第8回 教育YouTuber 葉一さん
運命を決めた出会いと言葉
 しかしそんな中学校の教育実習では、今でも私の根幹となる生徒との出会いがありました。ある日、実習生の待合室で外を眺めていたら、授業時間に3人の女子生徒が屋上にいたんです。なぜだろうと話しかけてみると、いずれも保健室登校をしている生徒で、後で知ったのですが、そのうちひとりは睡眠薬の多量摂取で自殺未遂し、2か月前に退院したばかり。その日以来なんだか彼女達がとても気になって、実習には単位が取れるギリギリだけ参加して、空いた時間はその女の子たちとずっと話をして過ごしました。
 すると実習が終わる頃、その子が私に向かって「先生と話して、もう死ぬのやめるから」と言ってくれたんですね。その言葉に、私は教育に命を賭けようという生きる意味をもらったんです。当時もまだ私はいじめのトラウマで、死にたいと思う事は度々ありました。教師になりたいという夢はあっても、まだ心が弱っていた私が、こういう子たちにひとりでも出会い、救える仕事を目指そうと思ったんです。
 同時にこの時、教師の道には完全に見切りをつけました。教師ではどう頑張っても、自分のクラスや学校にしか目が届かないという限界があります。もっと広く、多くの子どもたちを救える道はないものかと模索するようになりました。ちなみにこの子とは今でも繋がりがあって、よく連絡を取り合っています。実習生の時に彼女との出会いがなかったら、今の仕事にたどり着く事はなかったでしょうね。
 教師を諦めたことを両親に伝えると、最初こそ戸惑ったものの「まあいいんじゃない?」と許してくれました。でも今になって父親と話すと、本当にショックだったと言われますね。お金がない中で大学に入れてもらった負い目は今でも感じていて、だからこそ、親にとっても自慢の息子でいたいという自覚があります。今は、私がリクルートの動画サイト・勉強サプリの仕事や、講演会に招かれている事をすごく喜んでくれています。
 教師の道を諦めた私は、大学を出て営業マンとして働き始めたのですが、その選択にはふたつの考えがありました。ひとつは、当時は仕事を塾講師に定めていたのですが、子どもたちと話し、授業力も上げるにはトーク力が必要だと感じていました。もうひとつには、自分の修業のためにきつい仕事をしたかったんです。誤解を恐れず言えば、教育の世界はちょっとぬるま湯に浸かる感じがありました。社会の仕事を全く知らない先生が職業体験などの話をしても全然説得力がない。もし最終的に教師になる可能性があるとして、その時に社会を知らない教師が子どもたちに夢を持てなどと言える自信が自分にはなかったんです。
 当時の先輩に一番きつい仕事が何か聞いて、飛び込みの営業仕事に就きました。家を一軒一軒回って教材を売り込む仕事で、30軒呼び鈴を鳴らせば、29軒には叱られる世界。無言で切られればまだ良い方で、「何時だと思ってんだ」「警察呼ぶぞ!」というのが普通の反応です。子ども用テストの販売なのですが、毎日鍛えられました。  この時は所長にも恵まれました。まだ二十代でしたがとても優秀な方で、その方から目線の使い方や、トークの間の取り方を全部教えてもらいました。他にも業界のマニュアル、虎の巻的なものから心理戦まで教わり、それがYouTubeでの授業に全部投影されていますね。
 私自身の営業成績は微妙でした。新卒としては結構売れても、先輩方には足元にも及びません。経験がものをいう世界でもあるので、先輩とは何が違うのかを考えていくと、やっぱり間の取り方や話し方の違いに気づかされました。  きつい仕事を、という選択肢で選びながらも、徐々に楽しさを見いだしたのですが、腎臓の持病が悪化し、社会人として長く生活したいなら今辞めた方がいいとの医者の言葉を受けて10か月で辞めました。しかしこの時期で一生分怒られましたね。多分、人生であれほど怒られることはないでしょう。ただ訪問される側からすると気持ちもわかります。セールスお断りの貼り紙が貼っていても突撃していましたから(笑)。


塾講師初日にトップ奪取宣言!
 その後、2か月後には埼玉県にある塾の講師に採用され、教育の世界に戻りました。今では20教室ぐらいある中堅どころの塾です。ここは個別指導が売りで、小学生から高校生まで、小中では全教科、高校ではできる教科全てを担当しました。当時23歳、お兄さんみたいな存在ですから生徒もやりやすかったでしょう。年輩の講師が多い中、若さという特権は大いに使い、また生意気も言いました。当時は業績も良くなく、講師も覇気のない塾でしたので、初めての研修後、反省会に参加した時に「何かひと言ありますか?」の問いに私は「ここにいる全員抜いてみせます」と宣言(笑)。しかしそれは覇気のない先生に教わっている子どもを不憫に思うゆえ、本気を見せて怠惰な講師には辞めてもらうしかないという、私なりの腹をくくった宣言だったんです。そのうち契約社員から成り上がり、半年以内にトップ講師になりました。徐々に塾も改善されてきて業績も上がったのですが、悪化してゆく会社の体制に不満が募り、最終的に辞めましたね。とはいえ他の塾に移るのでなくノープランでの退社です。
 この時代に考えさせられたのがお金の事です。個別指導で月謝がすごく高いんですね。子どもが入塾を希望していても多くの親御さんからは、月謝がとても払えないからと拒否されました。教育にお金がかかるのは理解できるし、所得格差があるのも仕方ないのですが、子どもが選べる教育の選択肢に影響するのはどうしても納得がいきませんでした。塾講師を辞め、教育格差の解消を目指し1年間考え抜いた結論が、ネットで無料授業をする今の形です。


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