第61回 映画評論家、映画監督 水野晴郎さん

「私はアメリカ映画からたくさんのことを教えられました。そこで,アメリカをもっと知るために,常に社会の底辺を走っているアメリカの警察を研究することにしたのです」
どうしても映画の仕事がしたい
 高校卒業後は国家公務員の初級職を受けて,地元の郵便局の貯金課に勤めました。ただ,私の中では次第に東京で映画の仕事をしたいという気持ちが強くなっていったのです。そこで東京の映画会社に履歴書を送ることにしました。特に洋画の仕事がしたかったので,二〇世紀フォックスやワーナーブラザースなどアメリカの映画会社に送りました。しかし,返事は全くありませんでした。
 ところが一年後に,二〇世紀フォックスから「席が空いたから来ないか」という手紙が届いたのです。とても驚きました。詳しいことはよくわからなかったので,休みを取って東京へ話を聞きに行きました。すると,正社員ではなくてアルバイトという待遇だったのです。しかも当時の外国の映画会社は雇用条件がとても厳しく,五日間勤めて次の週に仕事がなければお払い箱でした。
 これは困ったと思いました。帰りの夜行列車の中で悩みに悩んだ末に,翌日,勤務先の上司に「長い間お休みをもらってすみませんでした」と言おうとしたら,思わず「長い間お世話になりました」と言ってしまったのです。すでに心の中では決めていたのでしょう。約四年間勤めた郵便局を辞めて,明くる日には上京していました。
 アルバイトとはいえ,せっかく入った映画会社です。自分から仕事を探そうと考えました。人の仕事を取ってはいけないので,誰もやっていない仕事を探したのです。
 社内には皆さんが忙しくて手つかずになっている,海外からの資料が山のように積まれていました。私はそれを下宿へ持ち帰って少しずつ翻訳し,謄写版で刷って冊子を作ってみたのです。今でいうフリーペーパーです。新聞社や雑誌社に配ってみたところ,私の書いた原稿をおもしろがって使ってくれるようになりました。記事やラジオで紹介されるうちに,次第に社内でも話題になっていったのです。ついには会社が私のことを認めてくれて,晴れて正社員になることができました。


突然の母の死
 二〇世紀フォックスの正社員になった直後に,岡山の母が危篤との知らせを受けました。今は新幹線で四時間ほどですが,当時は夜行列車で丸一日かかりました。私が駆けつけた時には母はすでに亡くなっていました。
 郷里には弟が三人,妹が一人いました。みんな私とはだいぶ年齢が離れていて,一番下は当時小学生でした。父は先年にこの世を去っており,集まった親戚は残された弟や妹を私では育てられないと思ったのでしょう。弟や妹を全員分けて育てる計画を立てていたのです。しかし,私の考えは違いました。「兄弟は一緒に住まなければ駄目だ」と親戚一同を説得すると,弟妹を連れて夜行列車で東京に出てきたのです。
 それから私たちが生きていくための闘いが始まりました。それまでは三畳一間の下宿でしたが,兄弟五人は住めないので六畳のアパートを借りることにしました。冷房も電気洗濯機も電気釜もない時代です。私も炊事や洗濯をしましたが,弟たちも本当によくやってくれたと思います。
 とにかく,以前よりももっとお金を稼がなければなりません。私は映画に関する記事を書くアルバイトを始めました。ちょうど週刊誌が出始めた頃で,雑ネタをいっぱい求めていました。私がフリーペーパーを出していたのが幸いして,各誌がどんどん記事を書かせてくれたのです。今考えると,この記事を書くという経験が,後の解説や批評の仕事に大いに役立ったと思います。


二十九歳の宣伝部長
 二〇世紀フォックスに勤めて四年半近くたった頃,ユナイト映画からヘッドハンティングされました。三倍ぐらいの額の給料を提示された上に,宣伝部長という待遇です。これはありがたいお話だとユナイト映画に移りました。
 ユナイト映画に移ってからは,それまで以上に仕事に打ち込みました。なにしろ,当時の私は二十九歳の宣伝部長です。周囲は「どうせ務まらない」と笑うので,負けるものかという気持ちは常にありました。
 当時,私が最初に扱った作品が『ピンクの豹(ピンクパンサー)』でした。これがまずまずの成功を収め,次に手がけたのが同年の正月に公開された『大列車作戦』です。これは原題が『トレイン(列車)』だったのですが,『大列車作戦』と題名を変えたところ,大当たりしました。
 同じ時期に『トプカピ』という映画もありました。トルコの宮殿の宝石を盗む話で,周囲からは「当たらない」と言われていたのを大当たりさせることができたのです。この二本の映画でみんなが私のことを認めてくれたようでした。その後もいろいろな作品に携わって,ユナイト映画には約十年間お世話になりました。


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