第64回 劇団「宇宙堂」主宰者 渡辺えり子さん

舞芸時代『不思議の国のアリス』(一九七四年頃)
劇団3○○『オールドリフレイン』シアターモリエールにて。読売新聞夕刊掲載(一九八七年四月)
/写真:山添徹。
勉強よりも演劇が大事
 高校での三年間は,演劇にどっぷりと浸った毎日でした。四〇度ぐらい熱があって学校を休んでも,公演の稽古を休むとみんなに迷惑がかかってしまうのでどうしても休むわけにはいきません。ですから,クラブ活動だけは夕方の四時頃から学校に行って練習をしていました。校内ですれ違った先生に「渡辺,今日は休みじゃなかったのか」と声をかけられて,「いや,クラブ活動がありますので」と答えたら,さすがに先生はあきれていましたね。
 テストの点が悪くて,数学の先生にはよく職員室に呼び出されました。「渡辺,一日十五分でもいいから数学を勉強してくれ」と頼まれるのですが,「いや,それはできませんね。忙しくて」と言って私は断っていました(笑)。当時は文化祭の委員長をやったり,演劇部以外にも演劇部員でない人を集めて『グスコーブドリの伝記』を演出したりしていたので,忙しくて本当に授業に出る時間がないほどだったのです。
 毎晩遅く帰宅しても,父も母も何も言わず,好きなことをやらせてくれました。ただ,人にうそをついたり,いい格好をしておごったりすると「自分を何だと思っているんだ」と叱られました。倫理観がとても厳しい親でした。
 稽古が始まると学校の友人たちがいつも家に泊まりにきていました。友人たちの多くは,雪深いところから列車で二時間ぐらいかけて通ってくるのです。当然,稽古が夜遅くまでかかるので帰れなくなります。うちは高校から歩いて三分の距離だったので,みんな泊まっていきました。母親が布団を敷いてくれたり,四,五人分のご飯を作ってくれたり,衣装を全部作ってくれたりと全面的に協力してくれました。今考えればすごくありがたい親ですよね。

本格的に演劇を志す
 将来は上京して演劇の世界に進もうと決心したのは,高校一年生の時です。先輩と一緒に山形県民会館で文学座の『ガラスの動物園』という公演を見て,いすから立ち上がれないほど感動したのです。アマンダの役を長岡輝子さん,トムが江守徹さん,ジムが高橋悦史さん,ローラを寺田路恵さんが演じていました。当時,江守さんと高橋悦史さんが二十八歳。それを見ていた私が十五,六歳です。本当にすばらしい舞台で,涙を流しながら「こういうのをやりたい」と心底思いました。
 実は,京都大学の漢文科に進みたいという気持ちもあって悩んでいました。ところが,公演後に訪れた楽屋で長岡輝子さんに相談したところ,「役者に学歴は必要ないからすぐにやったほうがいい」とアドバイスをしてくださったのです。翌日から私は勉強をしなくなりました(笑)。
 高校卒業後に上京すると,私は舞台芸術学院という学校に入りました。私が東京で一人暮らしをすることについて,両親はとても反対しました。東京には知り合いが誰もいないし,演劇というのは雲をつかむような仕事で絶対にお金にならないと考えていたのです。私は親を説得できずに,半ば強引に上京してしまいました。最後は親も折れてくれて,入学金を出してくれました。もっとも,後に私は親に入学金を返しましたけれど…。
 両親からは毎月三万円ずつ仕送りがありましたが,それだけでは暮らしていけません。東京ではアルバイトに明け暮れる毎日でした。朝は電話番のアルバイト,昼間はトレースのアルバイト,夜はホステスのアルバイトというように,稽古がないときは三つも掛け持ちでやっていました。
 豊かな暮らしではなかったものの,贅沢をしたり,高価な服を買ったりすることには興味がありませんでした。私には舞台の上に夢があって,舞台の上でドレスを着られたら,それで満足だったのです。当時は劇団用のドレスやカツラを丸井の月賦で買っていました。それ以外のものは自分で作っていましたが,全然苦ではなかったですね。何よりも大好きなお芝居ができることのほうがうれしかったのです。人と比べることはしなかったし,自分の芝居のことしか考えていませんでした。

劇団を立ち上げる
 舞台芸術学院を出た後は,劇団「青俳」の演出部をへて,劇団「2○○(にじゅうまる)」を結成しました。ところが,当時お世話になっていた美輪明宏さんが「字画が良くない」とおっしゃったので,「3○○(さんじゅうまる)」という名前に変えたのです。劇団の名前には,真ん中の円を地球にとらえて,その地球にあるありとあらゆるパターンを越えた芝居をやりたいという思いが込められていました。また,数字の劇団名というのは珍しいし,活字になった時に目立ってすぐに覚えてもらえるのではないかと考えたのです。
 当初は稽古をする場所がなかったので,美輪さんの家のリビングルームを借りたり,劇団員にお寿司屋さんの娘がいたので,お店の二階を借りたりしていました。いつの日か自分たちの稽古場を持つのが夢でした。
 人手が足りなかったこともあって,作・演出だけでなく,ポスター作成,舞台美術,舞台衣装も自分でやりました。ですから,寝る暇もないくらい忙しかったのです。あまりの忙しさに,一ヵ月ぐらいお風呂に入れなかったこともあります。
 でも,苦労は苦労でもおもしろい苦労でした。お金がなくて辛かったけれども,アルバイト先の人がカレーライスをごちそうしてくれたり,洋服をくれたりして何とかなったのです。周りの人のおかげで生きながらえたという感じでした。当時はそういう心意気のある人がたくさんいたのです。
 そうしてお金を使わずに済んだ分を,芝居や映画を見るということに使えたのです。お腹がすいても,映画を見ると胸が一杯になったので,食べなくても平気でした。昔はフェリーニの七本立てを三百円で見られたのです。
 そうやって貧乏を逆手にとっていました。芝居の中にも取り入れて,むしろ楽しんでいました。たとえ不幸でも,暗くならずに「ああ,なんて不幸なんだ」と言いながら,しょっちゅう笑っていましたね。

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