Home > Magazine >  パラアスリートの軌跡⑬ クロスカントリースキー 新田佳浩
  パラアスリートの軌跡⑬ クロスカントリースキー 新田佳浩

パラアスリートの軌跡⑬ クロスカントリースキー 新田佳浩

「パラアスリートの軌跡」連載第13回目は・・・クロスカントリースキー 新田佳浩選手のインタビューをプレイバック!(2018年4月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 平昌冬季パラリンピックの大会第6日。アルペンシア・バイアスロンセンターに新田佳浩が登場した。この日のレースはハイスピード勝負で1.5㎞を競うスプリント・クラシカルだ。得意の上り坂で集団のトップに立った。そのまま逃げ切る戦略だったが、ゴール前の直線で後続選手に並ばれ、0.8秒差の銀メダルとなった。 37歳という年齢。8年前のバンクーバー大会で金2個のメダルを獲得した時はまだ20代だった。メダル獲得のニュースに、世間は沸いたが、当の本人は悔しくてたまらなかった。得意の10㎞クラシカルでは、金メダルを取りたい。その思いを強くしていた。 ソチ大会の悔しさを晴らす クロスカントリースキーには、両スキーを平行にすべらせて走るクラシカルと、逆ハの字にしてスケーティングするフリーの2種目がある。そして新田佳浩はクラシカル走法で、長年にわたり活躍してきた。 パラリンピックの初出場は1998年の長野大会。平昌大会は6度目となるパラリンピックへの挑戦だった。バンクーバー大会では念願の金メダルを獲得。最高成績4位に終わったソチ大会の悔しさを晴らすべく、平昌に乗り込んできていた。 大会第9日、新田がもっとも得意とする10㎞クラシカル。選手たちは30秒間隔でスタートして、1周約3.5㎞のコースを3周する。新田はスタート直後、つまずくように転倒したものの、すぐに立ち上がりレースを再開。 「スプリントではないから、まだ10㎞ある。大丈夫だ」と冷静だった。 新田は前年のプレ大会でも同じコースを走っている。その経験から、「後半に山場がくる。最後の1周が勝負だ」と戦略をたてていた。序盤から速いペースで走れていた。しかし他選手もハイペースだ。 「2周目までは身体が重かった。プレ大会とパラリンピックでは違う」 ライバルたちも必死に走っている。ラップタイムは、トップ選手とのタイム差が1周目で約5秒、2周目になると10秒以上離された。これまでも後半に離されて終わるレースが多かった。けれども今回、新田は焦ってはいなかった。 「1年間に700時間以上のトレーニングをしてきた。それに比べてレース時間はその1%に満たないのだから、走れる」 苦しいトレーニングが新田に自信を授けた この日は平昌大会の個人種目ラストレースだった。トレーニングしてきたことを出し切れないと後悔で終わることになる。新田は覚悟を決め走っていた。そう思えたのは、長い競技歴でも初めての感覚だった。それは厳しいトレーニングをやり遂げた者だけが手に入れることのできる自信だ。 そして最終周回、コースサイドにいたコーチが「2秒差でトップだ」と伝えると、新田はラストスパート。コンマ数秒でも早くゴールラインを通過するために、最後は左足を伸ばしてフィニッシュ。この瞬間、2大会ぶり3個目の金メダルを獲得した。 「綿密に練られた計画による金メダルだ」 30代後半の新田は、「若い選手たちのように、勢いだけでは金メダルをとれない」と過酷なトレーニングを続けてきた。 「肉体的な伸びしろは少ない。自分の技術や能力を磨くだけでは勝てない年齢だ」 一度は引退も考えたという新田を金メダルへと突き動かしたものとは、チームの支えだった。 「スキーをがんばりたいという自分の思いに、みんながついてきてくれる。多くの人たちに支えられているから競技を続けられた」 しかしそれは、感謝などという言葉では不十分なほど熱すぎる思いだった。 ソチ大会後、所属チームに長濱一年コーチが就任。オリンピックも経験している元選手で、長野オリンピック後は全日本スキー連盟のナショナルコーチを務めてきた人だ。 「コーチは、中途半端な気持ちではないと情熱的に話してくれた。この人はパラスポーツ選手をなんとしてでも勝たせようとしていることが分かった」 欲しいのは金メダルだけ

10kmクラシカルで金メダルを獲得。チームチャレンジが結実した瞬間だ

クロスカントリースキーでは、滑走面に塗るワックスの選択が大きく勝敗を左右する。これを担当するワックスコーチとして、全日本スキー連盟ナショナルチームで仕事をしてきた佐藤勇治コーチもチームに合流した。スプリントで銀メダルを獲った時、佐藤のところへ報告に行くと辛辣に励まされたという 「銀メダルはよかったけれど、ソチオリンピック複合で渡部君が獲っているから、僕のほしい色は違うんだよな」 金メダルを獲るために集まったチーム。それは「プレッシャーにしかなりませんでした」と新田は笑い話のように振り返るが、彼らの思いに対して、それ以上の情熱で応える4年間を過ごしてきた。 「僕を強くしたいという思いで集まってくれたことにプレッシャーは感じるけれど、この人たちの心意気や期待を裏切るようなすべりをしてはいけない」 新田は2児の父だが、コーチたちにも家族がいる。新田のために家を留守にして寂しい思いをさせているかもしれない。皆がたくさんの犠牲を払ってこのチームに参加しているのだから、どのような結果になろうとも、最後までしっかりと走りましたと言えるように終わりたかった。 「トレーニングで自分が負けそうになった時、チームの人たちや家族のことを思い出すと、『まだ自分はできる』と苦しさに耐えることができた。それが自信につながった」 クロスカントリースキーは苦しい種目だ。コースの1/3は下り坂だが、その他は平坦か上り坂。ワックスが効いているとはいえ、足にまとわりつく雪を振り払うようにして、しかも両腕はストックで漕ぐように全身運動で疾走する。向かい風のマラソンランナーのようなものだ。その苦しさに打ち勝つ精神力を、チームが授けてくれた。 レースでは苦しいスキーだが、「整備されていない野山を歩いたりすべることは楽しい。クロスカントリーをしたがっている長男と春の残雪をすべりに行こうと思っている」 金メダルのために年間200日以上もチームで行動していた。それを応援してくれた家族のために、しばらくは生活しようと話していた。
新田佳浩/にった・よしひろ 1980年6月8日、岡山県生まれ。3歳の時事故による左肘下切断。中学生の全国大会に出場しているところスカウトされてパラスポーツ選手になる。バンクバーパラ大会で2冠。日立ソリューションズ所属
文/安藤啓一 写真/石橋謙太郎(スタジオM)


pr block

page top