第5回 上野動物園園長 土居利光さん

上野動物園は1882年の開園以来、多くの人々に愛される日本最初の動物園。都立でありながら日本を代表する動物園である。
迷うことなく園芸学部へ進学
 そんな私が将来への道を考え始めたのは高校生の頃です。当時は公害問題や環境問題が騒がれ始めました。いわゆる都会育ちである私は、都市に自然を回復させる、そんな格好いい仕事をしてみたいという気持ちがありました。希望する内容が学べそうな園芸学部造園学科が当時、千葉大学にありましたので、この学部と東京農工大学の植物防疫学科を受験し、結果として千葉大学に進学しました。
 大学では都市計画および地方計画を専攻しながら、私が師事した教授の提案を受け、「子どもの遊び場」をテーマとして研究しました。これはとてもいい勉強になりましたね。子どもの遊び場は必要ない、と聞くと違和感を覚えるでしょう。遊び場といえば公園などを想像し、親もそこへ連れていけばいいと考えるのが普通ですよね。しかし遊びとは本来好きな場所、好きな方法で創り出すもので、与えられるものではないと思うのです。
 このように、当たり前だと思われていることを取り外し、根本から自分で見直すことの重要さを研修の過程から学び、今でもこの考え方を指針として物事に取り組んでいます。
 国家公務員試験にも合格していましたが、もともと故郷である東京で仕事をしたいと思っていました。ちょうどその頃、当時の美濃部亮吉都知事が唱えた『広場と青空の東京構想』という画期的な計画書に触れました。なにより広場、青空というキーワードから広がる世界に感銘を受け、都で緑地計画の仕事をしてみたいとの思いがますます募りました。そこで私は面接で無謀にも「都市計画以外は考えていません」と言い放ちます。思えば若さゆえの傲慢さでしょうが、先方が私のような技術屋を求めていたことも幸いし、希望通りの部署である首都整備局企画部に採用されました。
 最初に手がけたのは、東京都の国土利用計画の策定です。田中角栄元首相が唱えた『日本列島改造論』などもあって地価が高騰したことに対応する計画でした。とはいえ新人ですから、主な仕事は会議用資料のコピー取りです。当時のコピーは時間もかかり、何よりコピー機の前に張りついていないといけないので手持ち無沙汰で、そこで資料を読んでいました。
 またこの頃、女性はお茶汲みをさせられるような時代でした。私は女性だけお茶汲みをさせるのは、どうにも腑に落ちなかったので一緒にやりました。この東大卒の女性には「勉強して出世しないと何もできないわよ」と発破をかけられ、管理職試験の勉強を共に始めました。結果として早いうちに管理職試験に合格出来たので、彼女には感謝しなくてはいけませんね。


生き方、心構えを決定づけた研修
 東京都は徹底的に研修を行うのですが、首都整備局には生物系の新人が一人だけだったので、公害局の研修に参加することになりました。そんなある日、私の仕事観、心構えを決定づけた公害局規制部長・田尻宗昭さんの研修がありました。田尻さんは、公務員ながら日本で初めて公害事件の刑事責任を追及し、「公害Gメン」とも呼ばれた方です。前職である海上保安庁時代から現職までの、田尻さんの仕事に対する情熱に涙ぐむほど感動し、自分もこうありたいと強く思いました。私が生き方や仕事観に影響を受けた方は大勢いますが、中でも筆頭は田尻さんであり、この研修でしたね。それ以来常に情熱をもって取り組めたわけではないし、怠惰な面も出てくるのですが、田尻さんから学んだ命がけで仕事に取り組む姿勢は、今でも私の仕事に取り組む際の哲学です。
 また影響を受けたと言えば、母の几帳面さにも大きく影響されました。2年前に亡くなった母は、手が動かなくなるその日まで毎日日記を書いていました。その姿に背中を押され、私も今までの経験を論文として残そうと思っています。他にも人に迷惑をかけないこと、自分のことは自分ですることなど、多くを学びました。母が倒れ、介護が6年もの間続きましたが、母は病院が嫌いで家で過ごすことを望んでいたので、自宅往診など皆さんのお力を借り家で看取ることができました。本音で言えば介護は疲れましたし、立場上必ず必要となる出張や残業もままならない日々でしたが、母にはいい晩年を過ごしてもらったと思います。


数年ごとに様々な職場を経験
 企画部には3年いましたが、植物に関わる仕事がしたいという思いが届いたのか、緑政計画課に異動し多摩地区を担当します。ここでの体験で強烈に覚えているのは、補助金で関わった講演の開園式に出向いたら「都から土居様に祝辞をいただきます」と突然スピーチを振られたことですね。この頃はまだ20代半ば。もちろん原稿になっている祝辞の読み上げすら経験がない身ですから大層面食らいました。背中にかいた冷や汗は未だに忘れられません(笑)。
 そして入庁7年目には管理職試験に合格し、係長として南多摩新都市開発本部で多摩ニュータウンの酪農と緑の対策に携わります。ここでは現地に何度も足を運び、酪農の方々と対話する日々です。3人のチームで役割を決め、交渉に臨みました。時には酪農家の方から牛乳を勧められ「美味しいですね」と伝えたところ、おかわりまでいただきました。しかしその場で絞った生の牛乳なので、帰りの電車でお腹が猛烈に下って……なんてこともありました。もちろん説明会などでは激しい言い争いもありましたが、結果的にいい関係を築けたと思います。
 次の職場は23区の人事委員会で、ここは採用や昇格などあらゆる試験の問題作成が業務です。今でこそ厳しいでしょうが、この頃は「問題作成のため図書館へ」と伝えれば、終日外出も許されるのんびりした職場でよかったですね。しかし問題文の検討などチェックに関しては極めて綿密かつ厳格な仕事でした。会議を何度も繰り返し、誤読や誤解が万にひとつもあってはならない文章を作成する、貴重な勉強をさせていただきました。



<<戻る つづきを読む>>
2/3


一覧のページにもどる
Copyright(c) 2000-2024, Jitsugyo no Nihon Sha, Ltd. All rights reserved.