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  パラアスリートの軌跡③ パラアイスホッケー 堀江航

パラアスリートの軌跡③ パラアイスホッケー 堀江航

「パラアスリートの軌跡」連載第三回目となる今回は、パラアイスホッケー 堀江航選手のインタビューをプレイバック!(2017年11月発売号掲載。※現在とは異なる内容などありますがご了承ください) 大学3年で足を切断した後は、車いすバスケでアメリカ留学。卒業後にヨーロッパに渡り名門クラブでプレー。そんな国際派が帰国後、一転パラアイスホッケーを始めた。堀江航はクロススポーツの素晴らしさを体現しながら、初めてのパラリンピックに挑む。  2017年10月。スウェーデンでパラアイスホッケーの平昌パラリンピック最終予選が行なわれた。日本は5カ国中2位の成績で出場権を獲得。その日本チームでディフェンダーとしてプレーしたのが、堀江航である。 「正直、スウェーデンに行く前は4対6くらいの割合で、日本には分が悪いと思っていました。でも、初戦のドイツ戦で勝って、ぐっと平昌に近づいたな、と」 ドイツ戦で堀江は1得点2アシストで勝利に貢献。大会を通して2得点5アシストの活躍を見せ、大会のベストディフェンダー賞を受賞した。 堀江は、小中高とサッカー少年として活躍した。U 12、U 15に出場、高円宮杯全国大会で優勝。 都立駒場高では全国高校サッカー選手権にも出場を果たした。 その後日本体育大学に進学。3年時にバイク事故で左足のヒザから下を切断した。入院中から車いすバスケットボールを始めたいと、チームを紹介してもらったという。 「実際には、大学の授業で障がい者スポーツを学ぶ機会もありましたし漫画『リアル』も読んでいたから、車いすバスケの存在はすでに知っていた。だから、すぐにでも始めようと思っていました」 東京にあるクラブチームでスタートした後、現在日本代表監督を務める及川晋平に出会い、アメリカのイリノイ大学に車いすバスケ留学を果たす。大学院を卒業するとスペイン、ドイツのリーグで約5年間プレーした。2011/ 12シーズンには、ドイツの名門クラブ〈RSVLahn-Dill〉でドイツカップ、ブンデスリーガ、ヨーロッパチャンピオンズカップの3冠を達成し、凱旋帰国する。 「イリノイ大では、バスケのオフシーズンに陸上競技や車いすソフトボール、シッティングバレー、ウェイクボードなどさまざまなパラスポーツに取り組みました。バスケも大好きだけど、他のスポーツも同じくらい面白い。さらに、違うスポーツに取り組むことで新たな視点で身体の使い方を覚えるし、メリハリがあるので、それぞれのスポーツに集中できる。クロススポーツのよさを、目一杯体感できたのが最大の収穫でした」

白帯だが無差別級で優勝経験がある

2012年に帰国すると、車いすソフトボール協会を立ち上げ、仲間を集めた。また、一般のブラジリアン柔術にも取り組み、義足を外して全身をフル稼働させている。 そうして、日本でのクロススポーツのひとつとして、パラアイスホッケーに出会ったのだった。「パラリンピックを目指さないか」という誘い文句が決め手になった。 「世界でいろんなスポーツを見てきたけれど、パラアイスホッケーは障がい者スポーツのなかでも競技レベルが高い。クラス分けなどもないので、観戦するにも高度な知識は不要です。アイスホッケーと同様に、選手も観客もゲームに夢中になれる。そこが魅力でした」 始めてすぐに強化指定選手に選出される。しかし、競技経験はゼロ。短期間での上達を求めて、再度渡米する。イリノイ大学時代のチームメイトがいるシカゴのチームで武者修行した。2013年にソチパラリンピック最終予選に出場。 2010年のバンクーバーパラリンピック準決勝でホームのカナダを下し銀メダルを獲得した日本だが、この大会でソチへの出場権を逃した。 その後、2015年の世界選手権にも出場するが、日本はカナダに0対 17という大敗を喫して、Bプールに降格。日本のパラアイスホッケー暗黒の時代に、堀江は放り込まれていたのだった。 堀江自身は、この頃から左肩に痛みを感じるようになり、選手としてプレーを継続させるために15年12月に内視鏡手術を受けている。 「1年間はまともにスポーツができる状態ではありませんでした」 ひたすら地道なリハビリを続けた。16年に北海道・苫小牧で行なわれたBプール世界選手権に出場する時には、直前合宿でやっと氷に乗れたという。 「だから、正直、パラアイスホッケーでは、今でも主戦力という意識はありません。でも、傭兵として力を尽くすことはできる」 世界を舞台に暴れまわっていた車いすバスケでは、日本代表としてパラリンピック出場という機会には恵まれなかった。“傭兵”というポジションで、初めて冬季パラリンピックに挑戦することになる。 「パラリンピック出場は長年思い描いてきたひとつの目標です。実際にその舞台に立ったら、どんな感動があるのか。そこは楽しみです」 一方で、堀江にはいくつもの目標がある。 「たとえば車いすバスケで健常者プレーヤーも4.5ポイントの選手として出場できるようにして日本のリーグを作る。ヨーロッパではそれがすでに実現しています。実際、健常者で車いすバスケを楽しんでいる人は多い。健常者が加わることで競技人口は一気に増えます。必然的に競技レベルも上がる」 協会設立理事でもあった車いすソフトボールでは健常者や障がい児などどんな人も参加できる仕組みを作っている。日本人にとって野球は国民的スポーツ。だからソフトボールへの親和性は高いのだ。

アメリカチームを招いた大会も開催。

「パラリンピックの種目にするという働きかけもしていきたいですが、さまざまな人が一緒に楽しめる環境を継続させることはすごく重要だと考えています」 さらに、その土台を作るのは、子どもの体験機会だと強調する。「それこそが、一番やりたいこと。東京パラリンピックが決まって機会は増えているけれども、まだまだ日本には障がいをもった子どもがスポーツする環境が圧倒的に少ないんです」  

子どもたちへのソフトボール普及も熱心な堀江Photo:H.Nojima

堀江は街を歩いていても、現役選手としてスポーツの現場にいる時にも、子どもの姿を見つけるとすかさず近寄っていく。 「こんなスポーツをやってみないって、子どもをナンパするのがライフワーク(笑)。変な人だと思われてるだろうけど」 現役の選手としてさまざまなスポーツに正面から取り組み、さらには健常者、障がい者の壁を超えたスポーツのチャンスと環境を創出する。堀江航の描く未来は、とてつもなく大きい。
堀江 航/ほりえ・わたる  1975年5月25日、東京都生まれ。幼少時からサッカーに親しみ、ユース(U-15)選手権で優勝、全国高校サッカー出場。大学3年の時交通事故で左膝下を切断。車いすバスケでアメリカ・イリノイ大からにヨーロッパを拠点に活躍した。2012年よりパラアイスホッケーを始め、13年にソチパラリンピック最終予選、15年世界選手権に出場。         撮影/大下桃子、荒木美晴 取材・文/宮崎恵理


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