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  パラアスリートの軌跡④ ウィルチェアーラグビー 島川慎一

パラアスリートの軌跡④ ウィルチェアーラグビー 島川慎一

「パラアスリートの軌跡」連載第四回目は、ウィルチェアーラグビー 島川慎一選手のインタビューをプレイバック!(2018年10月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 2018年8月5日~10日にオーストラリアで開催されたウィルチェアーラグビーの世界選手権で、日本はホームのオーストラリアを下し初めて優勝した。リオの銅メダルから2年。躍進の要因は何か。ただ1人、4大会連続出場する島川慎一に聞いた。  ウィルチェアーラグビーがパラリンピックの正式種目になったのは、2000年のシドニー大会から。日本は、04年のアテネ大会に初出場し、リオまで4大会連続出場している。アテネで7位、北京で8位。ロンドンで4位に順位をあげ、リオで悲願の銅メダルを獲得した。 リオから2年。オーストラリア・シドニーで開催された世界選手権で、日本は、パラリンピック2連覇のオーストラリアを62対61で下し初優勝した。 今年43歳の島川慎一は、アテネ大会で最多得点を挙げた選手である。以来、常に日本チームを牽引してきた。

今大会では女子選手の倉橋香衣も決勝で活躍。選手層が厚くなったことも日本チームの初優勝に結びついた

「優勝できた最大のポイントは、準決勝のアメリカ戦でした」 世界選手権では12カ国が2リーグに分かれて予選を戦い、上位2チームが準決勝に進出する。日本は予選でオーストラリアに65対52で敗れていた。 「オーストラリアに負けた後、ケビン(・オアー)監督は、僕らにその試合のビデオを見せませんでした。ケビンが監督になって2年、一度もそういうことはなかった」 準決勝のアメリカ戦。先発ではなかった島川が交代でコートに入ると、主将の池透暢が島川に「10点くらい、引き離してやりますよ!」と、ギラギラ光る目で耳打ちしたという。 「全員が、池と同じ士気でした」日本は51対46でアメリカを下し、決勝進出を決めた。 「僕が初めて日本代表としてアメリカと対戦したのが2002年。他の国との対戦でも、アメリカが一方的に負けた試合を見たのはあれが初めてでした」

日本代表の背番号は13。13番目の選手も一緒に戦うという意味 がこの数字に込められている

上肢・下肢ともに障がいがある選手が出場するウィルチェアーラグビーは、コートに入る4人の持ち点(クラス分け)の合計が8点以内でなければならないルールがある。日本は、ともに3・0点の島川、池、池崎大輔のうち2人が交代でコートに入り、守備を担う1点選手2人、あるいは1・5点と0・5点の選手が入るというような布陣でゲームに臨む。 オーストラリアの武器は、3.5点のエース、ライリー・バットの存在だ。世界的スター選手1人が予選でも決勝トーナメントでも、敵対する選手を蹴散らしてゴールする。日本はハイポインター3人が交代でスピードある攻撃を仕掛けていく。 最終ピリオドで逆転される場面もあったが、池崎のスティールで62対61とした。しかし、残り6秒で反対にオーストラリアにボールを奪われた。 「6秒あれば同点、下手すれば逆転さえ起こりうる。でも、そこでオーストラリアに得点を許さなかった。その粘りが最後に勝利を引き寄せたんです」 かつて日本は、ないないづくしだった。資金もない、練習時間もない。東京パラリンピック開催が決まり、リオで銅メダルを獲得し、現在は日本代表選手のほとんどがアスリート雇用。平日でもほぼ毎日、練習に専念できるようになった。 「隔世の感がありますよね」 島川は、アテネパラリンピック後の05年からアメリカの〈フェニックス・ヒート〉というチームで3シーズン、北京後、昨年と5シーズンプレーし、全米選手権の大会最優秀選手賞に輝いた経験を持つ。リオ以降、日本の監督となったオアー監督とも旧知の仲だ。 「とにかく走らされる。コートに出ている間は全力疾走です。ケビンは、どんどん選手を 代していく。交代が早いから、12人全員がコートに入った瞬間から全力を出せるわけです」 コートを3分割し、他の選手と直線的に重ならないように動き続けることも要求される。 「ボールがどんどん動くし、相手選手もばらけていく。これぞ、まさにケビン流です」 東京パラリンピックに出場すれば、5大会連続出場となる。 「いや、僕としては次のパリくらいまでは第一線でプレーするつもりです」 もはや、島川にとってウィルチェアーラグビーは「人生、そのもの」。次なる目標は、もちろんパラリンピックタイトルだ。 「リオの悔しさを、東京で晴らします!」
島川慎一/しまかわ・しんいち 1975年、熊本県生まれ。BLITZ、バークレイズ証券所属。21歳の時に交通事故により頸髄を損傷し車いす生活となる。1999年よりウィルチェアーラグビーをはじめ日本選手権に初出場。2001年より日本代表選手に選出される。2004年アテネパラリンピックに初出場し、最多得点賞受賞。2010年の世界選手権、16年リオパラリンピックで銅メダル。       取材・文/宮崎恵理 写真/依田裕章 協力/パラアリーナ


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