第63回
作家
松谷みよ子さん
2004年12月号掲載


PROFILE
作家。一九二六年,東京に生まれる。坪田譲治に師事し,一九五一年,『貝になった子供』を出版,第一回児童文学者協会新人賞を受賞。以後,『ちいさいモモちゃん』(野間児童文芸賞)をはじめとする〈モモちゃんとアカネちゃん〉シリーズや〈オバケちゃん〉シリーズ,〈松谷みよ子赤ちゃんの本〉シリーズ,『ふたりのイーダ』『まちんと』などの戦争児童文学,『龍の子太郎』(国際アンデルセン賞優良賞)などの創作の他,民話採集の仕事を『現代民話考』にまとめるなど,精力的に活動している。日本民話の会運営委員。「びわの実ノート」同人。松谷みよ子民話研究室を主宰。

「小さい時にノートに詩のようなものを書いていました。その頃から書くことは好きだったのでしょう。ただ残念ながら,そのノートは戦争で焼けてしまいました」
何かを創る人になりたい
 私が練馬に移り住んだのは五,六歳の頃だったと思います。その頃はまだ武蔵野の風景がたくさん残っており,農家や原っぱが点在していました。そうしたのどかなところを一人でぶらぶらと歩きながら,いろいろなことを空想していました。
 父は弁護士でした。昭和天皇がまだ皇太子の時に起きた狙撃事件の,犯人の難波大助に弁護人に指名されたことがありました。また,四国の高松事件という小作人争議では,弁護団の団長を務めたこともあります。後に,父は普通選挙に立候補して衆議院議員になりましたが,母が申すには父は弁論一本だったそうです。当時の革新は大変でした。演説中に警察から「弁士中止!」とさえぎられたり,留置所に検束されたりしたのです。父の演説会場に母と差し入れを持って行くと,女性と子どもは中へ入れてくれないので,どうしてなのかと幼心に憤慨したのを覚えています。
 父は私が十一歳の時に亡くなりました。生前の父は「政治よりも芸術が尊い。だから何かを創る人になりなさい。しかも一流でなければ駄目だ」と言っていたそうです。そうした父の言葉を姉から聞かされていたせいでしょうか。私は小さい時から何かを創る人になりたいと思っていました。
 一方,母は子どもの教育について,ほとんど何も申しませんでした。ただ,一つだけこんなことを言っていました。「女は一生台所に立たにゃならん。だから今,本を読みなさい。本を読まんと馬鹿になる。とにかくうちのことはせんでいい。嫁に行けば何でもできるから」。明治の女性なのに,お茶やお花を習えというようなことを言わない,珍しい人でした。ですから,私は当時刊行された小学生全集やアルスの児童文庫,赤い鳥の童話などをせっせと読んでいました。

思い出深い『しっぺい太郎』の話
 父も母も金沢出身ですが,昔話を語ってくれたことはありませんでした。そんな我が家でたった一人だけ,お手伝いの若いお姉さんが私に昔話の『しっぺい太郎』をお風呂の中で聞かせてくれたのです。
 ある日,旅のお坊さんが山の中で行き暮れて,お堂に泊まりました。すると,真夜中に村人が白木の棺に入った人身御供の娘を運んできました。そして大あわてで村人たちが去ると,今度は怪しい化け物が出てきて,歌を歌い始めたのです。
「あのこと,このこと,聞かせんな。信州信濃の山奥の,しっぺい太郎に聞かせんな」
 歌い踊って,しっぺい太郎がいないことを確認すると,化け物は娘を連れ去ってしまいます。その一部始終を隠れて見ていたお坊さんは,信州信濃まで一年かけてしっぺい太郎を探しに行くのです。ところが,ようやく探し当てたしっぺい太郎はなんと犬でした。お坊さんはしっぺい太郎を村に連れて帰ります。その年,再び白羽の矢が立って人身御供の娘が決まると,今度はその娘の代わりにお坊さんとしっぺい太郎が一緒に白木の棺に入って,娘になりすますのです。そして再び化け物が現れると,しっぺい太郎が棺から飛び出して化け物を退治してしまいました。
 私はその話がとてもおもしろくて,近所に住む仲のいい子としっぺい太郎ごっこをして遊んでいました。サルスベリの木に登って,白羽の矢が立つのをどきどきしながら待つのです(笑)。ふりかえると,子どもの頃からそういう昔話が好きだったのですね。

なぜ童話なのか
 昭和十九年頃,私は女子挺身隊で海軍水路部に勤務していました。私の所属した海軍水路部は築地ではなくて,世田谷の方へ疎開していました。そこが爆撃されることは無かったものの,行き帰りは始終空襲です。電車は窓が全部壊れていて,板が打ちつけられていました。車内はいつも真っ暗です。座席のシートは剥がされており,座っているとシラミが下からはい上がってくる有様でした。
 戦争中は,空襲警報が発令されるたびに防空壕に飛びこまなくてはなりませんでした。そして翌朝になると,昨夜はどの方角の空が真っ赤に燃えたかを確認するのです。東京に三軒あった家は全て空襲で焼けました。母は焼夷弾の中を逃げまどい,姉は空襲で生き埋めにあい,私も艦載機からの機銃掃射の中で九死に一生を得たのです。
 次第に戦争が激しくなってきたので,私たち一家は信州に疎開しました。当初,私は疎開先で小説を書きたいと考えていました。ところが,書こうとすると言葉はたくさん出てくるものの,相手を傷つけることになるだろうと思うようになったのです。空想の世界ではない世界を書きたいので,否応なく仮面を引きはがすようなことになります。
 一方,童話というのは凝縮した世界を書くので,生々しく人を分析したり,裏側を覗いたりして人を傷つけるということがありません。それに人の裏側をみる,それが真実だろうかと思い,私は童話という手法を選んだのです。

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