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  新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その1)

新しい仕組みをTOKYOのレガシーに~櫻井誠一~(その1)

「小学校の時、泳ぐのはもっぱら海でした。今のように学校にプールはありませんでしたし、海洋訓練のようなものがあって、『ここからここまで泳げたら水泳帽に線○本!』という世界です」 ご自身の水泳歴を語る櫻井さんは、笑顔に満ちている。高校の水泳部で活躍、偶然入った神戸市役所に水泳部があり、実業団選手としても活動、三〇回連続全国大会出場を果たしている。当時は1964年の東京オリンピックのレガシーでもある実業団チームが華やかなりし時代。鉄鉱、造船など重厚長大産業の会社が、いろいろなスポーツのチームを抱えていた。 また神戸市は1981年に神戸ポートアイランド博覧会を開催。埋立地に新しい都市を作るという動きのなかで、ポートアイランド博覧会で造った施設を使っていろいろなイベントを積極的に行なっていた。 その一環で1989年、フェスピック(極東南太平洋身体障害者スポーツ大会)神戸大会が行なわれた。櫻井さんは水泳部の監督をしていたので、福祉局から協力の要請があり、水泳部のメンバーで障がい者選手のクラブを指導しはじめたのが障がい者水泳に関わるようになったきっかけだ。 「選手がひとりで練習するよりも、チームで練習したほうがいい、であればクラブチームを作ろうということで『神戸楽泳会』というのを作りました。 それまで障がい者水泳はリハビリの視点からのアプローチが主でした。正直なところ、みんな自己流で泳いでいました。まさしく抵抗の多い泳ぎばかりをしていたんです。 楽泳会、という名前ですが、「楽しく泳ごう」という意味ももちろんあるのですが、競泳の考え方のほうが『効率的に』『楽に』泳げるのです」 クラブ結成後、フェスピック大会の前に行なわれた全国大会で、楽泳会の選手たちがリレーをはじめ多くの種目でメダルをとってしまった。全国から「なんでそんなに強くなったんだ?」と驚かれたという。 その後は、全国の障がい者スイマーにも指導をしてほしいということになり、技術委員という形で団体(日本障害者水泳連盟)に入り、1994年にマルタ共和国で行なわれた第一回IPC世界水泳選手権大会には日本代表チームの監督として参加。1996年のアトランタパラリンピックは監督として、2000年のシドニーパラリンピックにはヘッドコーチとして参加。世界のパラアスリートを目の当たりにすることになった。


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