Jリーガーから車いすバスケ選手へ!【京谷和幸】(2/2)

もうひとつ、96年2月に授かった娘の存在も大きかったですね。この娘にとって誇りだと思えるパパでありたいという気持ちが芽生えました。

チャンスは〝代役〞という形で巡ってきました。99年、日本選手権の準決勝、レギュラーの選手が突然大量の鼻血を出し、試合を続けられなくなったのです。そのとき偶然ベンチにいた僕に声がかかりました。

僕はレギュラー選手とは違うプレースタイルでディフェンスをしました。Jリーガー時代のオフェンス経験を生かして、相手がどう攻めようとしているかを予測して守ったのです。それが見事にハマりました。

その後もディフェンスの技に磨きをかけたところ、それが評価されて、シドニーパラリンピックの代表に選ばれたのです。実はそのときの日本チームのヘッドコーチが小瀧さん。運命のようなものを感じました。

でも結果は9位。何が足りなかったのかを僕なりに分析しました。気になったのは、負けたことを真剣に悔しがっていない態度です。試合後しばらくすると笑っていたのです。17歳から日の丸を背負った者からすると信じられない光景でした。

「日本代表の試合は、国対国の、ルールある〝戦争〞だ!」

サッカーの大先輩から教わった言葉を伝えました。

その一方で、選手がおかれた環境も変えたかった。遠征などに必要な交通費や宿泊費などは当時すべて選手負担でした。そこで僕はJリーグのように、スポンサーの名前をユニフォームにつけて、日常の活動資金として使えるようにしました。千葉ホークスが最初にそれを始めました。また、アスリート雇用のような形態で企業に就職したのも、僕が最初でした。

人間教育にもこだわりました。挨拶、言葉遣い、整理整頓。これができる選手こそ一流になれるし、現役引退後、セカンドキャリアを始める際にも必ず役立ちますから。

結果もついてきました。パラリンピックのアテネ大会で8位、北京大会で7位と、チームは着実に成長しました。

2012年のロンドン大会を最後に、僕は現役を引退しました。引退後やることはすでに決めていました。サッカーのコーチです。やっぱりサッカーを捨てきれなかったからです。大学のチームで活動を始めました。

しかし東京パラリンピックの開催が決まり事情が変わりました。車いすバスケットの日本チームにアシスタントコーチとして関わることになったのです。サッカーコーチとしても活動はしていますが、面白いのは、サッカーのトレーニング方法がバスケに応用できることですね。

日本のスピードは世界でも脅威と捉えられています。だから堅守速攻を基本に、金メダルを目指したい。厳しい道だけど、クリアすべき課題はわかっている。それができたとき、目標にたどり着けるはずです。