第15回 日本酒評論家
篠田次郎さん
2000年12月号掲載


PROFILE
しのだ・じろう 昭和八年宮城県出身。福島大学経済学部卒業。建築家。吟醸酒研究家。化粧品,建材会社に勤めた後,四十年に独立して設備設計事務所を設立。一般住宅,ビルの設計を本職とするが,新潟県内の酒蔵を設計して以来,全国五十カ所の酒蔵を手がけた。これで酒との関係が密になり,五十年,「幻の日本酒を飲む会」を設立。吟醸酒ブームの仕掛け人といわれる。のち病気のため徐々に視力が衰え,平成七年失明。以後もパソコンを使い,執筆活動をつづける。十二年吟醸酒の定着とともに二十五年間つづけてきた会を解散。著書に「日本の酒づくり」「吟醸酒への招待」「吟醸酒の来た道」「吟醸酒誕生」ほか多数。

六十%以下に精米した白米を原料に醸造した酒を吟醸酒といいます
陸軍大将になるのが夢だった
 宮城県の仙台市に生まれましたが,父親が廃品回収業の親方をしていて,かなり信用のある人間だったものですから,いわゆる車引きのおじさんたちを百人ぐらい雇っていた。鉄道省御用達で忘れ物の傘なんかを卸してきて,それを中古品屋に売る仕事もしていたから,どちらかといえば裕福な家庭だったと思います。子ども時代は成績優秀のいい子でした。あの時代,ほとんどの子どもたちがそうであったように,将来は陸軍大将になるのが夢でしたね(笑)。同級生の父親に陸軍の高級将校がいたんですが,毎日,馬に乗って師団まで通っている。その姿を見ては憧れたものです。
 両親は教育に関しては何もいいませんでした。仕事が忙しくてそれどころではなかったと思います。三歳から幼稚園に通いましたが,小学校・中学校を含めて,父兄会も運動会も一度も親がきたことがありません。寂しくもあったけれど,そのかわり自由放任でのびのびと子ども時代を送れましたね。蝉を何十匹も捕ってきては,「おまえ,そんなに捕って佃煮にでもするつもりか」なんて,父親に冷やかされたこともあります(笑)。そのうちに戦争が激しくなって,ついには強制疎開。阿武隈川沿いの山の中で終戦を迎えました。
 戦争が終わっても,兄はソ連に抑留されていて帰ってこれるかどうかもわからない。気楽な次男坊として生きてきたところが,そうもいかなくなってきた。家の仕事を手伝うためにも算盤くらいできなきゃならないということで,仙台市内の商業学校に入ることにしました。
 この学校の授業が面白かった。実際に商店や会社に行って,そこで職場体験学習をするんです。ぼくは仙台で一番大きなデパートで学習したんですが,そのときの体験がその後の人生を左右しましたね。二十五,六歳の係長さんが担当者で,その人にくっついて学習するわけですが,彼の経済についての教養に圧倒されたんです。それまで商売なんていうものは,「毎度あり」と言っていれば何とかなると思っていたのが大間違いだと気づかされた。この世に生を受けて十七年,初めて学問の大切さに気づいたわけです(笑)。
 そのときは兄も復員してきてましたから,急遽,大学進学に方向転換しました。翌年,絶対に落ちるだろうと思いながらも受験した福島大学経済学部でしたが,なぜか受かってしまいました(笑)。


酒蔵との出会い
 入学直後は「公認会計士を目指して脇目もふらずにがんばるぞ」と高い志をもっていましたが,ところがどっこい,そうはいかないものです。寮の仲間に頼まれて野球部のマネジャーを引き受けたのを手始めに,お酒の味を覚え,映画館に入り浸り,音楽活動までするようになった。大学四年のときには四つのアマチュアオーケストラを掛け持ちしてはトロンボーンを吹いていた。勉強した記憶はほとんどないですね(笑)。
 卒業後,東京の大手化粧品メーカーに就職しました。この会社は受験すると日当がもらえるというんで受けてみたところ,大学入試と同じで,なぜか受かってしまったんです(笑)。しかし,いざ入ってみると,人間関係から会社の雰囲気まで,もう何から何まで腐りきっている会社で,結局一年九ヶ月で辞表を叩きつけました。
 東京から仙台に帰った私は,小さな建材会社で働き始めました。ここの社長さんがアイデアマンで,断熱材なんかのいろんな建材をつぎつぎと開発するんです。私は酒蔵の麹室をつくる仕事を任されました。これは温度や湿度の調節が重要な鍵になるものですから,断熱材に強いうちの会社に依頼がきたんです。社長から「おまえ,新潟にいって麹室を作ってこい」といわれても最初はどうしていいかわかりませんからね(笑)。麹室はどのぐらいの面積や高さ,そして性能が必要なのかもわからない。もう一から勉強でした。
 当時はまだ空気調和という概念がない頃で,教科書らしい教科書もなかった。しばらくして早稲田大学の先生が「空気調和ハンドブック」という本を出しましたが,あれが日本で初めての本格的な入門書だと思います。実際に日本の酒蔵の設計に空気調和という学問を持ち込んだのは,私が最初だと思います。それで「面白いことをやる若いやつがいる」ということで名前が売れるきっかけにもなった。
 なにはともあれ,これが酒の世界と本格的に付き合っていく第一歩でした。ただ,会社が急成長で路線拡大したものだから,ちょっとしたつまずきがありました。私は取締役になっていましたから責任を取るつもりもあって,会社を辞めました。入社して七年目のことでした。

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