第49回
女流棋士
高橋 和さん
2003年10月号掲載


PROFILE
女流棋士。一九七六年,神奈川県生まれ。四歳の時,トラックにひかれて左足を大けがした。父親の手ほどきで六歳から将棋を始め,小学六年生で佐伯昌優八段門下の女流育成会に入会。当時,最年少の十四歳で女流プロ棋士デビューを果たす。一九九五年,鎌倉高校卒。二〇〇〇年に女流二段。四大タイトルの一つ,倉敷藤花戦で一九九九年から二〇〇一年まで三年連続ベスト四位。二〇〇三年現在,A級(トップ10)に通算六期在位。二〇〇一年度(第四十回)詰将棋看寿賞を女性として初めて受賞(短編部門)。著書に,幼少時に遭った交通事故をめぐる家族愛と棋士人生を振り返った「女流棋士」(講談社)がある。

十四歳で大人の世界に入ることに対して抵抗感はありませんでした。右も左もわからないですから,先輩たちには本当に助けていただきました
ゲーム好きの負けず嫌い
 私は小さい時から負けず嫌いで,なんでも最後までやらないと気が済まないところがあります。
 たとえば,いとこの家へ遊びに行くと,私が一番年下でどんなゲームも弱いのですが,負けると「もう一回,もう一回」とせがんではいとこたちを困らせていました。いとこたちも優しいので「和,すごいね」と私のことを持ち上げて勝たせてくれるのですが,そうすると私もますます気をよくして「もう一回やろう」ときりがありませんでした。しまいには叔母がそんな私を見かねて「ケーキがあるからこっちへいらっしゃい」と私の気を紛らわせようとするのですが,私は全然言うことを聞かなかったようです。とにかく人一倍ゲームが好きで,負けず嫌いでした。
 私の両親はそんなに教育熱心ではなかったのですが,小,中学校時代は夕飯までの四時から六時までは勉強をやるようにと言われていました。私は「ひとつの答え」というのが好きで,小学生の時は算数が得意でしたが,国語はどうも苦手でした。
「このとき主人公はどう思ったのでしょう」という文章問題で,私が「こう思った」という答えを書いても,解答と照らし合わせるとだいたい間違っていることが多かったのです。「そんなの主人公でもないのに,なぜわかるの」と,私にはどうしても納得できませんでした(笑)。


兄を泣かした将棋との出会い
 将棋との出会いは,父がきっかけでした。父は弱いながらも趣味でやっておりまして,「男なら将棋ぐらいできなくては」という気持ちで私の兄に将棋を教えようとしたようです。そうしていざ,父が兄に将棋を教えようとした時に,たまたま横で見ていた私も「やる」と言い出したので,しかたなく父は私もいっしょに将棋を教えてくれたのです。ところが,ある程度できるようになって,兄と私で将棋を指し始めたのですが,何度やっても私の方が勝ってしまうのです。しまいには,妹に負けたことが悔しくて兄は涙が止まらなくなってしまい,父も兄があまりにも弱いので,私だけに教えるようになりました。父は弱いとはいえ少しはできましたから,当然,私の方が負けてしまいます。でも,そこで私は「もうやりたくない」と言って投げ出すことはしませんでした。負けても必ず「もう一回やろう」と言うので,父も「この子なら続けられるかな」と思ったようです。
 始めた頃は,将棋に対して特別な意識はありませんでした。たくさんあるゲームの中のひとつというイメージでしたから,もし父が囲碁を好きで,将棋ではなく碁盤を取り出してきたら,恐らく私は囲碁の道に進んでいたと思います。たまたま私が出会ったのが将棋だったのです。

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