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  道下里美(視覚障がいマラソン) 仲間がいるから強くなれる――逆境でつかんだ「わたしの形」(前編)

道下里美(視覚障がいマラソン) 仲間がいるから強くなれる――逆境でつかんだ「わたしの形」(前編)

東京2020パラリンピックのマラソン競技は、9月5日(日)、新国立競技場を発着点に行われます。東京を走る選手たち。視覚障がいクラス女子の金メダル候補、道下里美選手の独占インタビューをお届けします!

 

※この記事は『パラスポーツマガジンVol.8』(2020年12月7日発売)からの転載です。

 

 道下里美は、中学2年で右目を失明、左目も重度の弱視となった。「何もできなくなっちゃった」と止まりかけた人生が再び動き出したのは、20代後半のこと。目の代わりとなる伴走者とのランニングと出合い、「風を切って走るって楽しい!」。パラリンピック銀メダル、世界記録更新……。40歳をすぎてなお進化し続ける原動力は、金メダルへの執念と仲間との絆だ。

 

東京パラ1年延期の衝撃

 2016年夏のリオ、道下美里は初めて正式種目に採用された視覚障がい者女子マラソンで、気温30度を超える過酷なレース環境のなか、ねばりの走りで2位に入った。金メダルには届かなかったが、フィニッシュ後、共に走った伴走者や応援団と喜び、「いまのわたしには最高の銀メダル」と笑顔を見せた。

 だが、表彰式では一転、涙がポロポロと頬を伝った。優勝したスペイン選手を称える同国国家が流れるなか、「わたしが聴きたかったのは、この曲じゃない」。先行され、追いきれなかったレース内容に悔しさがこみあげた。

 「攻めの走りをして、次は絶対に金メダル!」。強い覚悟を胸に、東京パラリンピックで「最強の自分」になろうと綿密に立てたトレーニングプランを積み重ねてきた。マラソンはそう頻繁に記録が向上する競技ではない。4年間の前半は基礎を固め、ギアチェンジして後半2年で段階的に記録を出し、本番に向けて調子を上げていこう。そんな青写真を描いていた。

 そして、2019年春、ロンドンで行われた世界選手権で優勝し、東京パラリンピック代表に内定した。2020年2月には別府大分毎日マラソンで2時間54分22秒をマーク、自身のもつ世界記録を2分近くも更新した。あとは初夏のレースで5000メートル自己新を出して弾みをつけ、9月の本番へ。「いい流れ」に乗っていた。

 だが、3月下旬、大会の1年延期が決定した。新型コロナウイルス感染症の世界的な広がりから予想はしていたものの、いざ自宅でニュースを聞いたときのショックは決して小さくなかったという。

 「1年後……。強化スケジュールも気持ちも、どうやって作り直したらいいんだろう」

 視覚障がい者マラソンでは単独走の選手もいるが、重度弱視の道下には、「きずな」とも呼ばれる専用ロープでつながる伴走者が必要だ。毎日の練習もレースも、20代から70代の約20名の市民ランナーからなる「チーム道下」の仲間たちにずっと支えられてきた。

 そんな仲間たちにももう1年、時間をやりくりし、走力や気力を保つ努力をしてもらいながら、サポートを延長してもらわねばならない。

 「どうしようと、あれこれ考えて悩んでいたら頭が痛くなって熱が出ました。まるで子どもが考えすぎて出る、知恵熱のように」

 そのまま体調を崩し数日間、寝込んだ。すると、古い友人や知人らも含め、多くの電話やメールが届いた。「応援に行こうと思ってたんだよ」「少し体を休めたら」「もう1回『夏』を経験できるね」

 温かい言葉の数々に、「みんながわたしを気にかけてくれている。後ろ向きになっている場合じゃない」。改めて「走る意味」に気づかされ、落ち込んだ気持ちをリセットできた。

(後編へ続く)

PROFILE

みちした・みさと/1977年1月19日、山口県生まれ。福岡県在住。三井住友海上所属。視覚障がいT12クラス。角膜の機能が低下する難病を発症し、中2で右目を失明。左目にも発症し、視力は0.01以下に。26歳から伴走者と走る陸上を始め、31歳でマラソンに転向。2014年、当時の世界記録を樹立し、16年、リオパラリンピックの視覚障害女子マラソンで銀メダルを獲得。19年、世界選手権優勝で東京パラリンピックの代表に内定。20年に世界記録(2時間54分22秒)を更新。

取材・文/星野恭子 写真/吉村もと



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