新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第6回
東陽片岡さん
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PROFILE
昭和33年(1958年)、東京都生まれ。多摩美術大学美術学 部デザイン学科卒業後、編集プロダクション勤務のかたわら 執筆した漫画作品が『ガロ』を発行する青林堂の伝説的編集 者である故・長井勝一氏の目に留まり、同誌にて漫画家デビ ュー。人々の生活を精緻な筆力で哀愁を込めて描く作品は、 業界内外に多くの熱狂的ファンをもつ。

小学生時代は『ハレンチ学園』!
 生まれは東京の板橋区、仲宿です。都立北園高校近辺にあったアパートで生まれ、4歳までそこで暮らしていました。両親はどちらかと言えば放任主義で、3歳上の姉と私は子供の頃からのびのび育てられました。昭和37年に十条へ引っ越ししましたので、子どもの頃の記憶といえばこの十条が主ですね。そばには十条銀座という、今はアーケード街になっていますが当時は古びた商店街があって、乾物屋や洋品屋など雑多な店が軒を連ねていました。
小学校時代はひと言で言えば「エロガキ」です。隣の女の子にちょっかいを出したり、上の階に住んでいた少し不良のお姉さんの部屋に忍び込み心をときめかせたりと、その頃流行していた永井豪先生の『ハレンチ学園』そのままでした。学校が終わればランドセルを放り投げ遊びに出て行く毎日で、勉強はからきしで教科書は落書きだらけでしたが、図画工作などは好きでしたし、実際先生にも褒められたりして、自分より上手い奴はいないと自信過剰になっていました。



20年に渡り愛用しているステテコに半纏姿が冬の執筆スタイル。 小さく低く流れるムード歌謡をBGMに、ひたすら机に向かう。

スポ根よりもギャグ漫画に熱中
 とりわけ漫画は生活の一部と言っていいほど大好きで、マガジン、サンデーは毎週欠かさず、他にもキングやジャンプを購入していましたが、当時雑誌の中心であった『巨人の星』や『あしたのジョー』といったスポ根ものよりも、赤塚不二夫先生、谷岡ヤスジ先生などギャグ漫画に熱中していました。4歳の頃に初めて覚えた歌も『スーダラ節』でしたから、根っからギャグが好きだったんでしょう。また、そういったメジャー系雑誌とは対極にある『ガロ』も、この頃親戚の家で目にして衝撃を覚えました。『墓場の鬼太郎』『ねじ式』……。独特の雰囲気に魅了され、それ以来私のバイブルと言えるほどに、深く心に刷り込まれていますね。
中学生の頃には、強烈に覚えていることがあります。十条には斎藤酒場という、昭和3年開業の名居酒屋があるのですが、そこに私が通う中学校の教師が毎日のように通っていました。よっぽどストレスがたまっていたのでしょうか、いつ見る時も正体なくベロベロに酔っぱらっていましたね(笑)。みっともない姿で商店街を千鳥足で歩いている様を見て、ああなってはいかん、絶対に教師にはなるまいと強く思ったものです。
 中学1年生からは上板橋に引っ越し、ここで20歳過ぎまで暮らすこととなります。相変わらずの漫画好きでしたが、同じくらい興味を惹かれたのは車です。日本グランプリなどのカーレース観戦に夢中になりました。この頃抱いた将来の夢はカーデザイナーで、車のイラストを描くことに熱中しました。先日、中学生の頃にポスターカラーを用いて描いたスカイラインGT-Rの絵がたまたま見つかったのですが、我ながら上手く描けていましたね。


進路を定めるも早々に挫折……
 高校に進むと車に加えバイクにも思いは募り、工業デザイン系に興味をもちました。高校でもごく短期間美術部に所属しましたが、美大へ進路を定めるためにはもっと本格的にデッサンを学ぼうと決意し、お茶の水美術学院という美大受験の予備校に通い始めます。予備校には相変わらず自分より上手い人などいないだろうと踏んでいたのですが、これがとんでもない! べらぼうに上手い人達がゴロゴロいるんです。
 また美大受験は狭き門で、浪人が当たり前。何せ私立の美大で10〜20倍、学費の安い東京芸術大学に至っては40倍という世界です。結果三浪を経て、何とか多摩美術大学美術学部に合格します。さらにはカーデザイナーになりたい私が志望したプロダクトデザイン科では不合格でしたが、これ以上浪人するわけにも行かないので合格したグラフィックデザイン科に渋々進学しました。
 入学はしたものの、グラフィックデザイン科はポスターや印刷物など広告関係向けの授業で、工業デザイン希望の私には興味が持てません。身が入らず悶々として、趣味のオートバイとアルバイトに没頭する日々を過ごしました。日払いのアルバイトに狙いを定め、製本屋や工場、デパートの飾り付けなどで小銭を稼いでは、テントを積んで一人ツーリングへ。学校には話の合う仲間は少ないので、行く先々のキャンプ場で同じようなライダー達とたわいもない世間話をしたりするのは新鮮でした。強面な暴走族のお兄ちゃんであっても、ツーリング先では和気あいあいとした雰囲気になるのが可笑しかったですね。
 とはいえ大学で何もしなかったわけではなく、当時大賞を取れば広告の仕事が山ほどやってくると噂されていたグラフィック展に毎年応募したりもしました。もちろん落選ばかりですが、この経験で、自分にはあまり彩色のセンスはないのだなと、弱点を客観的に判断することができました。


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