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  パラアスリートの軌跡⑯ ドリーム対談1/2 菊谷崇×池崎大輔

パラアスリートの軌跡⑯ ドリーム対談1/2 菊谷崇×池崎大輔

パラアスリートの軌跡 第16回目を迎える今回は…ラグビー 菊谷崇選手とウィルチェアラグビー 池崎大輔選手のインタビューを二回にわたってプレイバック!(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 日本代表の中心選手として活躍してきた二人だからこそ知っている、ナショナルチームでプレーすることの歓びと重責。そして東京パラリンピックで金メダル獲得の期待。コンタクトスポーツの魅力を語っていただいています! ―ラグビーと名の付くスポーツで日本代表チームを牽引してきたお二人に、今日はラグビーの魅力を語っていただこうと思います。よろしくお願いします。 菊谷 社会人ラグビーを始めて16シーズン目です。日本代表でも長くプレーさせてもらったなかで、将来はラグビー指導者を目指したいと考えるようになりました。そのためにはコーチングの勉強をしなければなりません。けれども社員選手はオフシーズンになると会社の仕事をします。それではコーチングの勉強時間が充分にとれないから、3年前にプロ契約のできるキヤノンに移籍しました。また3年前からユース世代の日本代表チームでコーチをしています。 ―アスリートとしての高いレベルでプレーしたいという思いからプロ契約する選手が多いなか、菊谷さんは選手のセカンドキャリアを考えてプロ選手になったのですね。 菊谷 そうです。本来、プロ選手になったり、チームを移籍するのはキャリアの早い段階にするものです。ところが僕はベテランになってから移籍したので、新しいチームで4年間はがんばろうと決めていました。そしてプロ生活を始めて4年が経った今シーズン限りで引退しようと決断しました。プロ選手なので、春先に会社と契約します。そのとき、「ラストイヤーでお願いします」と伝えました。たまたま先日の試合で150キャップを達成できました。いいタイミングなので、そこで皆さんに引退を発表させていただきました。 ―池崎さんはウィルチェアーラグビー日本代表のエース選手として、リオパラリンピック銅メダルに輝きました。東京パラリンピックでの活躍が期待されている注目の競技ですが、その魅力とはなんでしょうか。 池崎 ウィルチェアーラグビーでは頸椎損傷であったり、僕のように難病で手足に障がいのある人がプレーしています。重度障がい者にスポーツをする機会を与えようと、今から40年前、カナダで誕生した競技です。車椅子がぶつかり合うタックルの激しさから、マーダーボール、日本語では殺人競技と呼ばれることもありました。首を骨折して障がい者になった人たちが、ここまで激しい競技をしているのかと驚かれるし、呆れて笑われてしまうほどです。けれども車椅子がぶつかる音と激しさこそがウィルチェアーラグビーの魅力です。 私は三菱商事の社員ですが、北海道ビッグディッパーズの選手として北海道を拠点に活動しています。また今年からアリゾナ州ツーソンのワイルドキャッツというチームでもプレーしています。武者修行ですね。 * ―目標は3年後の東京パラリンピックですね。 池崎 金メダルを取りたい。しかも自分の現役時代に自国開催という大きなチャンスに恵まれました。なんとしてでも今回は結果にこだわっていきたい。そのために、これからの3年間は有効に使っていきたいと思います。 ―次は金メダルとの期待はプレッシャーですか。 池崎 日本代表としての誇りは意識するし、代表ジャージの重みも感じます。みなさんの期待は、背負っているものの責任を果たす力となっています。これをプレッシャーに感じてしまうと、失敗することの怖さにつながってしまうから、ポジティブにとらえています。 ―菊谷さんは2011年のワールドカップでは日本代表の主将としてプレーしました。プレッシャーはありましたか。 菊谷 プレッシャーを感じないように、あえてしていました。ファンのみなさんからの期待を楽しもうとイメージするようしていました。けれども当時のことを振り返ると、とても大変でした。 池崎 僕はキャプテンではなく、みんながエースと呼んでくれているだけです。キャプテンはチーム全員のことを見なければなりませんが、エースは自分の役割を果たすだけですから、辛いプレッシャーはありません。 リオでは自分だけでなく、支えてくれた人たち、リオまで応援しに来てくれた人たちと一緒に戦うことができたから、自分の持てる力以上のことを出せました。それが結果として銅メダルにつながりました。 菊谷 キャプテンにはならないのですか。 池崎 キャプテンになれと言われたことがないのでわかりませんが、今まで通りキャプテンを支えることはできます。先頭に立って「俺の背中を見てついてこい」という方が自分には合っています。もしも指名されることがあれば、そのときは全力でやると思うけれど、なかなか大変なポジションですね。 * ―ウィルチェアーラグビーは銅メダルを取ったことで注目度が高まりました。 池崎 リオ大会のメダルは一つのきっかけにすぎません。パラリンピック後は多くのメディアで取り上げてもらえるようになり、とても知名度も上がったけれど、パラスポーツのなかでウィルチェアーラグビーは知名度が低い方です。だから2020年に向けて多くの人に競技のことを伝えていくことは僕の使命だと思います。大会では観客のみなさんを盛り上げたいです。そういう思いはスポーツ選手であれば誰しもが持っていることです。 菊谷 2011年のワールドカップで、僕は結果を出すことができませんでした。期待されていただけ、失望感も大きくて、他の選手たちもそうですが、未だに試合の録画を見ることができません。負の歴史というイメージが、僕のなかにはあります。 けれども日本代表を退いた後の15年大会では、結果を残すことができました。ラグビーを世間にアピールするチャンスとなりました。 池崎 結果を出せたときはメディアが集まってくるけれども、出せなければ誰も取材に来ませんね。それはロンドンとリオ大会の経験でも感じました。 けれども、結果を出せなかった時代のことも含めて、ウィルチェアーラグビーの普及やチーム強化に取り組んできた人たちがいたからこそ、僕たちはメダルをとることができました。自分よりも前に日本代表としてプレーしていた人、そして競技を育ててきた人たちがいます。そういった人たちに感謝しています。その歴史を守りつつ、自分たちは次世代のラグビーを作ろうとしています。 ―菊谷さんはトップリーグで150キャップという大記録を達成しました。2011年の苦い経験があったからここまで現役を続けることができたのでしょうか。

菊谷は今季、トップリーグで150 キャップを達成した。史上4人目の偉業だ

菊谷 僕は11年が終わったとき引退しようと思っていました。ワールドカップで結果が出せずに燃え尽きてしまいました。あと1年だけ現役を続けたらラグビーはやめようと考えていました。日本代表は引退したつもりでオフをエンジョイしてとき、(次の代表監督に就任した)エディーさんからミーティングに呼ばれました。そこで「ベテラン選手としてもう一度、日本代表に力を貸してほしい」と言われました。「1ヵ月後にまた会おう。それまでにハードワークをして身体を作ってきてほしい。それを見せてもらってから正式に決めたい」と。 ―一旦は選手引退まで決めていたところから代表復帰するモチベーションをどのように高めたのですか。 菊谷 ナショナルチームの選手になれるということにモチベーションを感じたからハードワークができました。エディーさんは話の持って行き方が上手かったと思います。人を乗せてくれるというか、そういう意味では選手をとてもよく見てくれています。明確に僕のどういったポイントが欲しいから代表に呼びたいと言ってきました。人は期待されると頑張れます。ナショナルチームで必要な選手だと言ってもらえることは、名誉以外の何物でもありません。だから期待に応えるために時間は惜しみません。 次回へ続く
菊谷 崇/きくたに・たかし 御所工業高校から大阪体育大学。卒業後は実業団のトヨタ自動車で13シーズン、プレーした。2014年にキヤノンとプロ契約。現在までキヤノンイーグルスでプレーする。日本代表では、05年のスペイン戦で初キャップ、08年のアメリカ戦から主将。11年のワールドカップ・ニュージーランド大会でも主将。一旦は日本代表を退くが、エディー・ジョーンズ新監督から代表復帰を要請され、14年までプレーする。トップリーグでは9月に150キャップを達成。今季限りでの現役引退を表明。 池崎大輔/いけざき・だいすけ 岩見沢高等養護学校の出身。車いすバスケットボールから、30歳のときに転向。2008年にウィルチェアーラグビーと出会い、2009年から北海道ビッグディッパーズでプレーする。2010年に3.0クラスの日本代表に選出され、現在までチームのエースとして活躍。ロンドンパラリンピック(2012年)、リオパラリンピック(2016年)に出場。リオ大会では強豪カナダを下して銅メダル。手足の筋力が低下する難病。三菱商事社員。3人の子育てをしながら東京パラリンピックでの金メダルを目指す。
撮影/水谷たかひと、安藤啓一 構成・文/安藤啓一


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