第20回 活動写真弁士 澤登 翠さん

欧米では活弁付きの無声映画は,映画よりもむしろ演劇に近いと言われますね
チャップリンの娘さんに抱きしめられる
 これまでにアメリカやヨーロッパ各地の映画祭や演劇祭に呼ばれて十回以上の海外公演にも出かけましたが,これには理由がありまして,実は弁士付きの無声映画というのは世界にも類のない日本独自の演出法なんです。似たようなものは韓国やベトナムにも一部あったそうですが,それぞれの活動常設館が専属の弁士や楽団まで持っていたのは日本だけなんです。これには義太夫,落語,講談,浪曲と,語り芸全般が好きだという日本人の心情があります。映像をただスクリーンに映すだけでは日本人は満足しなかったんですね。だから西洋の人たちからすると,弁士付きの映画というのは未知との遭遇だったわけです(笑)。
 海外公演では不安もありました。こちらは日本語で語るわけですから,果たして楽しんでもらえるかと。ところがこの不安は杞憂に終わりました。どこの国でも笑いあり涙ありと,たいへん喜ばれたんです。「日本語の意味はわからないけれど,あなたの声を聞いていると登場人物の感情が自然に伝わってくる」と握手してくれる人もいれば,「弁士は過去の映像を現代につなげる仲介者だ」と言ってくれる人までいて,こちらが逆に感動させられっぱなしでした。先年,来日したチャップリンの娘さんのジェラルディン・チャップリンさんの前で,「街の灯」を語らせていただきましたが,終了後,私に近寄ってきてくださって「すばらしい」と抱きしめてくれたんです。もう涙が出るほどうれしかったですね。


映画は人間の歴史
 おかげさまで無声映画と活弁のファンも少しずつですが増えてきています。全国各地の上映会にも呼ばれることが多くなりまして,年間百八十回公演させていただいた年もあります。昨年の十二月には鶯谷に無声映画の常設館「東京キネマ倶楽部」というシアターレストランも完成しました。私も週末には出演しておりますので,ぜひ学校の先生方はもとより,生徒さんたちの総合学習としてもいらしてほしいと思います。
 先日,世田谷区の中学校で「キッド」を演じさせていただきましたが,CGをふんだんに使ったハイテク映画を見て育った世代ですから,八十年前のローテク映画ではみなさん飽きて騒いでしまうかとちょっと心配していましたが,もう目を輝かせて鑑賞してくれたんです。終わった後の質疑応答でも次から次へと質問が出ました。「澤登さんにとって映画とは何ですか?」なんてハイレベルな質問まで出て,こちらがどきどきしたくらいです。「若い人は活弁というとトンカツ弁当のことだと思うんじゃないかしら」と思っていた自分が恥ずかしくなりましたね(笑)。
 このときの質問にはとっさに「人間の歴史です」と答えましたが,これは本当です。映画からは当時の生きた人間の歴史が学べます。そこには庶民の生活が描かれ,貧富の差や階級の差が描かれ,戦争が描かれ,そんな中でもくじけずに力強く生きていく人々の姿が描かれます。もちろん堅苦しいだけではありません。銀幕の中ではチャップリンやキートンが所狭しと走り回り,阪妻や大河内傳次郎が大立ち回りをし,ヴァレンティノやガルボが恋に身を焦がす。映画からは歴史以外にも多くのことを得ることができるはずです。
 弁士になって今年で二十九年目を迎えることができましたが,振り返るとすべては我が師,松田春翠先生のおかげだとつくづく思います。戦後,散逸しかけていた無声映画を私財をなげうって収集保存,四十年間に集めたフィルムはなんと七千巻にも及びます。無声映画鑑賞会を設立し,各地で活弁公演をしては無声映画の灯を守りつづけてこられた。もし先生がいなかったら無声映画の世界はとてもさびしいものになっていたと思います。私は活弁映画の復興という先生の遺志を継ぐためにもより一層精進していきたいと思っています。
 さらにもうひとつの夢があります。無声映画の台本を書いて,自分で監督するという夢です。昔の人が撮ってくれた作品を演じるだけではなく,一本でもいいから自分の時代にも無声映画を撮って,未来の弁士たちにプレゼントしたいですからね。
 以上,澤登翠はひとりゴーイングマイウェイ,我が道をいく,一巻の終わりであります(笑)。
(構成・写真/寺内英一)
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