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  [特別対談 村岡桃佳×野島弘]東京から北京へ「村岡桃佳の二刀流は北京で完結する」前編

[特別対談 村岡桃佳×野島弘]東京から北京へ「村岡桃佳の二刀流は北京で完結する」前編

2022北京パラリンピックで日本チームの主将を務めるアルペンスキーの村岡桃佳。前回の平昌大会では5つのメダルを獲得し、昨年の東京大会では陸上短距離に挑戦。“二刀流”にかける想いを、村岡のスキーの師匠でもある野島弘が聞きました。前編では、陸上を目指した経緯などについて話していただきました。(パラスポーツマガジンVol.10掲載記事)

陸上はつらくて苦しい。始めたことを後悔したこともあった

野島 平昌パラリンピックで念願の表彰台に立った桃佳が、東京パラリンピックを目指した理由から教えてください。

村岡 私のスポーツの入り口は陸上競技なんです。でも気づいたら、野島さんのおかげでスキーに引きずり込まれて(笑)、陸上からは自然と離れていきました。でも陸上に対する未練みたいなものがちょっとだけあって、東京オリパラの開催が決まったとき「自国開催っていいなー」などとも思いましたが、そのころ、私の中での目標は平昌でメダルを獲ることだったので、スキー一直線で取り組みました。

野島 結果、平昌で金銀銅5つのメダルを獲得した。

村岡 自分が思う以上の記録を残すことができました。その時に「次、何を目標にしようかな」と考えた時に、ふと〝東京〞がよぎったんです。やってみたい。陸上競技をもう一度真剣に、本気で取り組んでみたいと。

野島 スキーだけじゃ満足できなかった?

村岡 なんとか出場できた14年のソチパラリンピックの時、最終日のGS(大回転)の表彰式を見て「平昌では絶対ここに上りたい!」と思って、平昌で結果が出せた。平昌の翌シーズンはワールドカップで初めて総合優勝もして、GSでもタイトルを獲れた。だけどそのシーズン、ものすごく苦しかったんです。勝つことが当たり前、表彰台に立って当然とまわりは思っている。でも実際は、最後の最後までポイントもぎりぎりで、「残り4レースで1レースでも転んだらタイト獲れない」なんて計算して眠れなくなったり。メダルを獲ったことで、逆にスキーから逃げたい気持ちになっていました。だから、平昌の成績がなかったら、陸上をやる気持ちにはなっていなかったと思います。

野島 よく決心しましたね。

村岡 正直、陸上は遊びの延長のような感じだったので、取り組むならイチからだってわかっていたし、所属先のこと、スキーをどうするか、まわりの理解をどう得るかという問題もありました。何より、平昌でメダルを獲ったからこそ、陸上に取り組んでいいのか。北京でのメダル獲得への期待に真剣に応えることを最優先にするべきなのじゃないかと悩みました。でも、「陸上をやってみたい」という気持ちが一番強かった。ありがたいことに、所属先はじめいろいろな方々の理解を得ることができ、始められました。

野島 陸上やると決めてから、どんな準備をして、どんな心構えをしていましたか?

村岡 始めたのは2019年4月ごろ。とりあえず、レーサー(競技用車いす)に乗ってひたすら漕ぐ(笑)

野島 桃佳は基本ができるからね。スキーだって乗らなきゃ基本ができない。朝イチからリフトが終わるまでずっと滑ってたことをよく覚えています。でもチェアアスキーもしかり、道具とのマッチングに創意工夫が必要ですよね。陸上でその辺の苦労はなかったですか?

村岡 とにかく何から始めていいかわからないので、岡山にあるパラ陸上の実業団チームを率いる松永仁志さんを訪ねました。まずは何年も前に作ったサイズも合っていないレーサーに乗りつつ、採寸してもらい、新しいレーサーを作りました。グローブも作って、ホントにイチからですよね。そこでポジションや漕ぎ方を教えていただきました。

野島 その一連は楽しかった?

村岡 とにかくつらくて苦しくて、始めたことを後悔しましたね(笑)。実業団チームで練習させてもらえるようになり、はじめは私に合わせてペースをかなり落としてくれているのに、アップにもついていけない。みなさんはこれから練習なのに、アップでへばって終わり。「今は走る技術も筋肉も、陸上選手として何も備わっていない」といわれました。正直、昔はそこそこ走れていた記憶があったので、情けなくて。何がしたかったのか、どこに向かっているのかがわからなくなったこともありました。

野島 でも、走れるようになった。

村岡 気がついたら少しずつ、ついていける距離か増えて、スピードも上がって、メインの練習もできるようになっていました。

野島 その頃、どんな目標でした? 同じ種目でトップになりたいとか、具体的なタイムとかありましたか?

村岡 その時は、速くなりたいしかなかった。でも、最初の大会に出た時、トップと大差はなく2位になり「行けなくないかも?」とは思いました。

野島 でもスキーと違って、陸上は同じ条件でレースをして1秒差、2秒差があったとして、2回目を走ってもタイムが大きく変わるわけではない。海外の選手との差もなかなか縮められないことも明らかで、モチベーションも上がらないと思うんですが。

村岡 それが陸上のいいところと嫌なところ。スキーにもいいところと嫌なところがありますが(笑)

野島 一発勝負にかけられないというか。

村岡 でも、それが縮まればおもしろい。普段の練習で、スピードが上がり、ついていける距離が長くなれば、自分の成長が確実にその場で感じられる。それが健常者と障がい者の違いかもしれないですね。始めたばかりの時は世界との差を感じたけれど、スタートラインのゼロから下がることはなく、上がっていくことしかない。世界が100としたらどこまで100に近づけるか。あとは意地(笑)。やるといったからにはやるしかない。

野島 出場できる自信はありましたか?

村岡 実は東京を目指すかあきらめるかという決断のボーダーを、2019年7月のジャパラ(ジャパンパラ陸上競技大会)に決めていました。やりたいだけじゃなく、タイムを出せるかという。やめる選択肢ならスキーの日本チームの海外遠征に合流するプランもありました。その前の大会で日本新は出していましたが、結果的には出場できるタイムではなく、そこから3月の選考会までに17秒台を出せる自信はありませんでした。

野島 現実の壁があったんですね。

村岡 100mで1秒縮めるのがどれだけ大変かをわかっていたので。でも、そこで陸上をあきらめる自信もなかった。スキーと陸上という二刀流で注目される中、中途半端に陸上をやって競技をなめていると思われたくなかったんです。

野島 そのプレッシャーがモチベーションになった?

村岡 そうですね。いろんな要素が重なって、東京を目指す、陸上を続けるという選択に至りました。

野島 僕がなかば強引にスキーの世界に引っ張り込んでしまったので、いつか陸上もチャレンジしてほしいと思っていたから、個人的にはうれしかったです。

村岡 野島さんにスキーの世界に引っ張っていただけなかったら、東京を目指すとかいいながら大した記録も出さず、ただズルズルと陸上を続けていたと思います。スキーに取り組み、アスリートの世界を見せていただき、そこから陸上の世界に入れたことはとても良かった。100mは競争率も高く、東京を目指す覚悟なんてなかなか得られないはずですから。

野島 結果的には、開催が1年延び、2021年の5月に内定が決まりました。

村岡 内定の連絡は国際大会が行われていたスイスでもらいました。レースに専念していたので「そうか。出るのか」という感じでしたね。1年延期になったことで、目標を東京出場から決勝進出へと引き上げたこともあるのかもしれません。

(後編へ続く)

村岡桃佳(むらおか・ももか 右)/1997年埼玉県生まれ。トヨタ自動車所属。4歳の時に横断性脊髄炎にかかり車いす生活に。小学生からアルペンスキーを始め、高校2年時のソチ大会でパラリンピックデビュー(大回転5位)。4年後の平昌大会では金1を含む5個のメダルを獲得し一躍注目を浴びた。その後、陸上を本格的に練習し東京大会に出場。女子100メートル(車いすT54)で6位入賞を果たした。2022年の北京大会も出場とメダルを目指す。

野島弘(のじま・ひろし 左)/1962年東京都生まれ。一般社団法人ZEN代表理事。17歳の時、交通事故で脊髄を損傷。その後アルペンスキーを始め、長野、トリノのパラリンピック2大会に出場。引退後、車いすの子どもを対象にしたスキー教室を開催し、村岡は小学2年生から参加。スキーのほか、さまざまなスポーツやアクティビティのイベントを主催し、子どもたちに活動の場を提供している。パラスポーツマガジン副編集長。

写真/堀切功



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