第2回 マンガ家
北見けんいちさん
1999年11月号掲載


PROFILE
本名・北見健一。昭和十五年十二月十一日生まれ。中国新京(現長春市)出身。二十一年日本に引き揚げ、東京下町で育つ。多摩美術大学付属芸術学園卒業後、埼玉県鶴瀬に写真店を開く。三十九年赤塚不二夫氏のアシスタントとなり十七年つづけたのち四十歳で独立。青年コミック誌を中心に、読者と等身大で感情移入のできる主人公を生み出し、人気を確立。代表作に「焼跡全ガキ連」「釣りバカ日誌」「親バカ子バカ」「焼けあとの元気くん」「愛しのチイパッパ」「野球少年」など。五十四年に連載開始された「釣りバカ日誌」は西田敏行・三国連太郎の共演で映画化もされ、現在十二作目が撮影中。小学館漫画賞、日本漫画家協会賞優秀賞受賞。

けんかに明け暮れた子ども時代でしたね
わが故郷、満州
 ぼくの生まれ故郷は、満州の新京というところです。現在の長春市。両親とも東京生まれですが、大日本印刷に勤めていた父親が満州支社に転勤になり、結婚したばかりの母親も一緒に連れていったのです。そんなわけで、ぼくと弟は満州で生まれました。日中国交回復後、同じく満州生まれの赤塚不二夫先生と一緒に生まれ故郷を訪ねたのですが、正直、街並みのようすも、住んでいた家もすっかり忘れ去っていました。ところが人間の記憶というのは不思議なもので、児玉公園、いまは勝利公園となっていますが、その公園に一歩足を踏み入れた途端、この公園でよく父親と遊んだことや、ちょっと先にデパートがあったことなど、当時の記憶が走馬燈のようによみがえってきた。こうなるともう止まらない。自分たち家族が住んでいた家に向かって足が勝手に動き出したのです。驚いたことに当時の家がまだ残っていて、中国の人が何家族かで住んでいた。でも三年前にふたたび訪ねると、そこには団地が建っていた。なんだかどっと気が抜けてしまいましたね。

シベリアに抑留された父
 満州からの引き揚げについては、幸いわが家はそれほどの苦難には合わずに日本に帰ってこれました。新京には日本人がたくさん住んでいたため、落ちついて団体行動が取れたんです。ただ、父親だけは一緒に帰れなかった。父親は八月十日に現地で召集され、兵隊さんを五日間やっただけでシベリアに抑留されてしまったんです。五年後、帰還した父親に聞いた話では、一度も鉄砲を撃ったことがないという(笑)。いまでは笑い話だけれど、当時の母親の胸中を思うと笑ってばかりもいられない。髪を切り、男の格好をした母親は、乳飲み子だった弟を背負い、ぼくの手をしっかり握りしめながら、何日もかけて引き揚げ船の出る港までたどり着いた。青酸カリも懐に忍ばせていたという。だからテレビに中国残留孤児の姿が映るたびに胸が痛みます。あの混乱の中で、もし母親が自分の手を離していたらと想像すると背筋が寒くなる。子どもを中国人に預けて引き揚げてきた人たちも責めることはできません。これは母親から聞いた話ですが、弟を知り合いの中国人に預けるかどうかで悩んだこともあったそうです。当時は、日本に帰っても、またすぐに中国に迎えにいけると思っていた人が多かったらしく、「落ちついたら迎えにくるよ」といって中国人に預けた人も大勢いたそうです。

都内を転々としていた
 昭和二十一年の十月、両親の生まれ故郷でもある東京・板橋にたどりつきました。あの頃の板橋は原っぱがあって、小川もあって、まるで童謡に唄われる世界そのものでした。ただ、生活は本当にきびしかった。小学校だけで五回転校しました。少しばかり生活が楽になったのは朝鮮戦争が始まってからです。母親が板橋の蓮沼にあった米軍基地で働けるようになり、やっと近くの都営住宅で三人一緒に暮らせるようになった。それまで、ぼくと弟は親戚の家に預けられたりと、都内を転々としていました。だから一緒に暮らせるようになったときは本当にうれしかった。毎日、学校から帰ると七輪に火を起こし、やかんにお湯をわかしては、母親が仕事から帰ってくるのをまっていた。いまは子どもに火をつかわせるようなことは、あぶないといってやらせない親も多いですが、当時の子どもたちはみんなやっていましたね。

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