、オーストラリアのイアン・ソープが6種目で金メダルを獲得する様子を、テレビの前で耳をそばだてて夢中になって聞いていた。そして、決意する。  「オレは、イアン・ソープになるぞ。いや、イアン・ソープを超えるぞ!」  まだ、25mを泳ぐのがやっとという木村が抱いた、大きな夢だった。  中学は、東京にある筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚支援学校)に単身入学し水泳部に所属。同校出身者には、1992年のバルセロナ大会から2012年のロンドンまで、木村と同じ視覚障害の水泳で合計21個ものメダルを獲得した河合純一がいる。河合を指導した寺西コーチに出会い、本格的にパラ水泳の選手としての指導を受けるようになった。  初めてのパラリンピックは2008年、北京大会。高校3年の夏である。出場した100m自由形と平泳で自己ベストを大幅に縮めるタイムで5位入賞を果たす。年齢の近い日本人選手がメダルを獲得したことで、〝パラリンピックのメダル〞を意識するようになったという。そうして、4年後のロンドン大会100m平泳ぎで銀、バタフライで銅。木村は初めてのメダルを獲得した。 金メダル至上主義へ  「自分が本当の意味でアスリートとしての意識を持ったのは、ロンドン大会が終わって、大学院に進学し、同時に東京ガスの所属が決まった時でした」  競技に専念できる環境が整い、トレーニング一色の生活になった時に、〝金メダル獲得〞という目標が目の前にはっきりと現れた。  「その時から、気持ちとしては〝金メダル至上主義〞になりました」  実際、大学時代とは比較にならないほどの練習量をこなし、さらに筋肉をつけるために食事(タンパク質)量も増やしていく。生活そのものが金メダルへの道まっしぐらになっていった。自身も、周囲も、16年のリオ大会では必ず金メダルを獲得することを信じて疑わなかった。  ところが、そのリオ大会ではメダルの数こそ銀2個、銅2個と大活躍だったものの、肝心の金メダルはとり逃してしまう。睡眠障害とともに、摂食障害の症状を併発し、大会期間中の体調も精神状態もどん底の中、それでも泳ぎ抜いた結果だった。  「リオ大会では、日本選手団は1個も金メダルがなかった。実は、それに救われたところがあったんです」  メダル4個を持ち帰った木村に、周囲の人は「よくやった」「すごい、がんばったね」と声をかけた。もし、リオで誰かが金メダルを獲得していたら、そして、木村への評価が〝金メダルは獲れなかったけど〞という程度だったら、「きっと、人生が終わりだと絶望してしまったかもしれない」と、振り返る。  木村の金メダルへの道は、4個ものメダルを手にしたリオ大会以降に持ち越された。 充実のアメリカ修行  リオ大会までの過密なトレーニングスケジュールを、いったん、ゼロにした。ほぼ1人で練習メニューを考え、試行錯誤しながら、あらゆる修正を加えていく。思いついたことはなんでもやってみる。それが、木村のスタンスだった。何かを変えたい。その思いの先に行き着いたのが、渡米である。  2018年、単身渡米。同じ視覚障害の水泳選手で金メダリストのブラッドリー・スナイダーに連絡を取り、ブライアン・レフラーコーチを紹介してもらい、練習拠点となるボルチモアへと旅立った。2年間のアメリカ修行が、木村を丸ごと、変貌させたのだった。  「〝金メダル至上主義〞だった頃は、成果を上げなければ何の意味もないって思ってました。でも、アメリカに行ったら、水泳だけでなく、やらなくてはいけないことがたくさんある」  英語を習得することも、1人で生活することも、そこで手助けしてくれる人とコミュニケーションを取ることも、すべてが自分の成長だと感じられた。  「その中で、プールで泳ぐことに純粋に喜びを感じられたんですね」  できることが増え、活動範囲がどんどん拡大していく。アメリカ国内のレースに出場するために、時差のあるアメリカを端から端まで行ったり来たり。新しい友人と、食事をしたり。  「スタートが低かったですからね、もう伸び代しかないわけです」  水泳での木村のひらめきによる試行錯誤は、アメリカでも冴えた。たとえば、練習でスタートの合図を待っている時に、水の中、片腕でプールサイドを掴んで待つ。そして、合図とともに体をひねった状態から進行方向へと向きながら、壁を蹴ってスタートさせる。  「体が斜めの状態でのスタートフォームは、実はターンの時の体の向き、ひねり方に近い。アメリカでの練習中に、そのことに気づいたんです。壁を蹴ってからのキック回数、浮き上がってくる距離を、ターンの時とそろえることを意識して練習するようにしていました」  これが奏功し、実際のタイムにも反映されていった。  「アメリカでがんばっている自分を、初めて褒めてあげたいって思ったんですよ。僕のわずか31年間の人生経験の中で、アメリカでの2年間は、真っ先に人に話したいと思えるほどの経験でした」 もがいた先の金メダル  2020年3月。新型コロナウイルスは、アメリカでも急激に感染拡大した。そして、東京オリンピック・パラリンピックの1年延期が決定。木村は、帰国した。  「少なくともこの1年間、おもだった大会は開催されないだろう。だから、今は、日本でしかできないことだけに集中しよう」  木村は新たにメンタルトレーナーの指導を受け、長野県での高地トレーニングにも積極的に参加した。  パラリンピック直前の8月、来日したアメリカのブライアンコーチが木村の最終調整に付き合ってくれた。  「ブライアンコーチは、いつも前向きで、選手の僕らを勝てる気にさせてくれる。最後の一押しになってくれました」  そうして迎えた、東京パラリンピック。木村が最初に出場した200m個人メドレーでは、メダルに届かず5位に。  「ひどく緊張していました。同時に、コールされてプールサイドに出た瞬間、無観客であること、それでテンションが上がらない自分を自覚していました」  2種目目となる100m平泳ぎでは、落ち着きを取り戻していた。それが、銀メダルという結果に反映されたと、木村は分析している。  競泳の最終日にあたる9月3日、運命の100mバタフライが行われた。19時45分、決勝がスタート。予選1位の木村は4レーン、2位の富田は5レーン。号砲とともに飛び込むと、木村がわずかにリードして水面に姿を見せた。50mを28秒31で折り返し、そのままトップをキープしてフィニッシュした。  「50mのターンの時、ベストの泳ぎより1ストローク多かったんです。そのため、プールの壁までの距離が詰まってしまい、ターンが合わずに折り返した。さらに途中でコースロープに当たって減速。最後の6、7mは、自分としてはちっとも進んでいないという感覚でゴールタッチしました」  1分02秒57のタイム。会心の泳ぎではなかったという。全選手が泳ぎ終わるまでのわずか数秒、会場は、静寂に包まれていた。  そして、金メダルを告げるアナウンス。  「…… ダメかもしれないという気持ちと、それでもやっとレースが終わったという安堵感。それだけでいっぱいでした」 友人でありライバルの富田宇宙(右)とは隣のレーンで競い合った。富田の存在は木村にとってとても大きいのもだった チャンピオンの空白  2位となった富田の存在は、大きいと語る。  「どの国の選手であれ、同じクラスでライバルとなる存在が出現するのは脅威だし、金メダルのためには倒さなくてはいけない。その相手が、国内にいる。国内のどんなレースでも、同じプレッシャーの中で泳いでいました。1レースも、負けたくない、と」  5年間、常にプレッシャーを感じ続けていたからこそ、金メダルにつながったと、木村は確信する。実際、100mバタフライでは、木村は富田に負けた記憶は、ない。  「死守した先に、やっと辿り着けましたね」  ライバルの存在は、木村を前進させる原動力になった。が、一方で、日本代表選手として金メダルの期待がかけられている重圧には、押し潰されそうになっていた、と明かす。  「自分のためにどれだけ他の人が力を貸してくれているんだ、という。仮に、今回銀メダルだったとして、それをきっと誰も責めることはないでしょう。その事実を、一番受け入れられないのは、自分。負けるのが、一番嫌だと思うのは、自分。そのプレッシャーが、最後のレースまでずっとのしかかっていました」  まさに悲願の金メダルを獲得した木村は、東京パラリンピック閉幕から1カ月を経て、今後の行方は模索中だと語る。  「人生最大の目標を達成してしまって、それを上回るものが、なかなか見つからない」  率直な実感なのだろう。  チャンピオンしか感じることができない、空白の時間と空間。木村は、今、そのただ中に身を漂わせている。 木村敬一(きむら・けいいち)/1990年、滋賀県生まれ。増殖性硝子体網膜症により2歳で視力を失う。小学4年で水泳を始め、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚支援学校)に進学し、水泳部に所属。2008年、高校3年で北京パラリンピックに初出場、12年ロンドン大会では100m平泳で銀、100mバタフライで銅メダル。16年リオ大会では、50m自由形、100mバタフライで銀、100m平泳、100m自由形で銅メダルを獲得。東京大会では、100mバタフライ金、100m平泳で銀メダルを獲得した。2021年8月に『闇を泳ぐ』(ミライカナイ刊)を上梓。 取材・文/宮崎恵理 写真/堀切功
[特別対談 村岡桃佳×野島弘]東京から北京へ「村岡桃佳の二刀流は北京で完結する」後編

[特別対談 村岡桃佳×野島弘]東京から北京へ「村岡桃佳の二刀流は北京で完結する」後編

2022北京パラリンピックで日本チームの主将を務めるアルペンスキーの村岡桃佳。前回の平昌大会では5つのメダルを獲得し、昨年の東京大会では陸上短距離に挑戦。“二刀流”にかける想いを、村岡のスキーの師匠でもある野島弘が聞きました。後編では、東京から北京へつなげる想いみなどを話していただきました。(パラスポーツマガジンVol.10掲載記事) 決勝で力を発揮できたので、ゴール後は清々しい気持ちだった 野島 東京でのレース当日のことを聞かせてください。 村岡 予選は2組目。1組目のレースを見てレベルの高さを目の当たりにして「決勝に進めないかもしれない」と思ってしまいました。気持ちの整理がつかないまま時間はすぐにきて、なんとか奮い立たせてスタートラインに立ったら、スタートが一回やり直しになって、その瞬間スイッチが切れちゃって。立て直さなきゃと思ううちにピストルがパン! と鳴って、「やばい、どうしよう!」と思いながら無我夢中で、ゴールするまでよく覚えてないんです。ただ途中でふっと顔を上げた時に、「まだこれしか進んでない! 100mまであんなにある!」と、思った瞬間だけ覚えています。 野島 スキーは自分でスタートできるけど、陸上は他人の合図でのスタート。どう違いますか? 村岡 スキーの怖さは、先に待ち受けているものを知っていながら自分でスタートしなきゃいけないこと。でも逆にいえば、自分のタイミングで決めて出られます。ところが陸上は、フライングもダメだし、出遅れてもダメ。そこが怖いです。 野島 スタートの時、どんなところを研ぎ澄ませている? 村岡 音ですかね。でも、雑音はすごく入ってきますし、わりといろんなことを考えています。たとえば息を吸い切ったタイミングだったら吐きながらスタートできるけど、吸っている途中に鳴ったらどうしようとか。私の持ち味はスタートなので、逃したくなくて……。あとは、自分の指のどこにハンドリムが当たっていて、どう動かそうとか。指先とか感覚的なところはずっと集中しているかもしれません。 野島 スキーだとここまでは何がなんでも最速で滑るとか考えると思うけど、陸上だとどうでしょう。 村岡 そういうのはないですね。100m全体の構成を考えています。 野島 いいスタートするには、イチかバチかフライングも覚悟、みたいな感じですか? 村岡 スターターによってタイミングも違ってくるので、感覚では行けないんです。フライングは失格ですから。 野島 なるほど。でも決勝に進めたわけで。 村岡 予選を走った時点で、「私の東京は終わった」と思いました。自分の走りがまったくできなかったし、タイムももっと行けるはずなのに出ていなかった。決勝はないと感じた時に頭が真っ白になって……。でも掲示板を見ていたら、決勝のメンバーに自分の名前がギリギリあった。だったら決勝では絶対に納得いく走りをしよう、最下位だけは脱却しようと思いました。一旦選手村に戻って食事をして、コーチに電話して改良点などを話し合い、決勝に向けてのアップの仕方も相談して、天候も不安定だったのでギリギリまで悩みながら調整しました。結果的には、予選での反省を改善できたし、自分の持てるところは発揮できたレースだったので満足しています。ゴールした後は清々しかったです。 野島 挑戦した甲斐がありましたね。 村岡 あっという間でしたが、東京が終わったんだなって。約17秒に集約された2年半が一瞬で終わりました。でも挑戦したことへの後悔は一切ありません。陸上とスキー、どっちもやり切ったと思えればいい。 野島 さて、次は北京パラリンピックですが、気持ちの切り替えはできてますか? 村岡 東京の競技が終わって、一週間くらいは余韻に浸っていて、さらに閉幕して一週間くらいはもぬけの殻みたいになっていましたね。やり切った感と、北京に向けて動かなきゃと思いつつも動けない感じ(笑)。でも北京への準備をしないといけない時期が来て、少しずつ少しずつ切り替えました。 野島 練習は始めている? 村岡 はい。個人で。もう少ししたらチーム合宿があります。 野島 今の目標は? 村岡 シーズンが始まってすぐは、誰でもやるべきことがたくさんあるし、そのうえ私にはブランクもありますので。少しでも早く戻したいけれど、何をやってもあと半年しかない。間に合うだろうかという不安はやっぱりありますね。 野島 メンタル的にはどうでしょうか。 村岡 期待に応えなきゃという気持ちにもなり、プレッシャーも感じます。 野島 北京はどんな大会にしたい? 村岡 すごくあいまいですが、笑って終われたらいいなと思います。 野島 具体的には? 村岡 自分の納得いく滑りですね。ベストをつくしたい。私自身の二刀流への挑戦としては、北京がゴールだと思っているので。東京でスタートが切れたので、ゴールは北京。もちろんメダルが獲れなかったらショックを受けると思うし、いい滑りができたらそれで満足できるかもしれない。残りの半年間と北京での滑りが終わらないと、何を思うかわからないけれど、終わった時に陸上とスキー、どっちもあきらめなくてよかったな、やり切ったな、楽しかったなと思えればいいなと思います。 野島 陸上、続けますか? 村岡 わからないです。陸上を楽しいと思ったし、パラリンピックに出られて決勝まで行けるレベルまで上げることができたのに、やめるのはもったいないなという気持ちもある。スキーとの兼ね合いもありますし。ただ、何よりもキツかった! あれをまたやるとなると悩みます(笑) 野島 スキーもやるとなると2年サイクルですもんね。 村岡 北京の結果を踏まえて自分がどう思うか次第だと思います。 野島 別の種目への挑戦は? 球技とか水泳とかありますよね。 村岡 団体スポーツは向かない、球技もダメ、水泳はもっとダメ。あり得ません! 野島 そうですか(笑)。北京での笑顔、期待しています! 村岡桃佳(むらおか・ももか 右)1997年埼玉県生まれ。トヨタ自動車所属。4歳の時に横断性脊髄炎にかかり車いす生活に。小学生からアルペンスキーを始め、高校2年時のソチ大会でパラリンピックデビュー(大回転5位)。4年後の平昌大会では金1を含む5個のメダルを獲得し一躍注目を浴びた。その後、陸上を本格的に練習し東京大会に出場。女子100メートル(車いすT54)で6位入賞を果たした。2022年の北京大会も出場とメダルを目指す。 野島弘(のじま・ひろし 左)/1962年東京都生まれ。一般社団法人ZEN代表理事。17歳の時、交通事故で脊髄を損傷。その後アルペンスキーを始め、長野、トリノのパラリンピック2大会に出場。引退後、車いすの子どもを対象にしたスキー教室を開催し、村岡は小学2年生から参加。スキーのほか、さまざまなスポーツやアクティビティのイベントを主催し、子どもたちに活動の場を提供している。パラスポーツマガジン副編集長。 写真/堀切功

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