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パラメダリストを支えるオリメダリスト。星奈津美さんが木村敬一選手と目指すもの

パラメダリストを支えるオリメダリスト。星奈津美さんが木村敬一選手と目指すもの

パリ2024パラリンピックの水泳代表に内定した木村敬一選手を支えるオリンピアンがいる。バタフライでオリンピック2大会連続銅メダルを獲得した星奈津美さんだ。昨年から木村選手のフォーム指導アドバイザーを務めている星さんに話を伺った。木村敬一選手からの思いがけないオファー――星さんは、オリンピックで2大会続けてメダルを獲得した2016年のリオデジャネイロ大会の後、現役引退しました。この時、引退後にやりたいことや計画などはあったのでしょうか。星奈津美(以下、星) 良くも悪くもというか、引退したら絶対やりたい明確なものはなくて、計画も特にあったわけではなかったんです。ですが、何でもチャレンジしようと思っていて、その中で何か見えてくるといいなっていう想いがありました。ありがたいことにイベントや公演に呼んでいただいたり、メディアに出る機会もたくさんいただき、基本的には全部お引き受けさせていただいてきました。――世の中を知るような時間だったのですかね。星 そうですね、はい。自分がやれることはというか、お声がけいただいたら全部やってみようっていう感じで。――今は幅広く活躍されていますが、もともと選手を指導することは考えていたのですか?星 いや、それについては本当にまったくゼロで。水泳教室のゲスト講師などはオファーをいただきましたが、そういう場は本当に一度きり、参加してくださったお子さんとかマスターズの大人の方とかを相手に、教えると言ってもその日限りのことなので。ある程度長いスパンで選手の成長を見ていくのが指導というかコーチングだとしたら、そうしたオファーはまったくいただかなかったんです。そういうことには多分自分には一番縁がないのかなと思っていました。2016年に引退してから3、4年はこんな感じでやっていました。――そんなところに木村選手からオファーが。星 ちょうど1年前くらいに連絡をもらいました。――もともとお知り合いだったと聞きました。星 はい。同い年で、ロンドンがお互い最初にメダルを獲った大会という共通点もありました。オリとパラって選手の交流はあまりないんですけど、たまたま一緒に出るトークショーのイベントがあって、その時に一緒に写真を撮ったり、連絡先を交換したりしたんです。2012年ぐらいだったと思います。――木村選手から「教えてほしい」と言われた時はどんな気持ちでしたか?星 最初はちょっと相談があるみたいな感じでした。その時、木村選手にはコーチがいなくて探していたそうなんですけど、まさか自分だとは思わなくて、誰かコーチを紹介してくれないかっていうことだと思って話を聞いていたんですよ。私が教わっていたスイミングスクールのコーチとかいいんじゃない? とか話をしたんですが、私に見てもらいたいんだよねって言われて。――ご指名だったわけですね。星 意外でした。結構びっくりして。そもそも私はコーチをやってきている人間ではなかったですし、引退後にコーチになられる方はほかにたくさんいらっしゃるのに、なぜ私? と思いましたね。それにパラの選手を私がコーチできるのかっていうこともありました。――あまり現実的ではなかった。星 はい。でも、本格的にトレーニングメニューを作って毎日練習を見るというわけではなく、最初は月に1、2回泳ぎを見てほしいという話で。バタフライの泳ぎを変えたいのでフォーム改善のアドバイスだけしてもらえればと言うので、それならできるかなと思いましたが、決してふたつ返事ではなかったです。――自分でも大丈夫かな? と。星 そうですね。でも試しに泳ぎの水中映像があれば送ってほしいとリクエストしました。それを見て、どこがどうできるかなと考えたうえで決めた感じです。星さんは月に1~2回のペースで木村選手のバタフライのフォーム改善についてアドバイスをしている改善点があるだけに、まだまだ伸びしろがある――指導を始めて、木村選手の泳ぎには直すところはたくさんありましたか?星 気になるところは結構ありましたが、それだけに伸びしろもたくさん感じました。でもそれ以上に、この泳ぎを目が見えない状態で習得したのかと思うと、やっぱりすごいなと驚きましたね。しっかり泳げているし、タイムも出ている。見よう見まねってことをしていないのにすごいなと。――木村選手の泳ぎはパワフルで粗削りな印象で、それが木村選手らしさだと思いますが、星さんから見てどうだったのでしょうか。星 私の印象も本当に同じで、100メートルを最初から最後までもうパワーで引っ張っていってるというか、すごくパワフルな泳ぎだなって感じました。だから、同時に硬さもあるかな、という印象でしたね。――アドバイスはどのようなことから始めたのでしょうか。星 まず、硬さというか、力の強弱、緩急みたいなものについてです。力の入れどころと抜きどころ、みたいな。私自身の泳ぎでも、ここは力を入れて、ここは抜いてって意識してやっているわけではないんですけど、泳ぎを覚えていく中で自然にできるようになっていくその部分が、木村選手の場合気になりました。――子供の頃からやってると自然に身につく部分ですかね。星 はい。それで、どこで力入れてるのかなと改めて考えてみて、自分でも泳いで確認したりしました。木村選手の場合は力を入れたら入れっぱなしだし、抜いてもらうとそのまま抜けちゃうし、極端に言うと0か100かみたいなところがあったんです。まずはそれを陸上で練習しました。――どちらかというと力の抜き方ですか?星 そうですかね。でも、力を入れるべきところが入っていなかったりっていう部分もあったんですよ。一番は体幹。腹筋の入れ方がちょっと違ってるのかなと。腹筋をまったく使っていないわけではないんですけど、正しく力を入れられていないところがあって。専門用語でドローインっていう表現があるんですが、腹圧を入れる時ちょっと下っ腹の方をへこますようにするんです。この動きは水中でいきなりできないのでまずは陸上で練習して、お腹の動きができるようになったら、次に手を動かしながらそれをやって。それから水中でやるという順番で練習します。木村選手は力の入れ方がちょっと 違っていたというか、彼の感覚と違っていたみたいで、それによってお腹がちょっと突き出て、背中が反るみたいな姿勢になっていました。――泳いでる時ですか?星 泳いでる時の姿勢もそうですし、普段立ってる時もそんな感じの時が多いんですよ。水泳では、胸は張らなきゃいけないけど腰は反っちゃいけないみたいな矛盾するような動きが必要です。胸を張ろうとすると普通腰は反るんですけど、そこでちゃんと体幹が入っていれば腰を反らずに胸を張れるんです。その動きを結構イチからやりました。木村選手もまったくやっていなかったわけではなかったみたいでしたが、それがきちんとできていなかったために水中での姿勢がうまくいかない感じでした。壁を蹴った後、まっすぐではなくちょっと反った感じのままドルフィンキックを蹴っていて、それだけでも結構抵抗になったりしますし、腹筋が使えていない蹴り方だったのでそこから直していった感じです。――体幹、強そうですけどね。星 そうなんですよ。筋肉はあるし、しっかりしているんです。でもやっぱり使い方なんですね。――そこから始めて約1年、どのように変わってきましたか?星 姿勢の部分は結構すぐにできましたね。そこから次は手のかき方とかキックを打つタイミングとかをやりました。かき方については、木村選手は手が水に入った後、真下に押しているような感じだったんですよ。その時に肘も下げてしまっていて。前に進むためには後ろにかかないと体が前に行かないんですが、下にかいてしまうことで上体が立ち上がるような、上半身が水面の上に出てしまう泳ぎになっていました。手をちょっと外に開いてそこから内側にかき込んできて、それから後ろに押していくっていうストロークが理想なんですけど、それをやってもらったら、上半身の上がり方が少し抑えられてきたっていうところがひとつ。あとはキックを打つタイミングで、バタフライって最初手が水に入る瞬間に打つ1回目のファーストキックと、そこから手をかいてきて、かき切る時に入る2回目のセカンドキックっていうふたつのキックがあるんですけど、木村選手はどちらのキックもタイミングが早かったんですよね。それも体が起き上がってしまう原因でした。――今日、木村選手の泳ぎを拝見したんですけど、以前より動きがだいぶスムーズになった感じがしました。星 硬さがあった部分に少しずつ滑らかさが出てきているような感じは私もしています。――豪速球で押していたのが、コントロールも良くなったというか。星 そうですね、コントロールですよね。ずっと力が入っていることもなくなって、入れなくてもいいところが抜けてきたというか、少しずつできている気がします。この日は腕で水をかききってから空中で前に戻す部分の動きを重点的に練習した。右はコーチの古賀大樹さんパリ大会で結果よりも重視すること――さて、パリパラリンピックが間近に迫ってきましたが、そこへ向けてのプランなどはあるのでしょうか。星 木村選手からこのお話をもらった時、私が躊躇しながらも何かお手伝いができたるかなって思えたのは、彼が東京で金メダルを獲ったことで、自分の目標をひとつクリアできたっていうところがありました。だから、次は新しいことにチャレンジしたいっていうことで、フォームを変えることに踏み切ったと。――なるほど。星 金メダルを獲った選手のフォームを変えるなんて、すごく責任がありますし、ものすごくプレッシャーでした。もし速くならなかったらどうしようって。でも、別にそれはそれでいいと。まずはフォームの改善がどこまでできるかが大切で、金メダルをまた獲ることより、そっちにチャレンジしたいと言われたので。視覚障がい者の自分が可能性を示したいということも言っていて、それに携われるならという気持ちで私もお手伝いをしています。なので、パリでどれくらい期待できますかって聞かれたら、正直現状、記録はそこまで期待できないと思うんですよ。泳ぎを変えることは、やっぱり健常の選手でも相当難しいですし。泳ぎ自体はだいぶ良くなってきていますが、あと半年くらいでどこまで改善できるのか、高い泳速でどのくらいできるのかはわかりません。まずは泳ぎを変えたいっていう本来の彼の目的を、本番までに確立することが最優先かなと思っていますし、彼も同じことを言っているので。高い泳速で100パーセントできるようになったら、自ずとタイムも速くなってくると絶対に言えますが、今はタイムより泳ぎをしっかり定着させることに尽きるかなと思っています。オリンピアンとパラリンピアンの新たな関係――コーチする相手が視覚障がい者ということについてはどうですか?星 特別意識をしているつもりはないんですけど、一緒に過ごす時間が増えてわかったのは、木村選手はこちらに気を使わせないようにするんですよね。自分が気を使わなきゃいけないって思っていたんですけど。ちょっとしたことですごく失礼なことしちゃったなと思うことも多いですが、木村選手が私に気にさせないようにしてくれているのかもしれなくて、ありがたいなって思うことはすごく多いです。それもあって、遠慮しすぎたりとか、気を使いすぎたりするのはそんなにしなくてもいいのかなっていうのは感じています。――そうなんですね。星 タッピング(※ターン時などに選手をスティックで叩いて壁までの距離を知らせる)も、最初は練習でもすごく緊張して、今でもちょっとタイミング早かったかなとか、近かったかな、遠すぎたかなとかすごく思うんですけど、木村選手は、全然気にしてないよ、わかればいいよみたいな感じで言ってくれるので、そういうところもすごく助かっていますね。――タッピングは見ていても難しそうです。星 本当に。最初は私がやるとは思っていなくて。慣れている人がやらないと危ないじゃないですか。でも、基本的に一人の選手に対してタッパーは両サイドに一人ずつ、二人必要で、最初は連盟のスタッフの方が手伝ってくれていて私はやっていなかったんですけど、見ていると私も入ったほうがいいのかなと思って聞いてみたら、ぜひそうしてもらえると助かると言われて。最初はゆっくりのスピードの時にやるようになって、今では試合でもやっています。――バタフライ以外の種目も?星 はい。でも、バタフライが一番怖いんですよ。両手を回すのでタッピングを失敗してしまうと選手が顔面から壁にぶつかってしまう危険性があるので。タッピングは特にバタフライでは神経を使うという星さん――木村選手とのコミュニケーションについてはどうですか?星 うまく言葉にできなかったかなとか、伝えられなかったかなっていうのは日々ありますね。最初は一緒にプールに入って、手を持ってこの動きがこうでとか実際に体に触れてやることも必要でしたが、泳ぎを教えるうえでも何かを伝えるうえでも、基本的に全部言語化する必要があるので、そこに関しては本当にいまだにうまくできていないです。――難しいですよね。星 自分でやってそれを見せることができないので、全部言葉にしないと。肘を下げないでとか、手のひらが先行でとか言っても、100パーセント伝わっているかはすごく不安です。でもそれは、私の勉強というか学びでもあるので。今はオリンピックに出ている男子選手の泳ぎに近づけるのは無理ではなくて、本当シンプルにやろうと思えばできるかもしれないと思ってやっています。――オリンピアンがパラリンピアンに指導するケースは今までないと思いますが、ご自身はどう思っていますか?星 最初はあまり意識していなかったんですけど、メディアの方とかに言われる機会が多くて、今までない、と言われると、確かになって思います。でも、それだから始めたことではないですし、木村選手とこういう関係になったことによって、普段練習してるNTC(※ナショナルトレーニングセンター)ではオリの選手も一緒になるので、みんな声をかけてくれたりするんですよね。木村選手も話しかけてもらうとすごく喜んでいますし、オリとパラの関係性みたいなものが、ちょっと変わっていくきっかけになったらいいなと思ったりします。――そういう繋がりは、これから増えていってほしいと思います。星 はい。たとえば、健常選手と障がい選手が同時に大会をやるのは、ハードルが高くて難しいことだとはわかるんですけど、一緒にできるところはあると思いますし、私も今のような関わり方をするようになってすごく感じるので、ぜひそういう機会が作れて、増えていってほしいと思います。――一緒にやることでわかることってありますものね。星 そうなんですよね、本当に。そんな大きいことは言えないですけど、何かきっかけになればいいなと思います。――ぜひがんばってください。星 はい。まずは木村選手と一緒にがんばります。――期待しています。本日はありがとうございました。星 奈津美(ほし・なつみ)/1990年、埼玉県生まれ。1歳半で水泳を始め、バタフライ選手として活躍。高校時代は1、2年時にインターハイ優勝、3年時は日本選手権で高校新記録を出し北京オリンピック日本代表に選ばれた。16歳で患ったバセドウ病と闘いながらもオリンピックに3大会連続出場し、2012年ロンドン、2016年リオでは200mバタフライで2大会連続の銅メダルを獲得。世界水泳では2015年に日本人女子選手として初の金メダルに輝いた。2016年に現役引退後は水泳教室、企業や学校での講演活動やバセドウ病への理解促進など多方面で活動。2023年から木村敬一のフォーム指導アドバイザーを務める。木村敬一(きむら・けいいち)/1990年、滋賀県生まれ。増殖性硝子体網膜症により2歳で視力を失う。小学4年で水泳を始め、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚支援学校)に進学し、水泳部に所属。2008年、高校3年で北京パラリンピックに初出場、12年ロンドン大会では100m平泳で銀、100mバタフライで銅メダル。16年リオ大会では、50m自由形、100mバタフライで銀、100m平泳、100m自由形で銅メダルを獲得。東京大会では、100mバタフライで金、100m平泳で銀メダルを獲得した。著書に『闇を泳ぐ』(ミライカナイ)がある。取材・文・写真/編集部 協力/東京ガス株式会社、株式会社RIGHTS.、ルネサンス赤羽

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神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会 日本代表選手決定
「ネクストパラアスリートスカラーシップ~ NPAS ~ supported by 三菱商事DREAM AS ONE.」2024年度奨学金授与式
東京マラソン「能登半島地震被害への支援」チャリティオークション
パリ2024パラリンピック 日本代表選手団 団長・副団長決定
ゴールボール体験教室 参加者募集
【日本パラスポーツ協会】任期付き職員募集について

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自分の水泳を追求する。パリ2024パラリンピックに挑む木村敬一(水泳)

自分の水泳を追求する。パリ2024パラリンピックに挑む木村敬一(水泳)

3月9、10日行われたパラ水泳春季チャレンジレースでパリ2024パラリンピック日本代表推薦選手に選ばれ、代表に内定した木村敬一。東京2020大会で悲願の金メダルを獲得後、昨年から五輪メダリストの星奈津美さんをバタフライのフォーム指導アドバイザーに迎えてさらなる進化を目指している。練習を訪ね、近況とパリ大会への想いなどを聞いた。パラ水泳春季チャレンジレースでの木村敬一のバタフライの泳ぎ。代表内定を獲得した東京で目標を達成。次に見つめるものとは――木村選手は、東京パラリンピックでご自身が「人生最大の目標」と位置付けていた金メダルを獲得しました。大会直後、金メダル獲得を上回る目標が見つからないとおっしゃっていましたが、パリ大会へ向け、どのように気持ちを切り替えていったのですか。木村敬一(以下、木村) 目標として、もしかしたら上回ってはいないかもしれないですけど、水泳を続けていく中で、まだやれていないことがいろいろあるなって思っていました。せっかくここまで水泳をしてきたので、やれることがある以上はやってみたいなっていう。――「やれること」とは具体的に何ですか。木村 泳ぎの技術的な進歩ですね。今までは本当にどうにか自分のできる限りの体力練習の中で、フィジカルを強くして、強くなっていこうってことをやっていましたけど。それ以外にも泳ぎの技術のところで変えられるところがまだまだあって、それが伸びしろだっていろいろな人から言ってもらえたので。自分でも、それはまだできていないところかなと。――パラリンピックのメダル云々ではなく、自分の水泳に対してということですかね。そんな中で、長年タッグを組んできた寺西真人さんと離れることになりました。木村選手とって大きな出来事だったのではないかなと思うんですけど。木村 でもまあ、なんていうか、歳ですからね(笑)。そこにそんなに大きな決断をしたつもりは僕にはなくて。大学生になった時やアメリカに拠点を移すことになった時も一緒に練習していたわけではなかったですし。たまたま東京パラリンピックの時は一緒に練習してましたけれども。コロナがなかったら東京の前に日本で練習することはなかったと思いますし。――なるほど。「寺西さんロス」のようなことはなかった。木村 そうですね。そこまで大きな出来事じゃなかったかなと思います。もちろん、子供の頃から見てもらっていた先生と、大会前に一緒に練習ができ、金メダルを獲る瞬間も一緒にいられたというのは、忘れられない思い出になりましたし、自分にとってはすごく良かったです。東京大会では100mバタフライ(S11)で金メダル。子供のころから指導を受け、この日はタッパーを務めた寺西真人さんと抱き合い嗚咽した五輪メダリストとタッグを組んで目指すパリでの泳ぎ――現在、五輪メダリストの星奈津美さんにバタフライのフォーム指導を受けていますが、どのような経緯だったのでしょうか。技術的な進歩を狙って、ということかと思うんですけど。木村 流れとしては、最初は深く関わってもらうという感じじゃなくて、たまたま星さんと食事した時に、まだ何か技術的にやれることがあるらしいんだっていうことを話したら、水中での泳ぎ見てみないとよくわからない、って言われたんです。じゃあ試しに見てもらおうというところから始まって、徐々に練習の回数を重ねていく中で、もうちょっとやれることがあるような気がすると言われました。いろいろ見るのであれば、普段の体力面の練習からどういうことやっているのか知っておきたいと言ってくれたので、それで今の形になっていった感じですね。――いつ頃から始めたんですか。木村 ちょうど1年前です。――実際指導を受けてみて、どんな変化を感じていますか?木村 指導というよりは、一緒に泳ぎっていうものを考えて、最適なものにしていく作業を手伝ってくれてる感じなんです。星さんは本当に速く泳いでいた人なので、何か感覚的なところで学べることがあればいいなと思いながらやっています。指導をしてもらってるというよりは、一緒に泳ぎを作っていく関係ですかね。――以前からお知り合いだったんですよね。木村 そうですね。たまたま年齢が同じで。何度かオリパラ合同のイベントなどでご一緒する機会がありました。――星さんと一緒に泳ぎを作っていく中で、これまでためになったり、取り入れたりしたポイントはありますか?木村 いろいろあるのでひとつ挙げるのはなかなか難しいんですけど、最初は本当に姿勢作りのところとか、腕の軌道のこと、手と足のタイミングのこととか。泳ぎにはいろいろな要素があるので、本当にさまざまですね。――今日は腕のタイミンを練習していたようですが。木村 腕の、特に水をかききってから空中で戻すところの作業を重点的に練習しました。手を空中で戻している瞬間っていうのは推進力にならないので、そこで余計な力を使わないように。この部分はないに越したことない時間なんで。だからできるだけ力を抜いて処理したい。それをするためには、どのタイミングで空中に上がれば余計な力を使わずに腕を前方へ戻せるか。その練習ですね。――実際、そうやって泳ぎを作っているのはバタフライだけなんですか?木村 星さんにはバタフライだけ見てもらっています。自由形の練習もしているんですけど、バタフライと共通するところはあるので、バタフライの練習の取り組みが自由形に生かせているというか、応用できることはたくさんありますね。ここ(※ルネサンス赤羽)のプールは結構あたたかくて底に足も着くので、本当にこうゆっくり泳ぐ練習に適していて、今日のようにしっかりとゆっくり喋りながら時間をかけて技術的な練習ができます。――これまで自己流というか、自分の感覚を頼りに泳ぎを作ってきた、と以前お聞きしたことがありますが、星さんの指導を受けて変わってきた感覚はありますか? 泳ぎを拝見していると、良い意味で粗削りだったフォームにスムーズな感じが加わってきたように見えましたが。木村 今日に関して言うと、そういうところはあるのかもしれないですけど、ただ、何か新しいことを習得するというよりは、余計なところを削っていってるような作業なのかもしれないです。――さて、木村選手にとっては5回目のパラリンピックとなるパリ大会が迫ってきました。目標を教えてください。木村 やっぱり出る限りは少しでも速く泳ぎたいし、ひとつでも高い順位でいい色のメダルを獲りたいと思います。ただそのためには、バタフライに関して言うと、どうしても大きな変化を出さないとそれができないんだろうなって一方で思うんです。今まで通りの泳ぎをしたところで、おそらく自己ベストを大幅に更新していくっていうのはちょっと難しそうだと思うし、最近のライバルの情勢とかを考えても、普通にやって勝てるわけじゃなさそうっていうのもあるので。バタフライではものすごい大きな変化というか、イノベーションに近いものが起きないとダメだと思っています。その大きな変化を出した泳ぎをしっかりとパリの舞台で発揮できるような準備をしていきたいなって思っています。――東京では自由形でもメダルを獲りましたが、パリではバタフライを一番重視していると。木村 はい、そうですね。――私たちも木村選手の泳ぎに注目し、活躍を期待しています! 木村 ありがとうございます。がんばります!東京大会で金メダルを獲得したときの泳ぎは粗削りながら力強さが印象的だった五輪メダリストの星奈津美さん(左)にバタフライのフォーム指導を受け、自分の泳ぎを追求している。右はコーチの古賀大樹さんパラとオリのギブ・アンド・テイクを目指して――一昨年、レガシーハーフマラソンを走りましたよね。木村 はい。マラソンは初めてだったので、すごくきつかったです!――見事に完走しました。木村 どうにか(笑)――マラソンを走ることでパラスポーツを広めていくという考えもあったのではないかと思いますが、そのあたりはいかがですか。木村 そうですね。東京でパラリンピックが行われたことで、たくさんの方がパラスポーツに関心を持ってくれるようになったとは思うんですけど、 やっぱり自国で開催するっていうのは最後の切り札というか、これ以上広げる方法はないと思うんです。だからここから先は放っておいたら盛り下がる一方なんですけど、これはある意味しょうがないんですよね。だから私たちとしては、いろいろな話題を作り続けるというか、何かおもしろいことをやり続けないとダメだなっていうふうには思っていて。マラソンがそれに当たるかどうかはわからないんですけど、でもやっぱり東京が最ピークだったって終わるのはあまりにも寂しいことなので、しっかりとこの先もひとつのおもしろいスポーツとしてあり続けるためには、 何かしらの工夫を続けていかないといけないんだろうなと思っています。――パラスポーツをもっと普及してくために、考えていることはありますか?木村 ちょっと思っているのは、今自分はこうやって普通に水泳をしているだけですけど、星さんのようなオリンピック選手が加わってくれるっていうのは、ひとつの競技スポーツとして時間が進んでいる現れだと思うんです。だから、そういう人の力を借りるのもひとつの方法なんだろうなと思ってます。――オリとパラの融合。木村 融合まではまだまだ。今は、協力ですかね。パラからオリに対しても何かしらのメリットを出せれば融合になるんでしょうけど、今のところ圧倒的にパラが恩恵受け受けまくっていますね。ギブ・アンド・テイクになってないない感じです。もうちょっとパラの方もオリンピック選手たちに対して、少しでも有益なものを提供できないとダメですね。――そういう役割を木村選手が果たしてくれると、パラスポーツがもっと発展していくと思いますので期待しています。本日はありがとうございました。木村敬一(きむら・けいいち):右/1990年、滋賀県生まれ。増殖性硝子体網膜症により2歳で視力を失う。小学4年で水泳を始め、筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚支援学校)に進学し、水泳部に所属。2008年、高校3年で北京パラリンピックに初出場、12年ロンドン大会では100m平泳で銀、100mバタフライで銅メダル。16年リオ大会では、50m自由形、100mバタフライで銀、100m平泳、100m自由形で銅メダルを獲得。東京大会では、100mバタフライで金、100m平泳で銀メダルを獲得した。著書に『闇を泳ぐ』(ミライカナイ)がある。星 奈津美(ほし・なつみ):左/1990年、埼玉県生まれ。1歳半で水泳を始め、バタフライ選手として活躍。高校時代は1、2年時にインターハイ優勝、3年時は日本選手権で高校新記録を出し北京オリンピック日本代表に選ばれた。16歳で患ったバセドウ病と闘いながらもオリンピックに3大会連続出場し、2012年ロンドン、2016年リオでは200mバタフライで2大会連続の銅メダルを獲得。世界水泳では2015年に日本人女子選手として初の金メダルに輝いた。2016年に現役引退後は水泳教室、企業や学校での講演活動やバセドウ病への理解促進など多方面で活動。2023年から木村敬一のフォーム指導アドバイザーを務める。取材・文/編集部 写真/堀切功(東京パラリンピック)、吉村もと、編集部 協力/東京ガス株式会社、ルネサンス赤羽
国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―後編―

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―後編―

国枝慎吾と藤本怜央。生まれ年は1年違うが、いわゆる同級生。ともに、2004年アテネでパラリンピックデビューを果たし、東京2020大会まで5大会連続出場して日本のパラスポーツを牽引してきた。「怜央(レオ)くん」「シンゴ」と呼び合う2人が語る、今、ここから――。(前編より続く)車いすバスケの動画を投稿したら、パトリック・アンダーソンから連絡きたよ。「オレがシンゴのチームに入る」って(国枝)――国枝さんは、現役引退直後から車いすバスケットボールを楽しんでいらっしゃるとか。何か、きっかけがありましたか。国枝 子どもの頃からやってみたかったスポーツだったから、引退してやっとできるようになったという感じです。藤本 シンゴが引退してすぐに「バスケを始めたんだけど、シュートが入らないから教えて」って連絡がきたんだよね。国枝 自分の動画を撮って送ってね。藤本 それで自分のシュート動画とか送って、こんなところに気をつけてみて、とかアドバイスを送ったの。国枝 怜央くんが帰国するタイミングで一緒にバスケをしたいという話になって、成田空港から直接体育館に来てもらいました。でも、まだまだ車いすバスケはちんぷんかんぶんで、わからないことばっかりだよ。藤本 いや、すごく上手いよ!国枝 バスケのボキャブラリーについていけてない。「ピックかけろ」とか「クロス」とか言われて、何?何?って(笑)。――今日は反対にTTCで藤本選手が初めて国枝さんの指南を受けて車いすテニスを経験されました。いかがでしたか。藤本 いやあ、テニスって繊細なスポーツだよね。手首の角度とか、バスケットをやっている時には気にしたことなかったところがすごく気になる。国枝 いや、あれだけいいスピンをかけられるなんて、センスあるよ、絶対!藤本 あんな小さな球を打つのも大変だけど、ラケット持ったまま車いすを操作するのも超人的だよ。さっきは、受けやすいところにボールを出してくけど、実際は前後左右にボールを振られるわけでしょう。国枝 車いすテニスの場合は、ずっと動いているよ。藤本 それって、相手の出方や球のコースを読んで、予測して動いているんだよね。国枝 たった1回で本質を理解しているのがすごいよ。藤本 以前、車いすテニスをやっていた人を集めて新しいバスケチームを作るとか、言っていたじゃない。国枝 実は(パトリック)アンダーソンから連絡もらったんだよね、オレがシンゴのチームに入るよって。藤本 マジ!? そんなこと言うのはシンゴだけだよ。国枝 3、4月ごろかな。SNSでバスケの動画を投稿したら連絡が来て、日本でプレーするぞって。それで天皇杯のスケジュールとかすぐに送ったんだけど、その後はぱったり、連絡が途絶えた(笑)。多忙なスケジュールの合間に車いすバスケと車いすテニスのプライベート合宿を敢行。ハードな走り込みの後にフリースローをする練習に「きついけど、楽しい!」車いすバスケのチームを作って車いすテニスのダブルスに挑戦しよう!藤本 オレも、車いすテニスやってみたら、すごく楽しかったな。どう、ダブルスとか?国枝 やる? いいね! 怜央くん、前にいて圧かけてくれればいいから。藤本 めちゃくちゃ鍛えてくれていいです!国枝 それが実現したら、またテニスが楽しくなりそうだよ。――国枝さんには現役時代、「オレは最強だ!」という自分を奮い立たせる大切なキーワードがありました。藤本選手には、たとえばフリースローの時などに自分に言い聞かせるような言葉など、あるのでしょうか。藤本 ない。オレ、何も考えない。試合している時って、音が聞こえてないの。国枝 え、それって最強!藤本 フリースローだけじゃなくて、シュートを打つ場面で毎回、なんの音も聞こえてない。ただリングを見て、そこに中指を揃える。1秒あればシュートは打てるって思ってるからプレッシャーはないんだ。国枝 それはすごい。調子が悪い時もあるわけじゃない。藤本 もちろんシュートを外す時はあるけど、もうずっと前からそういうマインドでプレーしてる。車いすバスケットはチームスポーツだから、その日、その試合でのヒーローはそれぞれ変わったりするよね。オレ一人でプレーしているわけじゃないというのが逆に強みになる。国枝 ほう。すげぇ。藤本 チームメイトを助けるし、助けられているんだよね。みんなの調子が良くても、ちょっとフィーリングがズレると、負けたりする。でも、自分がコートの中で崩れることは、ほぼないと思ってるんだ。国枝 音も聞こえず考えずにプレーできるって、強い。オレは、コートの中では、常に次の展開、状況判断、いろんなことを考えながらプレーしていたよ。藤本 オレ、もしテニスがうまくなっても、シングルスはやりたくないなあ(笑)。ミスしたら負けるとか、これ決めたら勝つとか、できそうもないや。国枝 うん、勝ち切るほうがむずかしいね。――車いすテニスでは、小田凱人選手という若いヒーローが誕生して、一気に世界ランキング1位に上り詰めています。車いすバスケットボールでは次世代選手たちについて、どんなバトンを渡したいと思っていますか。藤本 みんな、すごいし、みんななんとかしてやりたいという気持ちがあるんだけど…。オレは赤石(竜我)。日本がギリギリの勝負のところに入ったら、赤石がキーになると思ってる。赤石が起爆剤になったら、東京の時よりももっと強いチームになるんじゃないかな。国枝 それは、本人に伝えたりしたの。藤本 7月の合宿の最後に、チームが強くなるためにはお前がやんなきゃダメだよって。オレ、やりますって、目をギラギラさせて話を聞いてたよ。国枝 スポーツは循環していかないと、発展しない。僕にとっては、齋田(悟司)さんが同じような存在だったから。藤本 オレも大島(朋彦)さん。国枝 先輩たちから受けたバトンが確実に次に渡っているよね。それは引退して、なお一層、感じるようになった。藤本 そうそう、自分が引退したら、2人で車いすバスケットのチームを作って、車いすテニスのダブルスを始めようよ!国枝 いいね! 楽しみだ。藤本怜央(ふじもと・れお):右/1983年9月22日、静岡県生まれ、宮城MAX/RSV Lahn-Dill所属。4.5クラス。小学3年の時に交通事故で右足の膝下を切断。小学校時代は義足でサッカーを、中学・高校時代には一般のバスケットボールに熱中した。高校時代に車いすバスケの存在を知り、スピードに魅せられて転向。2004年アテネパラリンピックに日本代表として初出場し、2020東京大会まで5大会連続出場。東京パラリンピックでは悲願の銀メダルを獲得した。国枝慎吾(くにえだ・しんご):左/1984年2月21日、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍となり、11歳で車いすテニスを始める。2004年アテネパラリンピックに初出場し、ダブルスで金メダル。06年アジア人として初の世界ランキング1位に。08年北京、12年ロンドンパラリンピックシングルス2連覇、さらに東京2020大会ではシングルスで3度目の金メダルを獲得。22年ウインブルドンで優勝し、生涯ゴールデンスラムを達成。23年1月、世界ランキング1位で現役を引退した。取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/吉田記念テニス研修センター(TTC)※この記事は『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月27日発刊)から転載したものです(一部修正あり)。表記などは取材時のものですのでご了承ください。
国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―前編―

国枝慎吾(車いすテニス)×藤本怜央(車いすバスケットボール) 同い年の二人がぶっちゃけトーク ―前編―

国枝慎吾と藤本怜央。生まれ年は1年違うが、いわゆる同級生。ともに、2004年アテネでパラリンピックデビューを果たし、東京2020大会まで5大会連続出場して日本のパラスポーツを牽引してきた。「怜央(レオ)くん」「シンゴ」と呼び合う2人が語る、今、ここから――。忘我のシンパシー。車いすスポーツは最高!藤本怜央(以下、藤本) 現役引退、お疲れさま! 現役時代より体、少し小さくなった?国枝慎吾(以下、国枝) ああ、小さくなった。引退した最初の1カ月くらいで体重落ちたよ。藤本 引退してから1度、一緒に車いすバスケやったね。シンゴはバスケ愛、エグイよね!国枝 小学生の頃、病気になる前は野球をしていたんだけど、マンガの『スラムダンク』が好きすぎて、破れるくらい読み込んでたからね(笑)。藤本 オレら『スラムダンク』世代だからなあ。国枝 本当は、車いす生活になってから、車いすバスケがしたかったんだよね。でも、一番近い〈千葉ホークス〉の練習体育館が自宅から車で2時間くらいかかる。車いすテニスのクラブ〈吉田記念テニストレーニングセンター(以下、TTC)〉は、車で30分。それで、テニスを続けた、という感じだったんだ。藤本 小学生で車いすテニスを始めたのは、すごいね。国枝 TTCは、35年前から民間クラブとして一般のテニススクールと同じように車いすテニスのスクールが受けられたんだよ。画期的だよね。藤本 35年も前から? それはすごい!国枝 おそらく、世界でもここだけだったんじゃないかな。怜央くんは、バスケは車いすになる前からやっていたの?藤本 そう、小学5年から。大学に入って本格的に車いすバスケを始めて、2年目でアテネパラリンピックに出場したの。同級生の選手が車いすテニスのダブルスで金メダルをとったということを後から知って、すごく話がしたいと思ってたら、4年後の北京で実現したんだよね。国枝 そのタイミングか〜。藤本 閉会式だったかな、ちょうど車いす選手同士で隣り合わせて、いきなり「車いすバスケの藤本さんじゃないですか」って声かけてくれて。国枝 そうそう。ずいぶんいっぱい話をしたよね。藤本 話に夢中になってて気づいたら、まわりに誰もいなくなってた(笑)。国枝 それだけしゃべったのに、今みたいにライン交換するような時代じゃないから、あっさり別れて、その後会うのが2年後のアジアパラ競技大会とかね。藤本 2年ごとに、「おう」「やあ、久しぶり」みたいな。国枝 直接連絡先を交換して連絡するようになったのは、多分、16年のリオパラリンピックの頃からかな。体が元に戻ればちゃんとプレーはできる。右肘を故障したことで、休む勇気を実感できたんだ(国枝)藤本 シンゴも、オレも右肘故障してたんだよね。国枝 その話もよくしたね、どんな治療をしているかとか。大事な情報交換だった。藤本 NTC(国立トレーニングセンター)で治療を受けていた時に会ったね。国枝 いやあ、もうだめだ〜とか言ってたね、お互いに。藤本 シンゴはリオ前に手術してるけれど、オレはリオの後すぐにドイツのシーズンが始まるんで、ドイツのチームに相談したら治療しながらプレーすればと提案されてそのまま行ったの。でも、結局痛みがひどくて治療のために帰国したんだ。国枝 具体的な治療方法の話をしたね。これは効いた、これはあまり効果感じなかったとか。藤本 痛みもあったけど、それ以上に右肘の可動域がすごく小さくなってしまって、これじゃプレーできないって思って手術に踏み切った。アドバイスをもらえて助かったよ。――お二人とも手術をした上で現役を続けられたわけですが、そのモチベーションはなんだったのでしょう。国枝 僕は、とにかく東京パラリンピックが大きかった。それがなければ、あの時点で引退していたと思う。藤本 そのくらい、東京は大きなモチベーションだったよね。がんばる先に東京大会がなかったら、多分手術してまでプレーを続けていたかどうか。国枝 本当にその通り。藤本 戦うために肘を治して、シュートフォームも一から作り直して。おかげでいろんなことを考えられたな。適切な休み方とか。国枝 それ、すごく大事だよね。けがをすると、結構長期間休まざるを得ないんだけど、戻った時に、案外すんなりプレーできたりしなかった?藤本 そうそう、戻れる!国枝 それまでは、休むということに対して罪悪感があったけれど、けがをしたことで、休む勇気をくれたところがあったな。藤本 ずっと、走り続けてきたからね。国枝 休んでも、体が元に戻ればちゃんとプレーができるということを実感できた。それ以前は、やっぱり休むことが怖かったんだ。東京パラリンピックに向けてじっくりチーム作りに時間をかけられた。だから、本番では本当に自信があった(藤本)――2020東京パラリンピックというステージでそれぞれ金メダル、銀メダル獲得という素晴らしい結果を残されました。振り返って、東京大会はどんな記憶として残っていますか。藤本 コロナがあって、思うように練習も国際大会もなくて、しかも1年延期になった。国枝 特殊なパラリンピックだったよね。藤本 でも、それだけチーム作りにすごく時間をかけられたんだよね。だから、本番は、すごく自信があった。予選ラウンドからずっと、余裕で勝っているって感じてたんだよね。実際にはほとんどの試合は逆転勝ちしてるから、絶対に楽勝ではなかったはずなのに。でも、全然対戦相手を怖いと思わなかったんだ。そんな大会は、これまでで初めてのことだったよ。国枝 そうだったのか。藤本 決勝戦の第4クォーターでオレ、ファウル4つくらって、ベンチに下がってたんだ。最後の最後、4点差で追いかけている展開でコートに出る準備していたんだけど、結局コートに出ないまま、負けて試合終了。あの試合勝っていたら、引退したと思うんだけど、今も続けているのは、ギリギリで負けたからかもしれない。国枝 車いすバスケの決勝戦は選手村の部屋のテレビでガッツリ見てたよ。怜央くんの気持ちは今初めて聞いた。藤本 若い奴らが本当に成長したと感じてたよ。でも、自分が出ないまま負けた。国枝 怜央くんは、パラリンピックに置き忘れてきたものがあるんだね、今も。藤本 シンゴはどうだった? 決勝戦の後とか。国枝 正直、今回は浸った。藤本 ええ、そう!?国枝 東京大会が終わってから何度も動画や写真を見直したりするんだけど、その度にウルッときちゃう。こんなこと、これまでなかったよ。初めての体験。※後編に続く対談の日、藤本は初めて車いすテニスに挑戦。「バスケットボールより小さいボールはむずかしい」と言いながらも強打を連発!藤本怜央(ふじもと・れお):右/1983年9月22日、静岡県生まれ、宮城MAX/RSV Lahn-Dill所属。4.5クラス。小学3年の時に交通事故で右足の膝下を切断。小学校時代は義足でサッカーを、中学・高校時代には一般のバスケットボールに熱中した。高校時代に車いすバスケの存在を知り、スピードに魅せられて転向。2004年アテネパラリンピックに日本代表として初出場し、2020東京大会まで5大会連続出場。東京パラリンピックでは悲願の銀メダルを獲得した。国枝慎吾(くにえだ・しんご):左/1984年2月21日、千葉県生まれ。ユニクロ所属。9歳で脊髄腫瘍となり、11歳で車いすテニスを始める。2004年アテネパラリンピックに初出場し、ダブルスで金メダル。06年アジア人として初の世界ランキング1位に。08年北京、12年ロンドンパラリンピックシングルス2連覇、さらに東京2020大会ではシングルスで3度目の金メダルを獲得。22年ウインブルドンで優勝し、生涯ゴールデンスラムを達成。23年1月、世界ランキング1位で現役を引退した。取材・文/宮崎恵理 写真/吉村もと 取材協力/吉田記念テニス研修センター(TTC)※この記事は『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月27日発刊)から転載したものです。表記などは取材時のものですのでご了承ください。
女子車いすバスケ大阪大会。日本は惜しくも準優勝。パリの切符をかけ4月の世界最終予選へ!

女子車いすバスケ大阪大会。日本は惜しくも準優勝。パリの切符をかけ4月の世界最終予選へ!

2月16日~18日に行われた「国際親善女子車いすバスケットボール大阪大会」。この大会で優勝すればパリパラリンピックの出場権が獲得できる。出場国は日本、イギリス、タイ、オーストラリアの4カ国。総当たりの予選を2勝1敗で終えた日本は決勝に進出した。相手はイギリス。ヨーロッパ予選ですでにパリ出場権を獲得している強豪だ。予選で唯一黒星を喫したイギリスに対し、日本はチーム一丸となって挑んだ。しかし実力差は明らかで、46対71で敗戦。この結果、日本はパリパラリンピック出場の切符をかけて、4月の世界最終予選に挑むことになった。最終予選の会場は再び大阪。みんなの応援の力で、日本をパリ行きの飛行機に乗せようじゃないか!◆最終順位1位 イギリス2位 日本3位 タイ4位 オーストラリア優勝したイギリスチーム◆MVPジョイ・ヘイゼルデン(英)◆オールスターファイブステファニー・ヴァンレーウェン(豪)ポーンティップ・カチュンラム(タイ)萩野真世(日本)エイミィ・コンロイ(英)北田千尋(日本)オールスターファイブに選ばれた5人の選手たち萩野真世選手北田千尋選手エイミィ・コンロイ選手(英)写真/吉村もと
ハンドサッカーに大興奮!「IncluFES(インクルフェス) 2024」

ハンドサッカーに大興奮!「IncluFES(インクルフェス) 2024」

東京2020パラリンピック大会を契機に、パラスポーツは一定の認知と理解を得たと言える。しかし、重度障がい者に目を向けてみると、たとえば特別支援学校に在籍する重度障がいの子どもたちのなかで、パラスポーツに取り組める生徒は1割に満たないのが実情である。スポーツの機会に恵まれないこうした重度障がいの子どもたちに、スポーツを通じたふれあいや自己実現の機会を提供しようと始まったのが「IncluFES(インクルフェス)」だ。みんなのためのフェスティバル「IncluFES 2024」「IncluFES(インクルフェス)」は、肢体不自由特別支援学校に在籍する、重度の障がいのある子どもたちとその関係者にフォーカスを当てたイベントである。「気づき、深め、楽しむ」をテーマに、パラスポーツにとどまらず、さらにインクルーシブなイベントを発展させるために生まれた。誰もが楽しむことができるさまざまなコンテンツが用意された“みんなのためのフェスティバル”なのだ。ハンドサッカーのエキシビションマッチには13チームが参加2024年1月20日、「IncluFES 2024」が開催された東京都多摩市立総合体育館は、朝早くから熱気に包まれていた。この日のメインイベントは、ハンドサッカーのエキシビションマッチ。都立肢体不自由特別支援学校チームや卒業生チームなど13チームが参加し、各チーム2試合ずつの対戦が行われた。ハンドサッカーは、東京都の肢体障害特別支援学校で考案され、競技の柔軟性から全国の特別支援学校に普及しつつあるパラスポーツだ。既存の競技では十分に対応しきれないさまざまな障がいを持つ子どもたちが活躍の場を広げ、個々の能力を引き出し、心身を健全に育成するために考案された。勝敗以上に各個人のパフォーマンスを讃える競技スタンスから、究極のアダプテッドスポーツとも言われる。1チームは、フィールドプレーヤー4人、スペシャルシューター1人、ポイントゲッター1人、ゴールキーパー1人の計7人で構成される。選手の交代は何度でも自由だ。試合前に両チームが挨拶のため整列し、スターティングメンバーの7人がコートに散らばる。そしてホイッスルが吹かれ試合開始。フィールドプレーヤーがボール運び、スペシャルシューターにパス。相手チームはそれを防御する。そしてポイントゲッターが課題をクリアして得点をあげると大歓声があがり、会場は一気にヒートアップ!試合前は整列して挨拶1チーム4人のフィールドプレーヤーがコートを動き回ってボールを運ぶスペシャルシューターにボールを渡すことができると得点が入る自らの障がいの程度に応じた課題に挑むポイントゲッター不思議なことに、試合を観戦しながらルールや選手の動き方がわかるにつれ、どんどんゲームに引き込まれていく。仲間にボールを渡そうとコートを動き回るフィールドプレーヤーの攻防。自らの障がいの程度に応じた課題に挑むポイントゲッターのがんばり。ポイントを獲得したときの達成感と興奮……。観ているうちに我を忘れ、自然に声援と拍手を送り、会場はハイテンションに。ハンドサッカー、すごい!会場には横断幕が掲げられ熱のこもった応援合戦が繰り広げられたさまざまなインクルーシブ体験先述したとおり、このフェスはハンドサッカーを楽しむ以外にも、さまざまなインクルーシブ体験ができることが特徴だ。会場にはサイバーボッチャ、ゲーム対戦、ビジョングラムなどのアトラクションが設置され、選手たちも試合の合間に楽しんだ。さらに、セレモニーにはパラ陸上で活躍する有熊宏徳選手(ジャパンパラ陸上2023で100mと走り幅跳びのT38クラス優勝)がゲスト出演。脳性麻痺(左半身片麻痺)を克服して陸上競技にかける自らの体験を語るとともに、参加者に応援メッセージをとどけた。会場ではさまざまなインクルーシブ体験会が行われた。写真上からサイバーボッチャ、ゲーム対戦、視覚障がいを可視化するビジョングラム有熊宏徳選手(中央)の話に聞き入る参加者たちまさに、みんなのためのフェスティバル。スポーツ&インクルーシブ体験で選手はもちろん、来場者みんなが一体となって楽しんだ1日となった。取材・文・写真/編集部
タンデム自転車で湘南のサイクリングルートを走る

タンデム自転車で湘南のサイクリングルートを走る

自然豊かな日本をアクティビティで旅する「ジャパンエコトラック」(注1)。この取り組みに2023年12月に新規登録した神奈川県のサイクリングルート(注2)で、メディアツアーが開催された。今回の試走コースは、太平洋岸自転車道神奈川セクションと相模原~茅ケ崎サイクリングルートの一部。大磯港から柳島スポーツ公園、寒川神社を経由し、海老名運動公園までを走るコースだ。スタート地点の大磯港このツアーに視覚障がいをもつ西郷光太郎さんと黒澤美花さんが参加した。二人が乗ったのはタンデム自転車。観光地などで見かけることがある二人乗り自転車だ。前に乗るパイロットは廣田和彦さん、朝美さんご夫妻。2人はサイクルボランティアジャパンのメンバーで、自身も長年タンデム自転車を愛用し、以前は2人で、お子さんが産まれてからはファミリーでツーリングを楽しんでいるという。ツアーにタンデム自転車で参加した左から黒澤さん、廣田朝美さん、和彦さん、西郷さんタンデム自転車での公道の走行は各都道府県の条例によって規制されており、比較的最近まで公道を走れないエリアがあった。しかし徐々に緩和され、2023年7月にはその時点で唯一制限していた東京都が解禁。現在は日本全国の公道で走行が可能となった。タンデム自転車の良いところは、2人に体力差などがあってもカバーでき、一緒に走れることだ。廣田さんご夫妻は、以前はそれぞれの自転車でサイクリングを楽しんでいたが、ペースが合わずに朝美さんが不機嫌になってしまうこともあったそう。「じゃあタンデムをやろうと。僕が力を補えば一緒に移動できますから」(和彦さん)とタンデム自転車を始めたと言う。「タンデムを始めると、パイロットとして視覚障がいの方と一緒に乗ることが増えてきました。それで思ったのが『障がいの方でも後ろに乗ってしまえば、障がいがなくなる!』ということです。パートナーとして一緒にサイクリングするお友達になるんです。だから自分が支えているとか介助しているとかという気持ちはあまりありません」(和彦さん)2人のお子さんを3歳くらいからサイクリングに連れ出しているという廣田さん。子どもたちと一緒に旅やイベントに参加できるのは、タンデムならではの良さだと言う。廣田さんのタンデム仲間には視覚障がいやダウン症の子どもを持つ親もいるそうだが、タンデムなら自転車の後ろに乗せて移動したり旅に出かけることができ、子どもの運動不足解消にも役立っているそうだ。廣田さんの誘いで2年ほど前からタンデム自転車を始めたという西郷さん。「私は全盲なので、一人で道を歩くのも難しい。以前はマラソンをしていましたが、長続きしませんでした。でも、サイクリングだと長い距離をゆっくり走れるので続けることができています。結構な運動になるので体力がついて、肥満気味だった体も健康状態が良くなりました。そして、心が豊かになり、世界が広がったと思います。今の夢は東京の日本橋から京都の三条大橋までタンデム自転車で走ることです」スポーツが大好きだった黒澤さんが視力を失ったのは5年ほど前。「目が悪くなり始めてからどんなブラインドスポーツだったらできるのか、いろいろ試してみました。そのなかの一つがサイクリング。見えないとスピードを感じたり、風を切ったりするのが難しくなるのですが、タンデムに乗せてもらうことで、私は風を取り戻せました。これだよな!と思えるものがすごくあったんです。風を感じる中から自然を感じたり、パイロットの方との会話から見いだせた新しいものを得られたりと、一石何鳥もの良さがありますね」。黒澤さんにとって、晴天のこの日、湘南の潮風を受けながら気持ちの良いツーリングだったに違いない。廣田さん夫婦の愛車。ツーリング使用になっている今回のツアーでは、KHSジャパンの協力で、タンデム自転車の試乗体験会も実施された。初めて乗る参加者も多く、初めは戸惑いも見られたが、自転車にまたいで漕ぎ出すと不安は即座に解消。あっという間にタンデム自転車の虜になり、皆気持ち良さそうに走っていた。タンデム自転車の試乗体験会も行われた障がい者のスポーツツールという点でも注目されるタンデム自転車。現在、日本パラサイクリング連盟を中心に普及活動が行われているものの、レンタルポートやパイロットのなり手が少ないなどの問題もある。障がい者にとってタンデム自転車はさまざまな可能性を秘めているだけに、環境がもっと良くなり、多くの人が楽しめるようになることを期待したい。取材・文/編集部 協力/株式会社モンベル注1 ジャパンエコトラック/「JAPAN ECO TRACK」とは、カヌー・自転車・トレッキングなどの人力による移動手段で、日本各地の豊かで多様な自然を体感し、地域の歴史や文化、人々との交流を楽しむ新しい旅のスタイルです。ジャパンエコトラック推進協議会は、旅行者が、このような旅を365日いつでも快適に楽しめる環境づくりを地域と連携して推進しています。(※ジャパンエコトラックHPより転載)注2 神奈川県の取り組み/神奈川県は2023年12月ジャパンエコトラックの新規エリアに登録。全18(サイクルリングルート14)のエリア・ルート情報を公開した。箱根や丹沢の山々、相模湾の海の幸と湘南や三浦半島の絶景、古都・鎌倉や小田原城の歴史遺産など、多彩な見どころがある。※「ジャパンエコトラック神奈川」の詳細は下記サイトをご覧ください。https://www.japanecotrack.net/area/1113
小学生が“見えない世界”を体験するプログラム「目を大切に!ブラインドチャレンジ」

小学生が“見えない世界”を体験するプログラム「目を大切に!ブラインドチャレンジ」

12月6日(水)、参天製薬株式会社(以下、Santen)は小学生の放課後の居場所づくりに取り組む特定非営利活動法人放課後NPOアフタースクールとの協働プロジェクト「目を大切に! ブラインドチャレンジ」を東京農業大学稲花アフタースクールで開催した。その模様をレポートしよう。写真・レポート資料提供/参天製薬株式会社ブラインドサッカー日本代表選手が講師として子どもたちと対話講師を務めた鳥居健人さん。視覚障がいのあるSanten の従業員で、ブラインドサッカー日本代表選手でもある。視覚障がい当事者と直接対話できることはこのプログラムの大きな特徴「目を大切に!ブラインドチャレンジ」は、視覚に障がいのあるSantenの従業員が講師として小学校や学童保育を訪問し、子どもたちに目の大切さや視覚障がいについて学んでもらう対話型&体験型のプログラム。Santenが目指す視覚障がいの有無に関わらず交じり合い、いきいきと共生する社会の実現に向けて、放課後NPOアフタースクールと協働開発した。今回のイベントには小学生17名が参加、視覚障がいのあるSanten社員で、ブラインドサッカー日本代表選手でもある鳥居健人さんが講師を務めた。クイズや目隠しパズルに挑戦!目隠しパズルをする友達を声でアシスト。見えないことの大変さだけでなく、声かけの大切さや難しさを知ることも大きな学びだまずは、アイマスクで目隠しした子どもたちにステーキを焼く音を聞いてもらい、何の音かをあてるクイズ。「焼き肉!」などほぼ正解の子どもがいた一方で、「雨の音?」といった声も上がり、音だけで言い当てるのはなかなか難しい様子。クイズを通して、人は目、耳、鼻、口、手の5つの感覚のうち、目から最も多くの情報を得ていることを学んだところで、目隠しをして数字の形の型はめパズルにトライ。一人でやってみた後にはペアを組み、目隠しでパズルをする友達を「声だけでアシストする」ことにも挑戦し、サポートする側の気持ちや難しさ、出来る工夫についても体感して考えた。<鳥居先生からのアドバイス>一番のコツは、始める前に数字を順番に並べておくこと。「整理整頓」は見える人にとっても見えない人にとっても大事です。「右、左、時計の何時の方向」など具体的な声かけも助かります。白杖を持って点字ブロックを歩いてみた足元やディスプレイに表示された信号をよく見ながら慎重に誘導。見えないことの怖さよりも、誘導してもらうことの大切さや安心を感じた子どもが多かった次は、二人一組になって、一人が誘導、もう一人が目隠しをして白杖を持ち点字ブロックの上を歩く体験。ディスプレイに映し出された信号を確認し、誘導役の子どもの声を頼りに慎重に歩く姿が見られた。<鳥居先生からのアドバイス>点字ブロックは「進んでOK」の誘導ブロックと「止まれ」の意味の警告ブロックの2種類があります。ぼくたちは白杖と足の裏の感覚で、ブロックを区別しています。困りごとを知り、何ができるか考えてみる目が不自由な人の困りごとについて何ができるかをグループで話し合う子どもたち。駅の音声案内など自分の知っていることを一生懸命話す様子が見られた「目隠しパズル」と「点字ブロック体験」の2つのプログラムの後は、「看板がわからない」「駅などのトイレに行きたいとき、男女どちらかわからない」「自動販売機で好きなものが買えない」といった、目が不自由な人の困りごとについて、グループで話し合った。視覚に障がいのある人の立場になって考え、「自動販売機に点字をつけるといい」「近くの駅は『左は女子トイレです』という声が聞こえるよ」といった意見が挙がっていた。参加した小学生たちの感想白杖の使い方や目が不自由な人の気持ちがよくわかった。もし目が不自由な人に出会ったら信号などを教えてあげたい(3年生)目が見えない人のことをあまり考えたことがなかったけど、これからは少しずつ考えて生活したい(3年生)点字ブロックを歩くのが楽しかった。友達が教えてくれたので、見えなくても怖くなかった(2年生)パズルが難しくて、目が見えないのは大変だなと思った(2年生)目が見えない人がいたら、手伝おうと思う(1年生)Santen企画担当者よりメッセージ本プログラムは、Santenが目指す「人々が視覚障がいの有無に関わらず交じり合い、いきいきと共生する社会の実現」のため、子どもたちに多様性やインクルージョンについて考えてもらうことを大きな狙いとして、2020年から継続的に取り組んでいるものです。自然体で先生と触れ合う子どもたちの姿から、共生社会のありかたについて私たち大人が学ぶことも多いです。大人は「サポートしなければ」と思いがちですが、子どもたちは視覚障がいを偏見なく受け入れ、素直に知ろうとし、先生と同じ立場で物事を考えようとします。このようなプログラムを通して、子どもたちが日常生活の中で困っている人を自然にサポートできるようになることは、共生社会の土壌になると考えています。(参天製薬株式会社 基本理念・CSV推進部 長谷川成男さん)
悲願の世界一! デフフットサルW杯を制した日本女子代表チーム山本典城監督インタビュー(全3回/第3回)

悲願の世界一! デフフットサルW杯を制した日本女子代表チーム山本典城監督インタビュー(全3回/第3回)

11月9日~18日、ブラジルで開催された第5回ろう者フットサル世界選手権大会(デフフットサルワールドカップ2023)。世界一を決めるこの大会で、日本女子チームが見事に優勝を果たした。代表チームの山本典城監督のインタビューをお届けする。(全3回/第3回)取材・文/編集部 写真協力/一般社団法人日本ろう者サッカー協会 取材協力/ケイアイスター不動産株式会社――予選最終戦のブラジル戦。この時点でブラジルはすでに決勝進出が決まっていたのに対し、日本が決勝へ進むためには引き分け以上が必要でした。そして結果は7対1で日本の圧勝。予想外の大差だったのではないでしょうか。山本典城監督(以下同) アイルランド戦後のチームの意思統一がうまくいったので、そこで一気に本当に優勝を掴むための流れが始まったかなっていうふうに今は思います。結果論かもしれませんが。ブラジル戦は選手たちはすごく一つにまとまって、いい話し合いができました。すべてがうまく行きすぎと言ったら変ですけど。ブラジルにとっては消化ゲームとも言えましたが、そもそもホームですし国民気質として負けは許されない国なので、当然勝ちに来て試合に入ったと思うんですけど、正直そういったレベルを日本が超越したというか。ブラジル相手に試合開始と同時に、この試合に勝つのは自分たちだっていうプレーを全員が見せたし、ベンチも含めてブラジルは正直その日本の勢いに飲まれたという感じだったと思います。前半で4対1となった時点では、ブラジルもそれほど選手層が厚いわけではないので、ある程度選手の使い方とかを見ていると、このゲームは諦めたというか、このまま終わらせるんだろうなっていうことは感じました。日本はもうイケイケで得点を積み重ねて、結果7対1で終わりましたけど。――ブラジルの地元でブラジルを飲む感じ、雰囲気っていうのは、すごいことですね。そうですね。でも自分たちにはそんなに余裕もなくて、ただ本当に目の前の試合に勝つ、それがたまたまブラジルだったっていう、それぐらいの感覚だったかもしれないです。それで勝ったことでメダルが確定した。日本のデフフットサルの歴史で言うと史上初ですし、本当にもう全員が優勝したかのように喜ぶような状況ではありました。でも振り返ると、勝って安心はしましたけど、意外とみんなが、まだ次があるっていう感じではあったので、そこはチームの成長なのかなと思っています。 ――監督から見て、その前のアイルランド戦とどこが違ったのですか。アイルランド戦は選手がまとまっていませんでした。誰かのミスに対して他の誰かがカバーするとか、そんな空気もなかったんです。だけどブラジル戦に関しては、とにかくもう全員でサポートし合って、勝つために1人1人がやれることをやる。そこで本当にチームがまとまっていたなと思います。スタッフも含めて。本当に私も含め、選手たちのゴール1点1点に全員が飛び跳ねて喜びましたし、ピッチにいるいないは関係なく、全員が一緒に戦えたゲームだったと思いますね。 ――そして、いよいよ決勝は中一日で再びブラジル戦。延長戦までもつれこむタフな試合になりました。まず、予選リーグでやったブラジルとはまったく別チームになるというのは、試合前から選手たちにも言っていました。とはいえ自分たちがやることは変わらないし、やってきたことを出せたからこそ予選で7対1という結果につながったのであって、それを一つでも出せなければ勝つチャンスはどんどん減っていくっていう部分では、難しい試合になることは想定していました。それでも、やるべきことは決まってるよねっていうところで全員が同じ方向を向いていて、気がゆるむようなこともまったくなかったですね。正直、私も含めてワールドカップの決勝戦は初めてでしたし、世界一を決める舞台だと考えれば考えるほど、普通の精神状態ではいられないというか。自分もどこかでなにか落ち着いた振る舞いを意図的にやらなきゃいけないのかと考えながら試合までの時間を過ごしたほどで、決して普通の精神状態ではなかったですね。ただ、自分たちはもう失うものはなかったし、本当に試合前に選手たちにも言ったんですけど、決勝に進めた時点で、正直、応援してくださる方々は自分たちのことをもう十分に称えてくれるだろうと。ここに来ただけでも、新しい場所に来ているので、勝たなきゃいけないとプレッシャーに感じるのではなくて、最後はもう自分たちがここで勝つためにやってきたこと、それだけに集中してこの舞台を楽しむことだけを考えてやろうっていうふうに試合に入りました。思ったよりもみんな気負いもなく、しっかりゲームに入れたんじゃないかなと思います。同時に、絶対勝つぞという雰囲気もありました。――前半が1対0、後半が2対3。3対3で延長戦になって、延長前半が0対0、後半が1対1で、4対4の同点で試合が終わりました。振り返ってみて、どこがポイントでしたか。試合全体を通してここがポイントだったというところはなかったと思います。先制点が取れたのは上出来でしたし、ただそれで終わるとは思っていなかったです。案の定、後半が始まって自分たちのちょっとしたエラーもあって失点して、ホームのブラジルは同点に追いついたことで勢いが増して、会場の雰囲気も変わった。やっぱりあの時間帯は飲まれて、それで逆転されましたが、ゲームの流れとしては想定内でしたね。起こるべくして起こっている状況ではあったので、自分の中でもそんなに焦りもなくて、結構ずっと冷静ではいられました。そして逆転されてからですね。選手たち自身が本当にこの試合に懸ける思いみたいなものをピッチ上で体現し始めたんです。相当きつかったと思うんですよ、ゲームの展開的には。だけどいい形で同点に追いついて、そこからまた勝ち越されても、またいい形で追いついて、自分たちが積み上げてきたものをしっかりと 出していた。延長に入ってからは、もうここまできたら気持ちの問題だし、勝ちたいって思った方に結果は転ぶと思っていたので、戦術より気持ちの部分を出して行こうと。延長後半で第2PKを決められた時は、残り時間も含めてうーんってなりましたけど、でも誰1人として諦めてはいませんでした。それで最後、普段なら入らないだろうなっていうゴールが決まって同点に追いつくことができました。 ――そして、PK戦は3対1で日本が見事に勝ち、世界一に! PK戦は運だという人もいますけど、このチームはPKの練習をたくさんしてきたんですよ。8年前のタイのワールドカップの準々決勝で、イタリアにPKで負けたんですけど、それが常に私の頭の中にあって、この4年間に関しても練習試合の時にゲームが終わった後に相手チームに頼んでPK戦までやってもらっていました。そういう積み重ねが最後の場面で出たと思っています。キッカーは思いっきり蹴ることができたし、キーパーも落ち着いて好セーブすることに繋がったのかなと思います。最後に勝利を決めたキッカーは岩渕だったんですけど、実は8年前のワールドカップのイタリア戦で、最後に外したのは岩渕なんですよ。ですので、そこから世界一を目指すストーリーみたいなものが始まっていたというか、イタリア戦で外した岩渕が最後に決めて世界一になって終わるという、こんなドラマみたいなことがあるんだなと思いながら試合を終えました。――世界一になって、山本監督にとって、あるいは日本のチームにとって、どんな大会になったと考えていますか。もちろん、結果としては、本当に目指していた世界ナンバーワンをとれて、自分たちがやってきたことが正しかったっていう証明ができたと思っています。本当に大会中を含めて応援してくださる方々の声というか、SNSとかも含めて、すごくチームには伝わってきていました。そういう部分では障がいのあるなしに関係なく、自分たちもアスリートとしてたくさんの方々に応援していただいて、なおかつ、いろいろな方に感動とか勇気を与えることができるんだっていうのを、結果で証明できたんじゃないかなと思っています。この結果が今後、障がい者スポーツの捉え方だったり認知を含めて、少しずつ変わっていく一つのきっかけになってほしいというのは強く思ってますし、デフフットサルを含めて障がい者スポーツの認知度を上げるためには、やはり結果がすべてだと思います。まずは結果を出さないと始まらないだろうとずっと結果にこだわってきたので、そういう意味では世界一が取れて最高の結果は得られたと思っています。でも、帰国して数日経って考えたことは、ここからがスタートなんだなっていうことです。世界一を取ったけど、騒いでくれてるのは周りの身内というか、盛り上がってる感は出てますけど、本当はもっともっと多くのメディアの方々にこの結果が届いて、興味を持ってもらって発信してもらうことを願っていた分、まだまだかという気持ちも正直あります。まあ1回、世界一になっただけではあるので、これをきっかけにここからどう進んでいくかっていう部分では、これが始まりなのかなと思っています。実際、10年前に私が監督をやり始めたころに比べると、デフフットサルの見られ方も認知度も変わってきているのは間違いないので、本当にここからまたスタートだろうなと今思っています。――間髪入れずにデフリンピック冬季大会が来年3月にトルコで開催されます。この大会からデフフットサルが冬季正式競技として採用され、日本は世界チャンピオンとして出場することになります。正直、ここから3カ月の間に新しいことはなかなかできないと思うので、今回優勝した勢いをそのままデフリンピックへ持っていくっていうのが一つですね。予定では12カ国が参加することになっていますが、今回のワールドカップに不参加だったスペインやポーランドが出てきますし、イングランドやドイツ、もちろんブラジルも出ます。開催国のトルコもそれなりに運動能力ある選手たちがたくさんいるので、今回のワールドカップよりも全体的にレベルも高くなる大会になるんじゃないかなと思っています。それと、デフスポーツの中でのデフリンピックの存在はやっぱり大きいんだなっていうのは、改めて感じています。そこに対するモチベーションの高さはどの国にもありますね。日本はワールドカップの優勝国として見られますが、デフリンピックであるがゆえにさらに簡単な大会にはならないと思っています。大会まで時間があまりなく気持ちの疲労もあると思いますが、デフリンピックもやってやるぞ! という感じで、もう1回行けるのかなとは思っています。――われわれからすると、勝手なことを言いますけど、デフリンピックでもぜひ金メダルを取ってもらって、2025年の東京デフリンピックへ向けてデフスポーツの勢いを加速させてほしいという期待があります。2025年の東京デリンピックを盛り上げるためには、そこまでにすべての競技で、試合はもちろん、それ以外の部分でもみんなで頑張らないといけないことがたくさんあると思います。とにもかくにもまずは競技で結果を出して世の中の方に知ってもらうことが一番大事だと思うので、ここからの2年間はデフスポーツにとっては頑張り時というか、このチャンスを少しでも掴んでいきたいですね。そういう意味では、まずわれわれが来年3月に結果を出すことは重要だと思っています。ここまで来たら、初代デフリンピック・チャンピオンを取りに行きたいですし、それが決して夢物語ではない立ち位置に自分たちはいると思うので、しっかりそこを見据えてやりたいと思います。 ――ありがとうございました。デフリンピックでの優勝、期待しています!山本典城(やまもと・よしき) 大学までサッカーをプレーした後、フットサルに転向。2013年からデフフットサル日本女子代表チームの監督を務める。今回のワールドカップでチームを優勝へと導き、最優秀監督賞を受賞した。1975年生まれ、奈良県出身。
悲願の世界一! デフフットサルW杯を制した日本女子代表チーム山本典城監督インタビュー(全3回/第2回)

悲願の世界一! デフフットサルW杯を制した日本女子代表チーム山本典城監督インタビュー(全3回/第2回)

11月9日~18日、ブラジルで開催された第5回ろう者フットサル世界選手権大会(デフフットサルワールドカップ2023)。世界一を決めるこの大会で、日本女子チームが見事に優勝を果たした。代表チームの山本典城監督のインタビューをお届けする。(全3回/第2回)取材・文/編集部 写真協力/一般社団法人日本ろう者サッカー協会 取材協力/ケイアイスター不動産株式会社――予選2試合を1勝1分けで、3戦目の相手がアルゼンチン。この試合から体調不良で前の2試合に出られなかった酒井藍莉選手が戻ってきて、岩渕亜依選手、阿部菜摘選手、中井香那選手と、ゴールキーパーの芹澤育代選手がスタメンでした。 山本典城監督(以下同) 自分の考え方として、スタメンにあまりこだわりはないんですけど、ゲームに入って行く流れの中で、一番バランスが取れるフィールドプレーヤー4人だったと言えると思います。中井はディフェンスでしっかり相手にプレッシャーをかけられる選手だし、酒井は後ろでバランスを取れる。その両サイドに経験のある岩渕と阿部を置いて、あまり波が出にくい4人ではあるので。そこはこの4年間積み重ねてきた中でスタートしていくっていうのが一つの流れとして積み上がってはいたので、酒井が試合に戻った時点でそこに戻しました。キーパーに関してはここまで出場のなかった芹澤を起用しましたが、GKコーチの松原とも話をする中で、今後の試合のことも考えてこのタイミングで一度起用する形を選びました。キーパーに関しては國島、芹澤ともに高いパフォーマンスを維持できていたのでとくに心配はありませんでした。 ――アルゼンチンはどのようなチームだったのでしょうか。アルゼンチンについては、正直、事前の情報がなくて、どれくらいできるんだろうというのは未知数だったんです。でも、開幕戦のブラジル対アルゼンチンを見て、組織的な部分の構築は全然できていないなと感じました。とはいえ1人1人を見ると、技術を持っている選手が何人かいましたね。それと南米特有の負けず嫌いの気質というか、やはり気持ちの部分はうまい下手に関係なくピッチで出せる選手がたくさんいるチームではあったので、簡単な試合にはならないとは思っていました。それでも、自分たちがやるべきことをしっかりとやれば勝ち点を取れる試合だと考えていました。 ――4対0と完勝でした。ドイツ戦で少し流れを止めてしまった部分を、アルゼンチン戦でしっかり勝って取り戻すというところも結構意識してはいました。ですので、ディフェンスに関しても、しっかり前から行きました。ドイツ戦とは打って変わって、この試合は確実に勝ち点3を取りに行くっていうことを明確に選手にも伝えて試合に入ったので、それが実際に結果としても出たのかなと思います。とはいえ、もっと点は取れましたけどね、チャンスはたくさんあったので。 ――アルゼンチンにいい形で勝った後、続くアイルランド戦は1対1の引き分けでした。この試合は大会の中でも日本のターニングポイントでした。アイルランドは日本とやるまでは全敗していたんです。普通にやるべきことをやれれば、問題なく勝ち点が取れるだろうと思っていました。それに、この試合に勝てば日本の決勝進出、つまりデフフットサル史上初のメダルが確定するという状況の中での試合でもありました。それが引き分けに終わってしまい、おごりみたいなものはチームの中には決してなかったはずだったんですが、蓋を開けてみると全然走れてなくて。走れていないと、チャンスをたくさん作っても決められない。試合全体として、選手たちの気持ちが空回りしていたというか、気持ちがあまり伝わってこない状態でしたね。 ――想定外の悪い出来で引き分けてしまったと。たしかに暑さもあったんですけど、なんでだろうっていうところは、試合中でも常に自分で考えながらやっていましたね。ただ、実力差はあったので、先制点を決めてからずっと日本が支配していた中で、最悪このまま1対0で終わるだろうなという思いもありました。でも、そこが隙でもあったと思うんですよね。1対0から追加点を奪えなくて、結局、最後残り30秒ぐらいで相手に取られてしまったんです。この状況でこのシュートはないだろう、っていう点の取られ方でしたけど。この試合が引き分けに終わって、それですべてが終わったわけではなかったんですけど、本来であればアイルランドに勝って決勝進出を決めて、次の予選最後のブラジル戦は決勝戦を想定した上でいろいろな戦い方ができるなっていうことは考えていました。ブラジル戦の勝敗に関係なく決勝へ上がれる状況を作れていたはずなのに、それを取りこぼしてしまったわけです。それはもう全員がわかっていましたし、試合後は一気に天国から地獄に落ちるような状況に陥ってしまった雰囲気がありました。当然、切り替えてやるしかないとチームには伝えたんですけど。ホテルに戻って何が良くなかったのかということをいろいろ振り返りました。それで、アルゼンチン戦でももっと点が取れたはずだというのもあったんですけど、アイルランド戦の引き分けの要因として、チームが一つになれていなかったというのを感じたんです。そして、選手同士の中でも、お互いを信じあえていない、結果一つにまとまっていなかったという話が試合後に出てきました。チームがバラバラの状態で簡単に勝てるような舞台ではないので、まとまりが大切だということはこれまで散々積み重ねてきたはずなのに、本番でそれが崩れるようなことが起きてしまうんだって思って。かなりしんどい状況でしたね。次のブラジル戦までは中一日あったので、まずはとにかく選手だけで腹を割って話すように指示しました。全員、1人1人が思っていることをぶつけるように。デフフットサルの女子の未来を考えた時に、世界の中でしっかりと結果を出していくチームに成長するためには、仲よしこよしでは到底勝てないレベルにきていますし、日本代表という日の丸を背負っている場所で、たくさん応援していただいている中で、責任の部分も含めて厳しさは自分たち自身でも作って、そういうチームにならないとこれ以上の成長は見込めないと思っていましたので。このタイミングでこれを選手に求めることで、逆にチームが崩壊してしまうかもしれないというリスクも考えましたけど、ここをみんなで乗り越えることができなければ、ブラジルに勝つ可能性は低くなると思いました。 ――監督としても判断が難しい状況だったのですね。本当に賭けじゃないですけど、選手たちがこれまで積み重ねてきた思いとか、この大会にかける思いの方が勝ると思ったんです。そこでやっぱりみんなもう1回、一つにまとまれる。選手たちを信じてやらせました。それが良い方向に出て、次は選手にスタッフも交えてブラジル戦のスカウティングのミーティングの前にみんなで腹を割って話して、全員でもう1回本当に一つになろうと言ってブラジル戦に臨んだんです。アイルランド戦の引き分けは、今大会のターニングポイントだったことは間違いないです。この引き分けにも意味があるんだなっていう。結果論なんですけど。アイルランドに簡単に勝って決勝へ行っていたら、多分負けていたと思うんですよね。それぐらい大きな出来事ではありました。(第3回へ続く)山本典城(やまもと・よしき) 大学までサッカーをプレーした後、フットサルに転向。2013年からデフフットサル日本女子代表チームの監督を務める。今回のワールドカップでチームを優勝へと導き、最優秀監督賞を受賞した。1975年生まれ、奈良県出身。
悲願の世界一! デフフットサルW杯を制した日本女子代表チーム山本典城監督インタビュー(全3回/第1回)

悲願の世界一! デフフットサルW杯を制した日本女子代表チーム山本典城監督インタビュー(全3回/第1回)

11月9日~18日、ブラジルで開催された第5回ろう者フットサル世界選手権大会(デフフットサルワールドカップ2023)。世界一を決めるこの大会で、日本女子チームが見事に優勝を果たした。代表チームの山本典城監督のインタビューをお届けする。(全3回/第1回)取材・文/編集部 写真協力/一般社団法人日本ろう者サッカー協会 取材協力/ケイアイスター不動産株式会社――ワールドカップ初優勝、本当におめでとうございます!山本典城監督(以下同) ありがとうございます。 ――まず、今回の代表チームについて教えてください。今回の代表選手選考については、デフフットサルの女子は競技人口が少ないこともあって、ある程度限られた選手の中から世界の舞台でも戦えるという基準みたいなものを自分の中で設定していました。もちろんそれは技術的な部分だけではなくて、チームの一員として、チームにポジティブな部分を与えられる選手、ピッチ外も含めて必要な役割があるので、それに達している選手を最終的に12名選びました。やはり一番大きな問題として、女子の場合、デフサッカーと掛け持ちをしている選手が今まで多かったんです。それだと大会スケジュールの問題などがあって、両方に参加するのはなかなか難しいという私自身の考えがありました。コンディションの問題やケガのリスクも増えます。そういった点で、選手に常々言ってきたことは、フットサルで結果を出すには、やっぱりサッカーと掛け持ちでやっているようではなかなか難しいということです。結果を出すというところを考えれば、フットサル選手として成長するためには日常的にフットサルと向き合わないといけないですし、サッカー選手として成長するんだったらサッカーと向き合わないといけない。そこを両方やるっていうのは、やっぱり難しいと思うんです。今回の12名の選手に関しては、全員がフットサルで結果を出したい、そのために少なくとも前回のワールドカップから4年間、積み上げてきた選手たちです。 ――山本監督の中ではどのようなチーム、どうやって勝っていくチームにしようと思っていたのでしょうか。今大会に関しては4年前の経験も踏まえて、日本の強み、それは自分の中では明確になっていたんですけど、攻守の切り替え、ディフェンスもオフェンスもしっかり組織として連動していけるという強みを生かしたいと考えていました。それと他国と比べると日本はチームとしての活動日数が多く、その差が生まれると思っていました。日本の選手たちは金銭的負担も覚悟して、勝つために、世界一を目指したいということで、明確に目標を設定して、じゃあそのために必要なことは何かっていうところで、活動頻度も含めてトレーニング環境を良くしたり、合宿も増やす努力をしました。世界一を取るために必要なことを、軸をぶらさずに選手にも理解してもらってやっている部分が大きいですね。組織的な部分の落とし込みということころでは、間違いなく他の国よりは積み重ねたものが大きかったですし、実際にそれが今回の結果を生んだ一番の要因だと思っています。 ――他のチームと比べて、練習量も多く、練習でやってきたことを本番で出そうという。はい、そうですね。ワールドカップ期間中に新しいことをやるのではなく、積み重ねてきたものを試合でいかに出せるか。あとは相手との相性だったり、守り方や攻め方もいろいろな形がある中で、どれだけ自分たちがやってきたものをベースに、相手を考慮したうえで引き出しから何を選ぶかという、そこのチョイスを増やす積み重ねをやってきたのと、 選手それぞれがその瞬間瞬間、いい選択、判断ができるためのトレーニングを積み重ねてきました。たとえば、ヨーロッパの選手は体格が大きくて、実際今大会も3チームと戦って1勝2分けと苦戦したんですけど、これまでは強引に体を使って来る相手に力負けしていた部分があったところを、フィジカルの部分も積み上げてきて、我慢しながらディフェンスをする中で、しっかりと自分たちの形でたくさんチャンスを作って、相手よりも多くゴールを奪う。そこがようやく形として出せた大会だったかなと思っています。――そのヨーロッパでチャンピオンとなった強豪、イングランドが初戦の相手でした。今回、当初8チームが参加する予定で、予選リーグは2つのグループに4チームずつが分かれて戦うスケジュールでした。ところが直前でケニアとガーナのアフリカ勢2チームが不参加となり、予選は6チームの総当たりで行われることになったんです。初戦相手のイングランドは同じグループで、本来なら予選の3試合目にあたる予定でした。なのでその前の2試合で決勝トーナメントの進出を決めてからイングランドに臨むという青写真を描いていたんですけど。 ――難しい初戦で、しかも難敵のイングランドに3対0で見事勝利しました。勝って一気に波に乗れたというか。8年前、タイのワールドカップでの最後、順位決定戦で日本はイングランドに負けて終わっているということも含めて、自分たちが積み上げてみきたものが、しっかりと世界で通用することがわかりました。そこの自信を持つには、もう十分すぎる結果と内容だったかなと思います。もちろん、初戦の相手としては、ちょっと嫌でした。初戦の難しさというのももちろんありましたし、イングランドは格上だと思っていましたので。ヨーロッパ選手権とかの映像を見てスカウティングしている中でも、個々の技術の高さは日本より上だと思っていました。それと、日本にとってネガティブな部分は、国際大会での経験があまりにも少ないことです。ヨーロッパは毎年ヨーロッパ選手権をやっていて、そういう緊張感のある戦いをやっていますし、日本は体の大きい相手とやる経験が少ないがゆえに、やっぱり始まってみないと選手たちがどこまで相手からプレッシャーを感じるかというところが、あまり読めなかった部分がありました。そういうことも含めて、初戦にイングランドとやって失点もなく、いい形で結果を出せたっていうのは、本当に今大会の一つの大きなポイントだったと思います。――続く予選の2試合目はドイツと0対0の引き分け。これはタラレバの話なんですけど、今考えると結果的に試合の入り方がよくありませんでした。イングランド戦に関しては、やっぱりガンガン自分たちで前からプレスをかけていくことができたのですが、ドイツ戦に関しては、相手が始まってすぐにかなり引いた状態でディフェンスをし始めたので、余裕を持ってボール保持ができてはいたものの、その状態からリスクをかけて何かを選択するっていうところをやらなかったんですね、私の選択として。その部分が、ディフェンスでもオフェンスにおいても、少し選手たちのプレーを消極的にしてしまったかなと思います。引いた相手に付き合ってしまったというか。試合の入り方、自分の伝え方がうまくいかなかったところは、反省の多い試合だったと思っています。ドイツも日本のイングランド戦を見て、多分引いてきたと思うので、そういう部分では2試合目にして日本の見られ方っていうのが一気に変わった感触のある試合でもありました。とはいえ、やはりずっと引いていた相手に対してゴールを奪えなかったっていうところは、今後の課題として持ち帰って来てはいますね。勝つためにはリスクを背負わないといけない部分もあるけれど、自分の中でドイツとは最低でも引き分けて勝ち点1を取れば全然悪くないっていうのが頭のどこかにあって。もちろん勝ちに行きましたけど、引いた相手に対してもっとどこかでリスクを背負ってチャレンジしないといけない部分があったのは確かでしたね。それを選手たちにはっきりと伝えることができませんでした。(第2回へ続く)山本典城(やまもと・よしき) 大学までサッカーをプレーした後、フットサルに転向。2013年からデフフットサル日本女子代表チームの監督を務める。今回のワールドカップでチームを優勝へと導き、最優秀監督賞を受賞した。1975年生まれ、奈良県出身。
第3回KEIAI杯車いすバスケットボール大会 開催!

第3回KEIAI杯車いすバスケットボール大会 開催!

ケイアイスター不動産株式会社が主催する「第3回KEIAI杯車いすバスケットボール大会」が11月25日、本庄総合公園体育館(カミケンシルクドーム)で開催された。「NO EXCUSE」「埼玉ライオンズ」「千葉ホークス」「神奈川VANGUARDS」「COOLS」の5チームが参加3回目の開催となる今回は、「NO EXCUSE」「埼玉ライオンズ」「千葉ホークス」「神奈川VANGUARDS」「COOLS」の5チームが参加。会場には多くのファン、サポーターが訪れ、東京パラリンピックでの銀メダル獲得以来、俄然注目を集める車いすバスケの人気ぶりがうかがわれた。スピード、チェアワーク、ぶつかり合い。車いすバスケは生で観るのが一番!神奈川VANGUARDSの鳥海選手も参加。人気・実力とも現在ナンバーワンのプレーヤーだ大会は出場チームによる対抗戦のほかに、各チーム代表選手によるオールスターマッチを開催。さらに、一般参加ができる車いすバスケフリー体験会、出場選手とチームを組んで戦う5on5ゲームが行われ、車いすバスケをより身近に感じられる、とても楽しく、そして貴重な1日となった。5on5には一般も参加。選手とチームを組んで戦ったケイアイスター不動産はパラスポーツを積極的に推進する企業のひとつで、2019年4月には障がい者アスリートによる「ケイアイチャレンジドアスリートチーム」を発足させ、現在、デフフットサル、デフサッカー、ろう者柔道、車いすバスケットボール、車いすバドミントンの各競技に日本代表選手を含む計9名のアスリートが所属している。ケイアイチャレンジドアスリートチームに所属するデフフットサル日本代表の岩渕選手(右)、中井選手(左)と山本監督。先のW杯では決勝でブラジルをPK戦の末破り見事優勝! すごい!  世界一 おめでとうございます!今大会もパラスポーツをより身近に感じ、競技に興味を持ってもらい、パラスポーツの体験を通して障がいへの理解と選手たちとの交流を深めることを目的として主催している。パラスポーツの普及にとって、非常に価値のある取り組みであることは間違いない。試合結果、表彰選手【第1試合】神奈川VANGUARDS 66 VS 22 COOLS【第2試合】千葉ホークス 46 VS 34 埼玉ライオンズ【第3試合】神奈川VANGUARDS 43 VS 29 NO EXCUSE【第4試合】埼玉ライオンズ 45 VS 41 COOLS【第5試合】千葉ホークス 47 VS 42 NO EXCUSE【スリーポインター賞】スリーポイントを一番多く得点した選手/COOLS 永田裕幸、神奈川VANGUARDS 丸山弘毅【ベストファイブ賞】活躍した選手を主催者が選定/COOLS 永田裕幸、神奈川VANGUARDS 古澤拓也、埼玉ライオンズ 北風大雅、千葉ホークス 池田紘平、NO EXCUSE 橘貴啓【MVP賞】会場のみなさんからの投票で決定/神奈川VANGUARDS 丸山弘毅取材・文・写真/編集部
【注目!パラスポーツ紹介】フライングディスク

【注目!パラスポーツ紹介】フライングディスク

全国障害者スポーツ大会の13種目のうち、もっとも参加者が多いのは陸上競技だが、驚くのは、その次に多いのが「フライングディスク」。全国大会には1500名もの選手が参加する。「いつでも」「どこでも」「誰とでも」お皿1枚で楽しめるフライングディスクの魅力に迫る! ※『パラスポーツマガジンvol.13』(2023年9月発売)に掲載された記事です。取材・文/齋藤隆久 写真/中里慎一郎 取材協力/特定非営利活動法人日本フライングディスク連盟フライングディスクとは?1940年代、アメリカの大学生がパイを焼くブリキの皿を投げ合って遊んだのが始まりといわれているフライングディスク。プラスチックの円盤1枚でできる手軽さと、競技のシンプルさから、障がい者種目としても注目され、1968年の第一回スペシャルオリンピックスの正式種目に採用された。2001年からは全国障害者スポーツ大会の正式種目になり、競技人口も年々増えている。フライングディスク競技会の大きな特徴は、障がいの種別によ るクラス分けがないことだ。身体障がい、知的障がい、精神障がいなど、障がいの種類を問わ ず、全員が同じフィールドで競技を楽しむことができる。この ようにクラス分けのない障がい者スポーツは、他には見当たら ない。限りなく制限の少ないフライングディスク競技フライングディスクはその名の通りディスクを投げて競うのだが、そのテクニックは超シンプル。ベースとなる持ち方や投げ方があるにはあるが、当然のことながら、そのやり方がすべてのプレーヤーに当てはまるわけではない。基本は基本として、そこから先は自らの工夫で、自らのやりやすい方法を見つけ出せば良い、という考え方だ。ルール上も、投げ方に規定はなく、手、足、口など体のあらゆる部分を使って投げることが認められている。さらに、視覚障がい者や車いす使用者に関しては、投げやすいようにスローイングラインのプレーヤー側の側面に触れてもよかったり、ゴールが設定されている種目では、ゴールの位置を示す音響装置の使用も認められたりしている。それぞれの障がいに合わせて工夫する余地が残されているところが、フライングディスク競技の良さである。使用する用具はこれだけ!  フライングディスクは、プラスチック製の円盤だ。障がい者用の公式ディスクは直径23.5cm、重さが約100g(±5g)。そして、競技に使用するのは、この円盤1枚 持ち方、投げ方ともに自由! ただし、ベーシックな持ち方、投げ方を知っておくことは大切【持ち方】初心者でも安定して投げられるクラシックグリップ。ディスクの上に親指を置き、リム(外周)に沿って人さし指を伸ばす。残りの指でディスクのリムを軽く握る。あまりぎゅっと握るとリリースがうまくいかないので注意。【投げ方】投げる方向に対して体を横向きにして立つ。ディスクを地面と平行にキープして後ろに引き、そこからスナップを利かせて体の前あたりでリリースする。このとき、ディスクに回転をかける意識で投げると軌道が安定する。 競技種目① 飛ばした距離を競う「ディスタンス」3枚のディスクをできるだけ遠くをめがけて投げる。3枚のうち、一番遠くに飛んだ距離を計測し、その距離を競う。プレーヤーはスローイングエリア内で試技を行う。さらに、試技の前に一投の練習をしなければいけないルールとなっているが、この時使用するディスクは競技用と同規格のもので、色は黄色と決められている。試技は3投連続して行い、投げられたディスクの有効範囲は、競技フィールド前方180度。つまり、とにかくスローイングエリアよりも前に飛べば、計測の対象になるということだ。距離の計測は、スローイングラインの中央の計測点から、ディスクが最初に地面に触れた点までとなる。計測は1センチ単位で、メートルで記録する。競技種目② 正確性が求められる「アキュラシー」アキュラシーには、ゴールまでの距離の違いで、ディスリート・ファイブ、ディスリート・セブンという競技がある。アキュラシーゴール(内径91.5㎝)に向けて、5mまたは7mの距離からディスクを投げ、通過した回数を競う。ゴールに触れて通過しても得点になる。ただし、ディスクは地面に触れずに、直接アキュラシーゴールを通過しなければいけない。試技は10投連続して行う。プレーヤーが視覚障がい者の場合は、競技役員がアキュラシーゴール後方3mの距離から電子音によってゴール中心部の位置を知らせることができる。音源はプレーヤーが聞こえる程度の音量とし、プレーヤーの手からディスクが離れるまで鳴らすことができる。

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