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  僕はずーっとパラスポーツ・サポーター! 香取慎吾さん独占インタビュー

僕はずーっとパラスポーツ・サポーター! 香取慎吾さん独占インタビュー

国際パラリンピック委員会の特別親善大使として、また日本財団パラリンピックサポートセンターのスペシャルサポーター、朝日新聞パラリンピック・スペシャルナビゲーターを務めるなど、パラスポーツの普及のために尽力している香取慎吾さん。残念ながら新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京パラリンピックは延期となったが、香取さんのパラスポーツへの思いはますます熱く高まっていると言う。 ※このインタビューは『パラスポーツマガジンvol.7』に掲載した記事から一部を抜粋したものです。   パラスポーツを好きになって自分の画に変化が ―香取さんは2015年にパラサポ(日本財団パラリンピックサポートセンター)のオフィスに壁画を描き、その後2017年にスペシャルサポーターに就任しましたが、パラスポーツや障がい者との接点は以前からあったのでしょうか。 「ほとんどないです。子どもの頃、学校に車いすの生徒がいたということはありましたけど、それくらいです。あとはコンサートで車いす用の席をつくるとか、そういう関わり方はしてきました。だから壁画を描くことになった時も、障がいを持つ方のことがよくわかっていなかったというのが正直な話です」 ―壁画のオファーを受けた時は、どんな想いでしたか? 「自分が趣味で描いている時は、この風景を描こうとかこの人物を描こうというのではなくて、頭の中のものが勝手に筆に向かって滑りだしていくというか、自分でもなんだかわからない中で描きあげていくことが多いんです。でも依頼を受けた場合は、依頼先からの話を聞いたり調べたりして描くほうです。で、パラリンピックと聞いた時、浮かんだのは車いすでしたが、参加しているのは車いすの方だけではない。義足の方もいれば視覚に障がいがある方だっている。それでまずはパラリンピックについていろいろ聞いたり調べたりしてみました。ちょうどその頃、行われていたのがロンドンのパラリンピック」 ―2012年ですね。 「今までのパラリンピックをくつがえすほど盛り上がっていて。ハートが気持ち良くなるようなステキな大会だったんです。東京も同じように魅力的な大会にしたいということだったので、これは車いすとかそういうことにこだわることなく描いてみようと。その結果、富士山や日本に海外からたくさん人が来るのをイメージして飛行機を描いたりと、日本に寄せた画になりました」 ―今年も青山学院大学に壁画を描かれましたね。 「学生たちから『人それぞれ考え方は違うけれど、みんなでひとつになって生きていこう』というテーマを提案されました。そうしたら、そこで車いすのようなモチーフや足がない方、腕がない方を普通に描けるようになっていたんです。2015年から5年間ずっとパラリンピックを応援してきて、パラスポーツを好きになったのが大きかったようで、車いすなどの画が自分の中ですんなり気持ち良く表現できるようになっていたんです。最初は本当に車いすの人にどう接したら良いのかわからなかった。僕はもともと握手したりハグなどを積極的にしていくタイプなんですが、車いすの方の場合、触れてはいけない箇所があるかもしれないからと躊躇していた。でもいろいろパラスポーツに挑んでいろいろ知っていくうちに、隔たりがなくなりましたね」 香取さんがパラサポの活動コンセプト「i enjoy!」をテーマに描いた壁画(縦2.6m×横6.1m)。香取さんとパラスポーツをつなぐ出発点となった(写真提供:日本パラリンピックサポートセンター) パラスポーツを自分で体験して伝えたい ―ちなみに一番ハードだと感じたパラスポーツは? 「今までに20種目弱くらい体験してきましたけど、ウィルチェアーラグビーは体に悪いのではないか(笑)と思うくらいハードでした。『なんでこんなことするんですか』と聞きたくなったくらい(笑)。『車いす同士でぶつかった時の音が快感じゃないですか』と言われましたけど、怖いし、痛いし。車いすバスケットボールに挑んだ時も、普通のバスケとゴールの高さが同じなので、全然シュートが届かないんですよ。あれもビックリしましたね。あと怖いと言えばゴールボール。選手のみなさんも痛くて怖いと(笑)。『そうだよね、僕だけじゃないよね』と思いました」 ―実際パラスポーツを体感して競技の見方は変わりましたか? 「変わりましたよ。自分がひとつでも多くパラスポーツを体験して、それを伝えられたらと思うようになりました。そうすれば、パラスポーツに興味を持ってもらえるかもしれないし。やっぱり知ることで感動だったり、どこかアスリートのみなさんから背中を押してもらえるというか。そういうこともあると思います」 ―新しい発見はありましたか? 「たとえば、カテゴリーとかランク。ひとつの競技でもそれが分かれたりしていると、なにかむずかしいような気がしてましたが、でもそこの知識を得て理解すると、さらにおもしろ味が増しましたね。あと結構、パラスポーツの選手の方って負けず嫌いが多いんです。それこそ子どもの頃から、いろいろなハンディを感じた悔しさとか、他人に手伝ってもらいながらももっともっとやりたいという気持ち。そういう思いを爆発させて、一等賞を獲得することに熱く貪欲にパワーを傾ける。僕はあんまり負けず嫌いではないほうなので、選手のみなさんの競技に対する熱い思いはすごく刺激になりますね。あとおろしたての靴を履いていて、それを褒められたらうれしいと思うことってありますよね」 ―カッコいいスニーカーだね、とか? 「それと同じで、車いすに赤いラインを入れていた選手に、『赤色お好きなんですか?』と聞くと『そこを触れてくれるとすごくうれしいですね』と言われたことがあって。そういう見方をしたことがなかったので、そういう話ができると、なんかいいんですよね。あとサポートの面で発見したことと言うと、まだまだスタッフも足りないし、自費で動かないといけない部分もたくさんある。システム自体がまだ充実していない面もある。協会自体もだんだんと大きくなってきているところですから。そういうところでも僕が何か発信することで、多少でも変化のお手伝いができたらいいなと考えているんです」 ―その発信というのは、SNSなどを駆使するということになるんでしょうか? 「もちろんSNSもひとつの方法ではあると思いますけど、正直発信に関しては何でもいいと思っているんです。だからこの取材のように呼んでいただけるのはうれしいですし。どこでもいいので僕が体験・経験したことを知らせていきたいですね」 ※この後、東京パラリンピック延期について、パラリンピックで楽しみにしていること、コロナ禍でかんばるパラアスリートへのメッセージなどをお話しくださいました。「東京パラリンピックを盛り上げることで、日本が変わる可能性もある」と言う香取さん。続きは『パラスポーツマガジンvol.7』をご覧ください。 これまで約20競技のパラスポーツを体験したという香取さん。身をもって知ることで、パラスポーツへの理解が深まっていったと言う 香取慎吾(かとり・しんご) 1987年にジャニーズ事務所に入り、翌88年にSMAPを結成。96年に日本テレビ系「透明人間」で連ドラ初主演を果たす。その後はドラマや映画、CMなど多数出演。また2000年には慎吾ママとして「慎吾ママのおはロック」を発売。「おっはー」が同年の流行語大賞にもなった。2016年12月にSMAP解散後、2017年から「新しい地図」の活動をスタートし、初の個展を開くなどアーティストとしても活躍。パラスポーツの普及のためにも奮闘している。1977年1月31日生まれ、43歳。神奈川県出身。   取材・文/横森文 写真/高橋淳司 スタイリスト/黒澤彰乃 ヘアメイク/石崎達也          


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