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  パラアスリートの軌跡⑭ 車いすバスケットボールアシスタントコーチ 京谷和幸

パラアスリートの軌跡⑭ 車いすバスケットボールアシスタントコーチ 京谷和幸

パラアスリートの軌跡 第14回目を迎える今回は…車いすバスケットボール日本男子チームアシスタントコーチ 京谷和幸のインタビューをプレイバック!(2019年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 元Jリーガーの京谷さんは、交通事故で脊髄損傷を負い、車いすの生活を余儀なくされる。その後、車いすバスケットボールと出会い、どん底から這い上がり、4度のパラリンピックに出場。そのプロセスには、多くの人の応援があった。いまはその恩に報いるため、東京パラリンピックに出場する日本チームのアシスタントコーチを務める。目指すは金メダル。これまでと、2020年にかける熱い想いを語ってくれた。 Jリーガー生命を奪った結婚式間近の交通事故 僕の運命が一変したのは、忘れもしない1993年。その年、サッカーJリーグが開幕し、僕も現在のジェフユナイテッド市原・千葉に所属していました。 しかしケガをしたり、同じポジションにリトバルスキーというスター選手が入団したりして、出番が激減したのです。自分より巧い選手はいないと思ってきたので悔しかったし、焦りもありました。そんな不安を抱えながら運転していた11月28日、衝突事故を起こしました。実はその日、結婚式の衣装合わせをすることになっていたのです。 主治医から「車いす生活になる」と宣告されたのは事故から2カ月後。取り乱したりするのはカッコ悪いと思ったので、「はい、わかりました」としか答えなかったです。とにかくひとりになりたい。それだけでした。 〝現実を受け入れる〞なんて、極端な話、今もできていません。でも前を向いて歩けるようになったのは、妻のおかげですね。僕よりたくさん泣いて、こんな自分と事故後まもなく結婚してくれた。彼女が口にした言葉は今も胸に刻まれています。 「ひとりじゃできないことも2人なら乗り越えられる。これからは2人で頑張っていこうよ」 彼女はこんな自分と一緒に生きていこうと言ってくれた。とにかく彼女の想いに応えたいと思いました。自分中心に生きてきた僕にとって、生まれて初めて自分以外の人のために生きたいと思えた瞬間でした。 車いすバスケットボールへの道筋を開いてくれたのも妻です。市役所に障害者手帳の手続きに行ったら、窓口担当者が小瀧修さんだった。当時車いすバスケットのトップチーム「千葉ホークス」の中心選手で、いまは日本車いすバスケットボール連盟常務理事をされている方です。 元Jリーガーだし、絶対に僕がバスケをやるようになるという確信があったのでしょう。あとは小瀧さんの敷いたレールの上を歩いた印象ですね。 リハビリ仲間と初めて車いすバスケをやって、〝できるじゃん〞と思ったのは、小瀧さんに紹介されたリハビリ病院でのこと。プロチームの練習を初めて見たのも千葉ホークス。当初はレベルの高さに圧倒されて尻込みしていました。しかし国体のときに、偶然千葉県代表チームに帯同する機会があり、県代表として参加する千葉ホークスの選手たちのプレーを間近に見て、違う感情がこみ上げてきた。 「コレだな。車いすバスケットでもう一度花を咲かせよう」 口にして自分を追い込む京谷流「有言〝行動〞」 妻が競技用車いすを40万円ぐらいで買ってくれました。94年、千葉ホークスに入り練習を始めますが、スピード、ボールを持ったときのドリブル、パス、シュートの精度、車いすの操作の巧さ……、すべてにおいて天と地ほどの差を感じました。必死にくらいついて、ある程度上達はするのですが、その先にまた新たな壁が立ちはだかっている。正直、めげました。でも逃げなかったのは、自分を追い込んだからです。 地元北海道で結婚披露パーティを催したときのこと。 Jリーガーとして活躍するのを楽しみにしていたと言う友人が何人かいました。でも自分は違う人生を歩み始めている。なんか腹が立ってきて、こう挨拶しました。 「車いすバスケットでシドニーパラリンピックを目指すから、応援よろしくお願いします!」 とにかく勝負事が好きなので、言ってできなかったら負け。負けたくないから言ったことは絶対にやる。「有言〝行動〞」が京谷流です。それで僕のスイッチは完全にオンになりました。 車いすを操作するために、手はパンパンに腫れ上がるし、タイヤを素手で止めると、手の皮がたびたびめくれる。でも必死にボールを追いかけました。 Jリーガーの仲間からも刺激を受けました。ジュビロ磐田などで活躍した藤田俊哉の結婚式に行ったとき、はっきり言って寂しかったんです。出席しているのは日本代表のJリーガーばかり。サッカー選手のときには一緒に日の丸を背負って戦ったけれど、今は自分ひとり何もないなと思って、早く立ち去りたかった。でもふと考え直したんです。パラリンピックという舞台でプレーができたら、同じ日本代表だと。あのときですね、日の丸への自覚や責任がワッと甦ってきて、体の芯に「日の丸」がストンと落ちてきたのは。 練習への向き合い方もかわりました。すぐにうまくなるわけはないけれど、うまくいかないこともプラスに捉えられるようになりました。 もうひとつ、96年2月に授かった娘の存在も大きかったですね。この娘にとって誇りだと思えるパパでありたいという気持ちが芽生えました。 サッカーの練習法を車いすバスケに応用 チャンスは〝代役〞という形で巡ってきました。99年、日本選手権の準決勝、レギュラーの選手が突然大量の鼻血を出し、試合を続けられなくなったのです。そのとき偶然ベンチにいた僕に声がかかりました。 僕はレギュラー選手とは違うプレースタイルでディフェンスをしました。Jリーガー時代のオフェンス経験を生かして、相手がどう攻めようとしているかを予測して守ったのです。それが見事にハマりました。 その後もディフェンスの技に磨きをかけたところ、それが評価されて、シドニーパラリンピックの代表に選ばれたのです。実はそのときの日本チームのヘッドコーチが小瀧さん。運命のようなものを感じました。 でも結果は9位。何が足りなかったのかを僕なりに分析しました。気になったのは、負けたことを真剣に悔しがっていない態度です。試合後しばらくすると笑っていたのです。17歳から日の丸を背負った者からすると信じられない光景でした。 「日本代表の試合は、国対国の、ルールある〝戦争〞だ!」 サッカーの大先輩から教わった言葉を伝えました。 その一方で、選手がおかれた環境も変えたかった。遠征などに必要な交通費や宿泊費などは当時すべて選手負担でした。そこで僕はJリーグのように、スポンサーの名前をユニフォームにつけて、日常の活動資金として使えるようにしました。千葉ホークスが最初にそれを始めました。また、アスリート雇用のような形態で企業に就職したのも、僕が最初でした。 人間教育にもこだわりました。挨拶、言葉遣い、整理整頓。これができる選手こそ一流になれるし、現役引退後、セカンドキャリアを始める際にも必ず役立ちますから。 結果もついてきました。パラリンピックのアテネ大会で8位、北京大会で7位と、チームは着実に成長しました。 2012年のロンドン大会を最後に、僕は現役を引退しました。引退後やることはすでに決めていました。サッカーのコーチです。やっぱりサッカーを捨てきれなかったからです。大学のチームで活動を始めました。 しかし東京パラリンピックの開催が決まり事情が変わりました。車いすバスケットの日本チームにアシスタントコーチとして関わることになったのです。サッカーコーチとしても活動はしていますが、面白いのは、サッカーのトレーニング方法がバスケに応用できることですね。 日本のスピードは世界でも脅威と捉えられています。だから堅守速攻を基本に、金メダルを目指したい。厳しい道だけど、クリアすべき課題はわかっている。それができたとき、目標にたどり着けるはずです。
きょうや・かずゆき 1971年、北海道生まれ。室蘭大谷高校時代、サッカー選手としてバルセロナ五輪代表候補に選出。91年に当時のジェフユナイテッド市原とプロ契約。93年、交通事故に遭い脊髄損傷を負う。94年に千葉ホークスに入り、車いすバスケットボール選手となる。パラリンピックには、2000年のシドニー大会から4大会連続で出場。北京大会では、日本選手団の主将も務めた。現在、車いすバスケットボール日本男子チームのアシスタントコーチを務めながら、城西国際大学サッカー部で外部コーチをする。09年3月には、京谷さん自身の実話をもとに描いた映画『パラレル』が公開された。現在、ヘッドコーチに就任。
取材・文/西所正道 写真/高橋淳司


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